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第79話 セルゲイ大使は、曖昧な言葉を嫌わない

 外交応接室の窓からは、春の庭が見えた。


 芝は整えられ、白い花が低く咲いている。


 王宮の庭師たちは優秀だ。季節の変わり目であっても、花壇に乱れを残さない。どこから見ても美しい。遠くから来た客人に、アルヴィア王国の秩序と穏やかさを見せるための庭だった。


 けれど、その庭を背にして向かい合う席には、穏やかでは済まない書類が置かれていた。


 北方慈善交易路共同調査に関する外交文書案。

 付属覚書。

 用語定義表。

 王太子府の差し戻し記録。

 王宮筆頭実務顧問室の照会文。

 ノルヴァルト大使館からの返信。


 その中心にある言葉は、たった二つ。


 余白。


 空欄。


 似ているようで、まったく違う。


 クラリスは、手元の用語表を確認しながら、向かいのセルゲイ大使を見た。


 セルゲイはいつものように穏やかな顔をしている。


 銀灰色の髪を後ろへ流し、薄く微笑み、少しも急いでいないように見える。


 こういう人が、一番急所を突いてくる。


 クラリスはすでに知っていた。


「セルゲイ大使」


 王太子ジュリアスが口を開いた。


 今日の協議には、ジュリアスも出席している。


 王太子府が外交文書を差し戻した以上、その後の確認には本人が立つべきだと判断したのだ。


 隣にはクラリス。


 少し離れてレオンハルト。


 記録係としてオスカー。


 ノルヴァルト側はセルゲイ大使と、その補佐官が一名。


「先日の照会に、迅速にご返答いただいたこと、感謝する」


「こちらこそ、丁寧なご照会をありがとうございます」


 セルゲイは、柔らかく答えた。


「用語を確認することは、長い付き合いには大切なことです」


「では、本題に入る」


 ジュリアスは手元の文書を見た。


「貴国から、“外交上の余白と実務上の空欄について協議したい”とのお申し出があった」


「はい」


 セルゲイは頷いた。


「少し、言葉遊びのように見えたかもしれません」


「いいえ」


 クラリスが静かに言った。


「重要な違いだと思います」


 セルゲイは、少しだけ目を細めた。


「では、話が早そうです」


「早く進むかは分かりません」


「そこも承知しております」


 相変わらず、油断ならない。


 クラリスは心の中でそう思いながら、羽根ペンを握り直した。


 セルゲイは、付属覚書の写しを指先で軽く押さえた。


「外交文書では、あえて余白を残すことがあります」


 彼の声は穏やかだった。


「すべてを決め切らず、相手国が自国の面子を保てるようにする。将来の交渉の余地を残す。国内向けの説明で、互いに困らない表現を選ぶ。これは、不誠実というより、関係を壊さないための技術です」


