第84話 旧バルツァー派の影は、港にも残っていた
王弟府の調査室は、王宮の中でも特に音が少ない。
人はいる。
書類もある。
扉の向こうでは、調査官たちが低い声でやり取りをしている。
それでも、王太子府や財務院のような紙のざわめきはない。
ここでは、声を荒らげる者が少ない。
怒りも、疑いも、焦りも、いったん紙の上に置かれる。
その静けさが、クラリスには少し怖かった。
レオンハルトは机の向こうに立ち、薄い資料束を広げていた。
横には王弟府調査官のカレル。灰色の髪を短く整えた、表情の少ない男である。
財務院からはエリオット。
港湾記録の説明役としてボルク。
そしてクラリスとオスカー。
机の中央には、三つの名前が並んでいる。
リーヴェ商会。
旧バルツァー派に近い財務院旧派。
港湾仲介人、ギデオン・マース。
クラリスは、最後の名を見つめた。
「ギデオン・マース」
声に出すと、妙に乾いた響きがした。
レオンハルトが頷く。
「港湾区で、商会同士の荷役手配や倉庫変更を仲介していた男だ」
「正式な財務院職員ではないのですね」
「違う。だが、港湾ではこういう仲介人が動く。商会と倉庫、荷役人、時に財務院の現場担当との間を取り持つ」
ボルクが苦い顔で補足した。
「港は書類だけでは動きません。船が遅れる、倉庫が埋まる、荷役人が足りない。そういう時に、顔の利く仲介人が手を回すことがあります」
「違法ですか」
「全部が違法ではありません」
ボルクは正直に答えた。
「便利屋に近い者もいます。ただ、便利な場所には金が流れます。そこに古い財務院筋が絡むと、途端に臭くなる」
その言葉は、かなり直接的だった。
クラリスは記録用紙へ視線を落とす。
オスカーがすでに書いていた。
港湾仲介人:非公式ながら、倉庫変更・荷役手配・商会間調整に関与する者。合法・非合法の境界が曖昧。
「リーヴェ商会とギデオンの関係は?」
クラリスが尋ねると、カレル調査官が資料を一枚出した。
「過去二年の港湾倉庫変更記録に、ギデオン・マースの名が補助者として複数回出ています。直接署名ではなく、備考欄や連絡記録に残っている程度です」
エリオットが、財務院の帳簿写しを開く。
「リーヴェ商会の記録では、倉庫変更理由が“保管都合”または“一部別納”と書かれています。そのうち、いくつかの変更日が、ギデオンの仲介記録と一致します」
「南施療院の未着事件とは?」
レオンハルトが、別の紙を指で押さえた。
「同じ仲介人名がある」
部屋の空気が重くなった。
南施療院。
そこは、この善意確認制度の始まりに近い場所だった。
膝掛けが届かなかった。
届いたことになっていた。
確認費がなかった。
記録が薄かった。
その未着事件と同じ名が、北方慈善交易路の薄い記録にも出てくる。
偶然かもしれない。
港湾仲介人が多くの商会に関わっていたなら、名が重なること自体はあり得る。
だが、あり得ることと、見過ごしていいことは違う。
「まだ証拠ではありませんね」
クラリスは言った。
レオンハルトは頷く。
「証拠ではない。足跡だ」
ミレーヌが昨日書いた言葉を、クラリスは思い出した。
影ではなく、足跡を見る。
「では、足跡を増やしましょう」
クラリスは言った。
「リーヴェ商会、ギデオン・マース、南施療院未着事件。この三つが重なる記録を洗います。倉庫番号変更、別納、差し替え、減免申請、商会引渡書、受領先確認」
エリオットが頷く。
「財務院側の帳簿は私が確認します。ただし、旧派に近い者にはまだ知らせない方がよいでしょう」
「危険か」
レオンハルトが尋ねる。
「危険というより、資料が動く可能性があります」
エリオットの声は硬かった。
その言い方で十分だった。
資料が動く。
つまり、消えるかもしれない。
書き換えられるかもしれない。
クラリスは、胸の奥に冷たいものを感じた。
「王弟府で保全できますか」
「可能な範囲で写しを取る」
レオンハルトは答えた。
「ただし、表向きは共同調査の記録照会だ。いきなり不正調査として動けば、相手も身構える」
「承知しました」
カレル調査官が静かに言った。
「まず、第三北方倉庫の倉庫番ダンに聞き取りをします」
「ダンさんに?」
