表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/175

第58話 財務院の若手監査官は、古い帳簿に赤を入れた

 財務院記録室には、朝から人の声が少なかった。


 いや、正確には声そのものはある。


 紙を運ぶ書記官の短い返事。

 帳簿棚の鍵を求める係官の声。

 数字を読み上げる監査補佐の低い声。

 遠くで誰かが咳払いする音。


 けれど、誰も余計なことを話さない。


 昨日までなら聞こえていたはずの雑談が、今日は消えていた。


 理由は分かっている。


 確認費。


 その言葉が、財務院の空気を悪くしていた。


 エリオット・グレインは、古い帳簿を机の上に置いた。


 若手監査官。


 それが彼の肩書きである。


 まだ財務院内では軽い立場だ。

 意見を求められることはあっても、最終判断をする席には遠い。


 だが、先日の協議で彼は発言した。


 ――交易路であるほど、確認が必要です。金額が大きいからこそです。


 自分でも、よく言ったと思う。


 言った瞬間、グレゴール財務参事官の目が細くなったことも覚えている。


 叱責はされなかった。


 だが、記録室へ戻った時から、周囲の視線が少し変わった。


 あいつは実務顧問室寄りだ。

 若いから理想論を言う。

 財務院の裁量を外へ渡すつもりか。


 直接は言われない。


 だからこそ、余計に分かる。


 財務院は、紙と沈黙の扱いが上手い。


「グレイン監査官」


 隣の机から声がした。


 古参監査官のハルベルトである。


 丸い眼鏡をかけ、指先に常にインクがついている男だった。


「また確認費の資料ですか」


「はい。過去の類似支出を調べています」


「類似支出?」


「受領確認、現物検査、寄付品輸送後の再確認などに使われた費用です」


 ハルベルトは、軽く鼻で笑った。


「そんなもの、昔から雑費で処理しているでしょう」


「はい」


 エリオットは頷いた。


「ですので、雑費の中身を確認しています」


 その瞬間、ハルベルトの表情が少し固くなった。


「雑費は雑費です。細かく分ければ、帳簿はかえって煩雑になる」


「ですが、何に使ったか分からなければ、次に必要額を見積もれません」


「若い人は、何でも名前をつけたがる」


 ハルベルトは帳簿を閉じた。


「財務は、名前をつければよくなるものではありません。全体を見るものです」


 エリオットは、すぐには返さなかった。


 それは確かに、財務院で何度も教えられた言葉だった。


 全体を見る。


 王宮全体の支出を見て、過不足を調整する。


 目の前の一項目だけで判断してはならない。


 それは正しい。


 だが、その「全体」の中で、名前のない支出は簡単に消える。


 そして、名前のない労力は誰かに押しつけられる。


 それを今回、王宮は思い知った。


「全体を見るためにも、内訳が必要だと思います」


 エリオットが答えると、ハルベルトは少し目を細めた。


「クラリス顧問の受け売りですか」


 室内の空気が、わずかに動いた。


 何人かの書記官が、聞いていないふりをしながら耳を立てている。


 クラリス・フォン・エルディア。


 王宮筆頭実務顧問。


 その名は今、財務院内で扱いにくい名になっていた。


 不正を暴いた功績は認めざるを得ない。


 だが、確認費や受領確認制度によって財務院の慣例に手を入れている。


 だから、警戒されている。


「いいえ」


 エリオットは言った。


「帳簿を見て、そう思いました」


 ハルベルトは返事をしなかった。


 それだけで、この会話は終わりだった。


 エリオットは視線を帳簿へ戻す。


 十年前の慈善支出簿。


 王妃陛下がまだ倒れる前の時代だ。


 彼は、支出欄を一つずつ追っていた。


 慈善物資費。

 孤児院支援費。

 施療院冬季支援費。

 社交界寄付品整理費。

 雑費。

 臨時謝礼。

 輸送補助。

 記録整理手当。


 その中に、気になる項目があった。


 孤児院冬物受領確認 馬車代・書記手当


 エリオットは目を止めた。


 確認費ではない。


 だが、内容は確認費そのものだった。


 孤児院へ冬物が届いたか確認するための馬車代と書記手当。


 別の年にも、似た項目がある。


 施療院包帯布現物確認 臨時女官手当


 さらに別の帳簿。


 寄付毛布受領先巡回 記録紙代


 エリオットの指が、紙の上で止まった。


 あった。


 確認費は、昔からあったのだ。


 ただし、確認費という名前ではなかった。


 馬車代。

 書記手当。

 臨時女官手当。

 記録紙代。

 謝礼。

 雑費。


 名前がばらばらだから、まとまった制度として見えなかった。


 見えないから、削られた。


 削られても、誰も気づかなかった。


 彼は、赤いインク壺の蓋を開けた。


 財務院で赤を入れる時は、慎重でなければならない。


 赤は訂正だ。


 異議だ。


 確認すべき点だ。


 古い帳簿に赤を入れることは、過去の処理を疑うことでもある。


 エリオットは少しだけためらった。


 それから、欄外に細い字で書いた。


 確認費相当。別名目処理。


 その赤い文字は、小さかった。


 けれど、彼にはやけに大きく見えた。


 午後、エリオットは王宮筆頭実務顧問室を訪ねた。


 抱えているのは、古い帳簿の写し数枚と、自分で作った一覧表だ。


 扉の木札を見る。


 王宮筆頭実務顧問室


 財務院記録室の扉とは違う。


 ここには、新しい木の匂いがした。


 中に入ると、クラリスが机の前で資料を確認していた。


 ただし、机の上の箱の一つに、すでに何枚か書類が入っている。


 誰かに任せる


 その箱が使われているのを見て、エリオットは少し意外に思った。


 噂に聞くクラリス・フォン・エルディアは、何でも自分で処理する人だった。


 少なくとも、財務院ではそう言われていた。


 だが、今の彼女の机は違う。


 仕事を分けるための箱がある。


 断る箱まである。


「エリオット監査官」


 クラリスが顔を上げる。


「お時間をいただきありがとうございます」


「こちらこそ。確認費基準の件ですね」


「はい」


 エリオットは書類を差し出した。


「過去の慈善支出簿を調べました。結論から申し上げますと、確認費に相当する支出は以前から存在していました」


 クラリスの目が少しだけ鋭くなる。


「名目は?」


「ばらばらです。馬車代、臨時女官手当、書記手当、記録紙代、謝礼、雑費など」


 オスカーが横から資料を受け取り、素早く目を通す。


「確かに、内容としては受領確認や現物確認ですね」


「はい」


 エリオットは頷いた。


「王妃陛下がご健在で、王妃執務院が強く機能していた時期には、確認に必要な費用が別名目でも処理されていました。しかし、王妃執務院が弱って以後、これらの支出が減っています」