 ジュリアスは黙って聞いている。


 以前の彼なら、ここで「なるほど」と流してしまったかもしれない。


 だが、今は違った。


 彼は文面の美しさではなく、言葉が何を動かすかを見ようとしている。


「外交上の余白は、必要な場合がある」


 ジュリアスは確認するように言った。


「はい」


 セルゲイは頷いた。


「例えば、“今後の協力可能性を検討する”という表現は、義務ではありません。ですが、拒絶でもない。両国が次の席に着く余地を残す言葉です」


「一方で、“共同管理に向けて協力する”は?」


「それは、読み手によっては一歩進んだ表現に見えます」


「だから差し戻した」


「妥当だと思います」


 セルゲイは、あっさり認めた。


 ジュリアスは少しだけ目を動かした。


 外交官なら、もう少し自国側の文面を守るかと思ったのだろう。


 セルゲイは微笑んだ。


「王太子殿下。私は曖昧な言葉を嫌いません。ですが、曖昧な言葉をどこに置くかは選びます」


「どこに置くか」


「はい。外交本文の余白として置くのか。覚書の定義に置いてしまうのか。実務記録の空欄として残してしまうのか。それはまったく違います」


 クラリスは、その言葉を書き留めた。


 曖昧な言葉は、置き場所を誤ると空欄になる。


 オスカーも横で同じように記録している。


 クラリスは顔を上げた。


「慈善物資の記録では、余白が消失になります」


 セルゲイが彼女を見る。


「消失」


「はい。受領先が空欄。用途が空欄。開封者名が空欄。余り布の扱いが空欄。どれも、“解釈の余地”では済みません。物がどこへ行ったか分からなくなります」


「おっしゃる通りです」


「ですので、外交本文に余白を残すとしても、実務記録には残せません」


 ジュリアスも続けた。


「外交上の余白と、帳簿上の空欄は分けるべきだ」


 その言葉に、セルゲイは少しだけ満足そうに頷いた。


「王太子殿下のお言葉として、記録しても?」


「構わない」


 ジュリアスは短く答えた。


 だが、その横顔には少し緊張があった。


 自分の言葉が外交協議の記録に残る。


 以前なら、当たり前に受け止めていたかもしれない。


 今は、その重さを知っている。


 クラリスは、それを横目で見ながら、静かに紙へ視線を落とした。


 王太子府は、確かに変わりつつある。


「では、三層構造について確認しましょう」


 クラリスは用語表を開いた。


「第一層、外交本文。ここでは相手国への敬意、友好、協力意思を示す。一定の余白を認める」


「はい」


 セルゲイが頷く。


「第二層、付属覚書。ここでは、共同調査、共同管理、試験経路、慈善物資、商業物資、免税対象物資など、実務に影響する用語を定義する。余白は最小限」


「同意します」


「第三層、実務記録。ここでは曖昧語を禁止する。空欄には、未確認、該当なし、後日提出、確認不能などの理由を記す」


 セルゲイは、そこで少しだけ笑った。


「非常にクラリス顧問らしい」


「褒め言葉でしょうか」


「ええ。少し怖いほどに」


「よく言われます」


 レオンハルトが横で小さく咳払いをした。


 笑いを隠したのだろう。


 セルゲイは、手元の文書に目を落とした。


「ノルヴァルト側としても、この三層構造には賛成です。ただ、一点だけ懸念があります」


「何でしょう」


「外交本文と付属覚書の温度差です」


 ジュリアスが眉を少し上げる。


「説明を」


「本文が柔らかく、覚書があまりに硬いと、読む者によっては“本文では友好を語り、覚書で縛っている”と感じる場合があります」


 レナード外交書記官がいれば、深く頷いただろう。


 ジュリアスも理解したようだった。


「では、覚書の文体も整える必要がある」


「はい。ただし、意味は曖昧にしない。言葉の角だけを少し削る」


 クラリスは考えた。


 意味を曖昧にせず、角を削る。


 難しい。


 けれど、外交では必要なのだろう。


「例えば」


 セルゲイは付属覚書の一文を指した。


 共同管理制度の開始または承認を意味しない。


「これは実務上、必要な一文です。ただ、少し拒絶の響きが強い」


「どう変えますか」


 ジュリアスが尋ねる。


 セルゲイは少し考えてから言った。