「過去の倉庫変更と別納について、現場の記憶を確認します」
ボルクが少し眉を寄せた。
「ダンは真面目な男です。不正に関わっているとは思えません」
「疑ってはいない」
レオンハルトが言った。
「だが、現場にいた者の記憶は必要だ」
クラリスも頷いた。
「責めるためではなく、分からないことを分からないまま記録するためです」
ボルクは、その言葉で少しだけ表情を緩めた。
「それなら、私も同行します」
「お願いします」
午後、第三北方倉庫へ向かう馬車の中は、いつもより静かだった。
クラリスは窓の外を見ていた。
港湾区へ近づくにつれ、王宮の整った街並みが少しずつ変わる。
石畳に泥が混じり、馬車の車輪の音が重くなる。
商人、荷役人、船乗り、魚売り、帳簿を抱えた若い書記。
王宮の記録では一行になる流通が、ここでは無数の人の手と足で動いている。
レオンハルトは向かいに座り、資料を見ている。
彼が直接港へ行くのは、目立つ。
だが今回は、王弟府の調査官だけでなく、彼自身も来ることになった。
理由は一つ。
旧バルツァー派の影が見え始めたからだ。
「殿下」
クラリスは静かに言った。
「今日、ダンさんに圧をかけすぎないでください」
レオンハルトは顔を上げる。
「分かっている」
「彼は記録の薄さの原因を知っているかもしれません。でも、不正を知っているとは限りません」
「分かっている」
短い返事だった。
けれど、少し苦い。
「私は、怖い顔をしているか」
「かなり」
ボルクが横からぼそりと言った。
レオンハルトは、彼を見る。
ボルクは慌てなかった。
「港の者は、怖い顔をした権力者を見ると、余計なことを言わなくなります」
レオンハルトは少し黙り、それから息を吐いた。
「努力しよう」
「お願いします」
クラリスが言うと、彼は少しだけ目を細めた。
「君もだ」
「私も?」
「真剣すぎる顔をすると、相手は答案を出すような気分になる」
オスカーが小さく咳をした。
笑いを隠したのだろう。
クラリスは少しだけ頬を引き締めた。
「……努力します」
第三北方倉庫では、ダンが帳場にいた。
彼は一行を見るなり、少し眉を上げた。
「今日はずいぶん物々しいですね」
正直な反応だった。
レオンハルト本人がいる。
王弟府調査官もいる。
財務院のエリオットに、港湾会計担当官ボルク。
そしてクラリス。
倉庫番から見れば、何かあったとしか思えない。
「ダンさん」
クラリスは先に礼をした。
「今日は、過去の倉庫変更について確認したいことがあります」
「俺が何かやりましたか」
「いいえ」
クラリスはすぐに答えた。
「責めに来たのではありません」
ダンは彼女を見た。
信じるかどうか、少し迷っている顔だった。
「では、何です」
「過去に、今なら妙だと思える荷がなかったかを、分からない範囲も含めて記録したいのです」
「分からない範囲も?」
「はい。確信でなくて構いません。不正と決めるためではなく、記録の薄い部分を補うためです」
ダンはしばらく黙った。
それから、ボルクを見る。
「ボルクさん、これは言っていいやつですか」
ボルクは少し苦い顔をしたが、頷いた。
「分かることだけ言え。分からないことは分からないと言え」
「それなら」
ダンは帳場の椅子を引いた。
「座ってください。長くなるかもしれません」
倉庫番の聞き取りは、最初から順調ではなかった。
ダンは誠実だが、記憶を言葉にするのが得意ではない。
「妙な荷、と言われてもな……港じゃ妙な荷はいくらでもあります」
「例えば?」
クラリスが尋ねる。
「雨で濡れたから別倉庫へ移す。船が早く着きすぎて棚が空かない。商会が急に半分だけ持っていく。あとで別の商会が残りを取りに来る。そういうのは普通です」
「普通の範囲と、今思えば妙だった範囲を分けられますか」
ダンは腕を組んだ。
「難しいです」
「では、難しいと記録します」
オスカーが書く。
倉庫番証言:港湾では倉庫変更・別納自体は珍しくない。普通の範囲と異常の境界は即断困難。
ダンは、それを見て少し驚いた。
「そんなのも書くんですか」
「必要です」
クラリスは答えた。
「異常だと決めつけないために」
ダンは、少しだけ表情を緩めた。
「なら、話しやすい」