「減ったのですか」


 クラリスが尋ねる。


「はい。最初は項目が統合され、その後は雑費へ入り、最終的にはほとんど見えなくなっています」


 クラリスは、資料に目を落としたまま静かに言った。


「確認費が問題なのではありませんね」


 エリオットは顔を上げる。


 クラリスは続けた。


「名前がなかったことが問題だったのです」


 その言葉に、エリオットは胸の奥で何かが落ちるのを感じた。


 自分が帳簿を見て感じた違和感。


 それに、ぴたりと名前がついた。


 クラリスは羽根ペンを取った。


 新しい紙に書く。


 確認費相当支出の歴史的存在


 その下に続ける。


 問題点:名目分散により、制度上の必要経費として認識されず、削減・流用・無償化が容易になった。


 オスカーが、横で感心したように頷いた。


「非常に明確です」


「エリオット監査官の資料が明確だからです」


 クラリスがそう言うと、エリオットは一瞬返事に困った。


 財務院では、こういう褒められ方をあまりされない。


 少なくとも、古い帳簿に赤を入れたことを評価されることはない。


「ありがとうございます」


 彼は少し遅れて答えた。


 その時、イリスが茶を置いた。


「監査官様も、どうぞ」


「恐れ入ります」


 イリスは、エリオットの資料の端にある赤字を見た。


「赤が入っておりますね」


「はい。確認費相当として」


「勇気のいる赤でございますね」


 エリオットは驚いた。


 侍女にそう言われるとは思っていなかった。


「……そう見えますか」


「はい。古い帳簿へ最初に赤を入れる方は、大抵少し緊張しておられます」


「ご経験が?」


「お嬢様がよく赤を入れておられましたので」


 クラリスが小さく咳をした。


「イリス」


「事実でございます」


 エリオットは少しだけ笑った。


 緊張がほどける。


 レオンハルトも資料を見た。


「これは財務院内で出せるか」


 エリオットの表情が少し固くなった。


「出します。ただ、反発はあると思います」


「誰から」


「旧バルツァー派に近い方々からです。確認費が昔から存在したと認めれば、今までそれを雑費に埋めていたことも認めることになります」


「グレゴール参事官は?」


「……分かりません。反対もされますが、話は聞いてくださいます」


 クラリスは頷いた。


「では、財務院に提出する資料は、責める形にしない方がいいですね」


「と、申しますと?」


「“財務院は確認費を隠していた”ではなく、“過去にも確認費相当支出が存在したため、制度化により支出管理を明確化する”と書きます」


 オスカーがすぐに書き取る。


「財務院の面子を残す形ですね」


「面子というより、誇りの置き場所です」


 クラリスは言った。


「財務院が昔から確認を軽んじていた、では反発されます。昔は必要性を理解し、別名目で処理していた。今後はそれを明確にしましょう、とした方が前に進みます」


 エリオットは、静かに頷いた。


「その方が、通りやすいと思います」


「ただし、曖昧なままにはしません」


「はい」


「名前をつけます」


 クラリスは、机の上の箱を一つ引き寄せた。


 名前をつける


 そこへ、エリオットの資料の写しを入れる。


「確認費相当支出。まずはこれで」


 その日の夕方、エリオットは財務院へ戻った。


 記録室の空気は、朝よりさらに重く感じた。


 彼は自分の机に戻り、確認費相当支出の一覧を清書する。


 すると、ハルベルトが背後から覗き込んだ。


「まだやっていたのですか」


「はい」


「実務顧問室は、何と?」


「過去にも確認費相当支出があったと整理することになりました」


 ハルベルトの顔が険しくなる。


「余計なことを」


 小さな声だった。


 だが、はっきり聞こえた。


「余計なこと、でしょうか」