「“本共同調査は、将来の共同管理制度の可否を検討するための実態確認であり、それ自体をもって共同管理制度の開始または承認と解釈しない”」


 クラリスはすぐに書き留めた。


 意味は残っている。


 共同管理の開始や承認ではない。


 だが、将来の検討のためという前向きな文脈が加わったことで、拒絶ではなく段階確認になっている。


「よいと思います」


 クラリスは言った。


 ジュリアスも頷く。


「王太子府でも使える表現だ」


「ありがとうございます」


 セルゲイは静かに礼をした。


「外交では、扉を閉める時も、鍵の音を小さくすることがあります」


 オスカーが思わず筆を止めた。


 レオンハルトがぼそりと言う。


「また、記録したくなる言葉を」


「記録しておきます」


 オスカーは真面目に書いた。


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


 セルゲイ大使は、こういう言葉がうまい。


 だが、その言葉の美しさに流されないようにしなければならない。


 鍵の音を小さくすることと、鍵をかけたかどうか分からなくすることは違う。


「大使」


「はい」


「その表現は、外交本文には適していると思います。ただ、実務記録では鍵をかけたかどうかまで書きます」


 セルゲイは一瞬だけ目を丸くし、それから声を立てずに笑った。


「まことに、その通りです」


 協議は、思ったより穏やかに進んだ。


 外交本文には、友好と協力の言葉を残す。


 ただし、共同調査という段階を明記する。


 付属覚書では、用語を定義する。


 ただし、拒絶的な響きは避け、段階確認として書く。


 実務記録では、曖昧語を使わない。


 空欄には理由を必ず記す。


 共同管理、共同調査、予備調査、試験経路、慈善物資、商業物資、免税対象物資、用途追跡札、余り布、未記録再利用、最終受領先。


 ひとつひとつ確認し、言葉の置き場所を決める。


 途中、ジュリアスがある項目で手を止めた。


「“協力する”という言葉は、どの層で使うべきだろうか」


 セルゲイが少し目を細める。


「よい問いです」


「外交本文では使える。だが、実務記録では曖昧だ」


「はい。実務記録では、“どの部署が何を提供するか”に置き換えるべきでしょう」


 クラリスが続ける。


「財務院は港湾記録を提供。王妃執務院は受領先確認を担当。王太子府は外交窓口。王弟府は調査手順の安全確認。ノルヴァルト大使館は輸出元記録を提供」


「つまり、協力という言葉は、実務では分解する」


 ジュリアスが言った。


「はい」


 クラリスは頷いた。


「協力のままでは、誰の仕事か分かりません」


 レオンハルトが小さく言った。


「便利な言葉ほど、分解した方がいい」


「それも記録します」


 オスカーが即座に書く。


 セルゲイは楽しそうだった。


「今日の協議は、格言が増えますね」


「札も増えそうです」


 クラリスが思わず言うと、ジュリアスが少し笑った。


「王太子府にも増えた」


「存じております」


「便利だぞ」


「増やしすぎにはお気をつけください」


「それは君にも言える」


 クラリスは返せなかった。


 レオンハルトの目が、少しだけ笑っている。


 協議の終盤、セルゲイがふと声の調子を変えた。


「実は、余白と空欄の話をしたかったのは、アルヴィア側のためだけではありません」


 クラリスは、羽根ペンを止めた。


 空気が少し変わる。


「ノルヴァルト側にも、似た問題があります」


 ジュリアスが姿勢を正した。


「輸出元記録のことか」


「一部は」


 セルゲイは、窓の外の庭へ一瞬だけ視線を向けた。


 春の花が揺れている。


 彼の国では、まだ雪が残っているのかもしれない。


「北方の毛織物組合や修道院は、南方の貧民救済や施療院支援のために布を寄付することがあります。寒さを知る者ほど、寒さに苦しむ者を放っておけない」


 彼の声は、少しだけ低くなった。


「ですが、その善意が輸出商会を通り、港を渡り、別の国へ入る間に、商業品と混ざることがあります」


 クラリスは、何も言わずに聞いた。


「輸出元では“慈善用”と記されていた布が、途中で商会の在庫調整に使われる。商会は後で補填したと言う。帳簿上は数量が合う。けれど、最初に寄付された布そのものは、誰の元へ届いたのか分からない」