カレル調査官が、資料を一枚出した。
「この日付に覚えはありますか。昨年の初冬、北方厚織布類、積荷番号 N-318。リーヴェ商会扱い。倉庫変更二回。一部別納」
ダンは資料を見た。
しばらく目を細める。
「……N-318」
彼は帳場の古い台帳を取り出した。
紙をめくる手は慣れている。
やがて、該当ページを見つけた。
「これですね。最初は第二倉庫。次に第三北方倉庫。最後に臨時棚へ移してる」
「理由は保管都合」
「そう書いてありますね」
「実際は?」
ダンは、少し黙った。
「第二倉庫が埋まっていたのは本当です。だけど、第三に移した後で、急に八梱だけ別納になった」
「誰の指示ですか」
「書類上はリーヴェ商会です。ただ、現場に来たのは商会主じゃない。仲介人です」
「名は?」
ダンは眉を寄せた。
「ギデオン……マースだったと思います」
部屋の空気が変わった。
オスカーの筆が、紙の上で止まりそうになる。
レオンハルトは動かなかった。
ただ、目だけが少し鋭くなる。
クラリスは声を落ち着けて尋ねた。
「確かですか」
「確か、と言われると困ります」
ダンは正直に言った。
「顔は覚えています。名も、たぶんそうだった。だけど、署名を取ったのは別の者です。ギデオン本人は、急ぎだからと荷役人をせかしていた」
「何が妙でしたか」
「八梱だけ別納なのに、行き先がはっきりしなかった」
「台帳には?」
「王宮指定先」
クラリスは目を伏せた。
また、その言葉だ。
王宮指定先。
便利すぎる空欄。
「その八梱は、どこへ」
「分かりません」
ダンは言った。
はっきりと。
「台帳上は搬出済み。搬出先は王宮指定先。具体名はなし」
「分からない、と記録します」
クラリスは言った。
ダンは少し苦い顔をした。
「それでいいんですか」
「はい」
「俺が見逃したみたいになる」
「見逃したかどうかは、まだ分かりません。今は、分からないと記録する段階です」
ダンは、しばらく机の木目を見ていた。
「……今思えば妙な荷は、他にもあります」
その言葉で、全員が少し姿勢を変えた。
ダンはゆっくり話し始めた。
急な別納。
保管都合とだけ書かれた倉庫変更。
王宮指定先としかない搬出先。
慈善用らしい赤い印があったのに、商会倉庫へ回ったように見えた荷。
逆に、商業用の布が後日、慈善補填として入ってきた荷。
「ただ」
ダンは何度も言った。
「不正だったかは分かりません」
そのたびに、クラリスは答えた。
「分からない、と記録します」
オスカーの紙には、新しい見出しが書かれた。
倉庫番記憶控え
それは正式証拠ではない。
だが、記録の薄い部分を補う補助記録だ。
誰かの記憶を、断罪の刃にしない。
ただ、次に照会すべき足跡として残す。
ダンは、最初は居心地悪そうだった。
だが、途中から少しずつ言葉が増えた。
「ギデオンは、港では顔が利きました」
「どの程度?」
「倉庫の空き、荷役人の空き、商会の急ぎ荷。そういうのをよく知っていた。財務院の古い担当者とも親しかった」
エリオットが顔を上げる。
「古い担当者とは、誰ですか」
ダンは少し迷った。
「名を出していいんですかね」
レオンハルトが静かに言った。
「分かる範囲で」
「……ハーゲンという男がいました。財務院港湾記録補助官だったはずです。今はもう港にはいない」
エリオットの表情が変わった。
クラリスはすぐ気づいた。
「知っていますか」
「旧バルツァー派に近い人物です」
エリオットは低い声で答えた。
「現在は財務院本棟の別部署にいます。帳簿保管にも関わっていたはずです」
レオンハルトがカレルを見る。
カレルは短く頷いた。
「確認します」
線が、また一本つながる。
ギデオン・マース。
ハーゲン補助官。
リーヴェ商会。
王宮指定先。
南施療院未着事件。
まだ、ただの線だ。
だが、地図になり始めている。
聞き取りが終わる頃、ダンはひどく疲れた顔をしていた。
クラリスは報告書の下書きを見せた。
「この内容で、倉庫番記憶控えとして残します。よろしいですか」
ダンは、紙をじっと見た。
自分の言葉が、王宮の記録になっている。
それは不思議な感覚なのだろう。
「俺は、誰かを訴えたいわけじゃありません」
「分かっています」