「古い帳簿を掘り返せば、いくらでも別名目は出てきます。それを一つずつ名前をつけていたら、財務院は身動きが取れなくなる」


「身動きが取れなくなるのではなく、どこへ動いたか分かるようになるのでは」


 言った瞬間、エリオット自身が少し驚いた。


 こんなふうに返すつもりはなかった。


 ハルベルトも驚いたようだった。


 すぐに表情を戻したが、目は冷えていた。


「若いですね」


「はい」


 エリオットは、今度は逃げずに答えた。


「若いので、古い帳簿を疑うところから始めます」


 記録室が静かになった。


 数人がこちらを見ている。


 ハルベルトは、しばらくエリオットを見下ろしていた。


「孤立しますよ」


 低い声だった。


 忠告にも、脅しにも聞こえる。


 エリオットは赤字の入った帳簿を見た。


 小さな赤い文字。


 確認費相当。


 それは、自分が財務院の慣例に初めて入れた赤だった。


「記録は残ります」


 彼は言った。


「孤立しても?」


「はい」


 ハルベルトは、それ以上何も言わなかった。


 ただ、背を向けて去っていく。


 その後、記録室の空気は明らかに冷たくなった。


 誰もエリオットに話しかけない。


 資料の受け渡しも、少し遅い。


 茶を淹れる係の書記官すら、彼の机を後回しにした。


 小さな孤立だった。


 しかし、財務院での孤立は小さくても効く。


 情報が遅れる。

 資料が回らない。

 会議に呼ばれない。

 発言の機会が減る。


 そうやって、人は自然に隅へ追いやられる。


 エリオットは、それを感じながらも、清書を続けた。


 夜、王宮筆頭実務顧問室に財務院から短い連絡が入った。


 差出人はエリオット本人ではない。


 財務院記録室の共用印。


 内容は簡潔だった。


 確認費相当支出一覧、作成開始。財務院内での調整に時間を要する見込み。


 クラリスはその文面を見て、眉を寄せた。


「財務院内での調整に時間を要する見込み」


 オスカーが隣で呟く。


「少し不穏ですね」


「ええ」


 レオンハルトも連絡票を見た。


「エリオットが押されているかもしれない」


 クラリスは、すぐに何かを言いかけた。


 財務院へ照会を。

 エリオット本人へ確認を。

 グレゴール参事官へ。


 だが、イリスが札を置いた。


 感情で走らない


 クラリスは、言葉を飲み込んだ。


「……まず、記録上の照会ですね」


「はい」


 イリスが頷く。


 レオンハルトも言った。


「エリオットを名指しで守ろうとすると、かえって彼を追い込む。今は確認費相当支出一覧の進捗照会として出す方がいい」


「分かりました」


 クラリスは新しい照会文を書いた。


 宛先は財務院記録室。


 件名は、確認費相当支出一覧の作成状況について。


 文面は、エリオット個人ではなく、財務院としての進捗を問う形にした。


 担当者名。

 資料範囲。

 完成予定日。

 必要な追加人員。

 過去帳簿閲覧権限。


 それらを確認する。


 人を守るためにも、まず記録。


 クラリスはそう自分に言い聞かせた。


 その夜、エリオットは記録室で一人、最後の帳簿を閉じた。


 赤字は、思ったより増えた。


 確認費相当。

 現物確認相当。

 受領先巡回。

 記録紙代。

 臨時確認手当。


 名前のなかった仕事たちが、赤い字で浮かび上がっている。


 それは、美しい作業ではなかった。


 財務院の古い帳簿に傷をつけているような気持ちにもなる。


 だが、傷ではない。


 印だ。


 ここに見えなかった費用がある。

 ここに誰かの確認があった。

 ここに、消された名前がある。


 エリオットは赤い羽根ペンを置いた。


 自分が孤立し始めていることは分かっている。


 けれど、もう赤を消す気にはなれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