 それは、アルヴィアで起きたこととよく似ていた。


 善意が帳簿の中で姿を変える。


 届いたふりになる。


 数字は整う。


 でも、現物は違う。


「輸出元の善意も、途中で商会の利益に変わることがあります」


 セルゲイは静かに言った。


「今回の共同調査は、アルヴィア王国のためだけではありません。我が国にとっても、必要なのです」


 応接室は静かになった。


 ジュリアスは、しばらくセルゲイを見ていた。


 そして、低く言った。


「なぜ最初に言わなかった」


「外交上の余白です」


 セルゲイは微笑んだ。


 だが、その笑みは少し苦かった。


「我が国の不備を、最初の席で広げることはできませんでした」


「今日ならよいと?」


「はい。貴国が、余白と空欄を分けようとしてくださったので」


 クラリスは、その言葉の意味を理解した。


 セルゲイは、ノルヴァルト側の弱点をいきなり晒すことはできなかった。


 外交官として当然だ。


 だが、アルヴィア側が実務上の空欄を許さない姿勢を見せたことで、彼もまた自国側の空欄を出す余地を得た。


 外交上の余白が、実務上の空欄を埋めるための入口になったのだ。


「大使」


 クラリスは静かに言った。


「その件は、共同調査の範囲に入れるべきです」


「そう言っていただけると思っていました」


「ただし、責任追及ではなく、輸出元記録と商会記録の照合として」


「承知しています」


 ジュリアスも頷いた。


「王太子府としては、ノルヴァルト側の内部問題へ踏み込みすぎることは避ける。ただし、共同調査対象の物資については、輸出元記録の確認が必要だ」


「妥当です」


 レオンハルトが初めて少し前に身を乗り出した。


「不正の疑いがある場合、どこまで情報共有できる」


 セルゲイは表情を整えた。


「正式な捜査ではなく、共同調査の範囲であれば、輸出元記録、商会引渡記録、輸送契約書の写しは提供可能です。ただし、商会内部帳簿の全開示は難しい」


「最初から全開示は求めない」


 レオンハルトは言った。


「だが、不一致が出た場合の追加照会手順は必要だ」


「覚書に入れましょう」


 クラリスがすぐに言った。


 オスカーが書き取る。


 不一致発見時の追加照会手順。輸出元記録、商会引渡記録、港湾記録、受領先記録の再照合。必要時は両国担当部署間で限定情報共有。


 セルゲイは深く頷いた。


「それでお願いします」


 協議が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。


 庭の白い花が、午後の光に沈んで見える。


 ジュリアスは、付属覚書の改訂案に目を落とした。


「セルゲイ大使」


「はい」


「今日の協議で、私も学んだ」


「何をでしょう」


「外交の余白は、逃げ道ではなく、次に話すための場所にもなる」


 セルゲイは、満足そうに微笑んだ。


「良いご理解です」


「だが、実務の空欄は放置しない」


「はい」


「そこは譲らない」


「私も、譲るつもりはありません」


 二人は、静かに視線を合わせた。


 以前のジュリアスなら、セルゲイのような外交官に言葉の流れで押されたかもしれない。


 今は違う。


 彼は署名を読むようになった。


 言葉を差し戻すようになった。


 余白と空欄を分けようとしている。


 クラリスは、その横で静かに記録を閉じた。


 王宮筆頭実務顧問室へ戻ると、イリスが待っていた。


「余白と空欄は分かれましたか」


「分かれました」


「増えましたか」


「用語表が増えました」


「やはり」


「ただし、曖昧さは減りました」


「なら、よろしいかと」


 オスカーが報告書の見出しを書く。


 外交上の余白と実務上の空欄に関する協議報告


 主な結論。


 一、外交本文では一定の余白を認める。

 二、付属覚書で用語を明確化する。

 三、実務記録では曖昧語を使わない。

 四、空欄には理由を記す。

 五、協力という語は、実務上は担当部署と提供内容へ分解する。

 六、ノルヴァルト側にも輸出元善意の消失問題がある。

 七、共同調査に輸出元記録の確認を加える。

 八、不一致発見時の追加照会手順を覚書へ入れる。


 クラリスは最後に、セルゲイの言葉を書き添えた。


 曖昧な言葉は、置き場所を誤ると空欄になる。


 イリスがそれを見て、札を取り出しかけた。


「イリス」


「はい」


「今日は増やさないで」


「……」


「迷いましたね」


「非常によい言葉でしたので」


「報告書に残します」


「承知しました」


 たぶん、明日には札になっている。


 クラリスはそう思ったが、今日は追及しなかった。


 セルゲイ大使は、曖昧な言葉を嫌わない。


 外交官だから。


 余白の中で相手の顔を立て、次の交渉の扉を残すことを知っているから。


 けれど、彼は空欄を放置したいわけではなかった。


 むしろ、空欄を埋めるために余白を使う。


 そのことが、今日分かった。


 外交の余白。


 実務の空欄。


 両者を混同してはいけない。


 余白は、次に話すための場所。


 空欄は、次に確認すべき穴。


 その違いを間違えなければ、柔らかい言葉と厳密な記録は両立できる。


 クラリスは、報告書を国際案件の箱へ入れた。


 箱の中はまた少し重くなった。


 だが、今日の重さは必要な重さだった。

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