「ただ、今思えば妙だった。それだけです」
「そのまま書いてあります」
ダンは、紙の一文を指でなぞった。
不正と断定できないが、今思えば通常より曖昧な搬出であった。
「これなら」
彼は静かに言った。
「これなら、出します」
クラリスは深く礼をした。
「ありがとうございます」
ダンは少し困った顔をした。
「礼を言われるようなことですかね」
「分からないことを分からないまま出すのは、勇気が要ります」
ミレーヌがいれば、きっと頷いただろう。
ダンは照れたように鼻の横を掻いた。
「じゃあ、まあ……役に立つなら」
港を出る時、空は曇っていた。
海風が冷たい。
レオンハルトは、馬車に乗る前に一度だけ倉庫を振り返った。
「ダンは白だな」
ボルクが少し強い声で言った。
「当然です」
「疑っていない」
レオンハルトは答えた。
「むしろ、彼のような現場の者が、曖昧な指示を飲み込まされていた可能性がある」
ボルクは黙った。
港の現場は、上から来た書類に従う。
王宮指定先と書かれていれば、そう処理する。
それが本当にどこなのか、誰のためなのか、倉庫番には見えない。
見えないまま、箱だけを守る。
その箱の中で、善意がどこかへ消える。
クラリスは、冷たい風を吸った。
「王宮指定先という表記を、今後は禁止にしたいです」
エリオットが頷く。
「少なくとも慈善物資では不可にすべきです」
「はい」
レオンハルトが言う。
「次は、ギデオン・マースとハーゲンの足跡だ」
「王弟府で?」
「王弟府で保全する」
彼は短く答えた。
「君は、リーヴェ商会への記録補足照会を進めてくれ」
「承知しました」
王宮筆頭実務顧問室へ戻る頃には、夕方になっていた。
イリスは出迎えるなり、クラリスの顔を見た。
「重いものを持ち帰りましたね」
「ええ」
「箱に入りますか」
「入ります」
オスカーが報告書をまとめる。
表題。
第三北方倉庫聞き取り報告――倉庫番記憶控え
主な内容。
一、倉庫変更・別納自体は港湾では珍しくない。
二、ただし、リーヴェ商会扱いの一部荷で、搬出先が“王宮指定先”に留まるものが複数確認された。
三、港湾仲介人ギデオン・マースの関与が証言された。
四、ギデオンは旧バルツァー派に近い財務院港湾記録補助官ハーゲンと関係していた可能性がある。
五、南施療院未着事件と同じ仲介人名が出ている。
六、ダンは不正を断定していない。記憶控えは補助記録として扱う。
七、慈善物資における“王宮指定先”表記は受領先特定として不十分。
クラリスは最後の行に赤を入れた。
王宮指定先、不可。
イリスがそれを見て、静かに札を置いた。
便利な言葉ほど、中身を見る
「今日は札が増えると思っていました」
「必要でございます」
「ええ」
今回は否定できなかった。
エリオットは、財務院へ戻る前に短く言った。
「ハーゲンの件、私からも内部資料を確認します。ただし、慎重に」
「一人で抱えないでください」
「はい」
「資料が動く可能性があるなら、すぐ王弟府へ」
「承知しています」
彼は深く礼をして去った。
その背中は、以前より少し強く見えた。
危うさはまだある。
だが、彼もまた、記録で戦うことを覚え始めていた。
夜、クラリスは国際案件の箱に、倉庫番記憶控えを入れた。
箱の中には、すでに多くの紙がある。
用途追跡札。
余り布記録。
商会別記録濃度表。
ノルヴァルト側過去事例。
輸出元記録補足様式。
そして今、旧バルツァー派の影が港にも残っていたという記録が加わった。
影。
だが、見るべきは影ではない。
足跡だ。
誰が、いつ、どの荷を、どの倉庫へ動かしたか。
誰の指示で、どの名目で、どの言葉で曖昧にされたか。
そこを見ていけば、いつか影の輪郭が現れる。
クラリスは羽根ペンを置いた。
イリスが終業の札を置く。
今日は帰る
まだ見たい資料はある。
ギデオン・マース。
ハーゲン補助官。
リーヴェ商会。
南施療院。
けれど、今日はここまでだ。
無理に追えば、こちらの足跡も乱れる。
「帰ります」
クラリスが言うと、イリスは満足そうに頷いた。
旧バルツァー派の影は、港にも残っていた。
だが、今度は影だけではない。
倉庫番の記憶が、初めて足跡になった。




