第51話 王宮筆頭実務顧問という、逃げられない肩書き
王宮筆頭実務顧問。
その肩書きは、文字にすると妙に逃げ場がなかった。
王宮。
筆頭。
実務。
顧問。
どの言葉も重い。
どれか一つだけなら、まだ受け流せたかもしれない。
王宮顧問なら、助言役だ。
実務顧問なら、現場寄りの役職だ。
筆頭顧問なら、立場の重さはあるが、実際の運用は曖昧にもできる。
だが、四つそろうと違った。
王宮全体を横断し、実務を見て、顧問として助言し、しかも筆頭として責任を持つ。
つまり、逃げられない。
クラリスは、国王執務室へ向かう廊下で、手元の草案をもう一度見下ろした。
そこには、国王側から提示された役職案が記されている。
王宮筆頭実務顧問設置案
職務範囲。
権限。
報酬。
補佐官。
休息規定。
拒否権。
任期。
報告経路。
すべて、昨日クラリスが要求した項目だった。
要求した。
王の前で。
自分でも、よく言ったものだと思う。
以前の自分なら、きっと即答していた。
必要でしたらお受けします。
王宮のためなら尽力いたします。
わたくしでよろしければ。
そう言って、また自分の手元に山ほどの書類を引き寄せていただろう。
けれど今は違う。
そのやり方が、どれだけ危険かを知っている。
できる人に全部任せる王宮。
その構造を壊すために報告書を書いたのに、自分がまた同じ構造の中心になってはいけない。
「お嬢様」
隣を歩くイリスが、静かに言った。
「はい」
「草案を見すぎです」
「確認しているだけよ」
「道中で三度確認されました」
「三度だけ?」
「四度目に入りかけています」
クラリスは、手元の紙を閉じた。
「厳しいわね」
「本日は、役職を受けるかどうかを決める大事な場でございますので」
「ええ」
「だからこそ、紙ばかり見ず、ご自分の条件を思い出してください」
イリスはそう言って、小さな札を一枚見せた。
そこには、きれいな字でこう書かれていた。
便利な人に戻らない
クラリスは、思わず足を止めかけた。
「それ、いつ作ったの」
「昨夜でございます」
「重い札ね」
「必要です」
イリスの声は柔らかいが、まっすぐだった。
「お嬢様は、役職名がつけば安心だと思われるかもしれません。ですが、名がついても運用が悪ければ、また便利な人になります」
「分かっているわ」
「なら、よろしいです」
分かっている。
だが、言われなければ流される可能性もある。
王命。
正式役職。
王宮改革。
必要性。
そうした言葉は、クラリスにとって強い。
自分がやるべきだと思ってしまう。
だから、イリスの札は必要だった。
国王執務室の前には、レオンハルトが待っていた。
彼も草案を持っている。
「読んだか」
「はい」
「どう見た」
「かなり整っています」
「不満そうだな」
「整っているからこそ、細部が気になります」
レオンハルトは少し笑った。
「君らしい」
「殿下は?」
「私は、補佐官制度をさらに厚くした方がいいと思う」
「同感です」
そこへ、ジュリアスもやってきた。
今日は王太子としての正装ではあるが、胸元の飾りは控えめだった。
手には、自分の確認済み書類ではなく、王太子府改善案の草稿がある。
「クラリス顧問」
「王太子殿下」
ジュリアスは、少しだけ視線を落とした。
「今日の件だが……私は、君に受けてほしいと思っている」
レオンハルトの目が少し細くなる。
ジュリアスはすぐに続けた。
「だが、昔のように、君が何でもやってくれるから受けてほしいという意味ではない」
クラリスは黙って聞いた。
ジュリアスは言葉を選んでいる。
以前より、ずっと慎重に。
「君が君の仕事として立つなら、私は王太子として支えたい。王太子府の署名管理も、君の制度と連動させる」
「ありがとうございます」
「それと」
ジュリアスは、少しだけ苦笑した。
「もし私がまた“クラリスなら分かってくれる”という顔をしたら、記録に残して止めてくれ」
イリスが即座に言った。
「承知いたしました」
「イリス殿、返事が早いな」
「重要事項でございますので」
ジュリアスは軽く笑った。
その笑いは、以前より少し苦かったが、嫌なものではなかった。
国王執務室へ入ると、すでに国王アレクシスと王妃エレオノーラが待っていた。
机の上には、正式な草案が置かれている。
マルタ女官長、オスカー、そして王弟府の記録官も同席していた。
これはただの内々の打診ではない。
役職設置のための正式協議だった。
「クラリス・フォン・エルディア」
国王が名を呼ぶ。
「はい」
「昨日の条件を踏まえ、王宮筆頭実務顧問設置案を整えた。今日は、そなたの意見を聞く」
「ありがとうございます」
「まず、役職の目的から確認する」
国王は草案を開いた。
「王宮筆頭実務顧問は、王妃執務院、王弟府、儀礼局、慈善記録官制度、王太子府の署名確認改善を横断し、実務上の欠陥を発見、整理、提案する職とする」
重い。
やはり重い。
しかし、目的は明確だった。
「命令権は限定的ですか」
クラリスが尋ねると、国王は頷いた。
「各部署の長を飛び越えて命令する権限は持たせぬ。ただし、調査と照会、改善提案、緊急停止勧告の権限を持つ」
「緊急停止勧告」
「不正、未着、署名形骸化、現物不一致などが判明した場合、関係業務の一時停止を勧告できる。最終判断は国王、王妃、王弟府、または該当部署長が行う」
クラリスは頷いた。
強すぎても危険だ。
弱すぎても意味がない。
勧告権という形は、現実的だった。
「補佐官制度については?」
次に口を開いたのはイリスだった。
国王が少しだけ目を瞬かせる。
イリスはまったく怯まず、礼をして続ける。
「失礼を承知で申し上げます。補佐官制度が弱ければ、お嬢様……クラリス様に業務が集中いたします」
国王は、わずかに口元を緩めた。
「もっともだ」
王妃が草案の該当箇所を示した。
「補佐官は、常設三名。記録補佐、照会補佐、制度運用補佐。加えて、繁忙期には臨時補助を追加できることとしました」
クラリスは資料を確認する。
「常設三名では不足する可能性があります」
「では何名が妥当か」
国王が問う。
クラリスは少し考えた。
「初年度は制度立ち上げが重なります。常設四名、臨時補助枠を明記してください。記録補佐、照会補佐、制度運用補佐、現物確認補佐です」
オスカーが即座に記録する。
王妃が頷いた。
「現物確認補佐は必要ですね。善意確認制度の運用と重なります」
「はい」
クラリスは続けた。
「また、補佐官の仕事も非公式化しないよう、職務範囲と報酬を明記してください」
「当然です」
王妃は静かに答えた。
「今回の報告書を読んだ後で、それを曖昧にはできません」
その声には、王妃自身の痛みがにじんでいた。
クラリスを支えるはずだった補佐人員費が、実際には届いていなかった。
同じことは繰り返さない。
そういう意思があった。
「報酬については、こちらです」
マルタ女官長が別紙を出した。
クラリスは目を通す。
正式職としての俸給。
補佐官俸給。
経費枠。
調査出張費。
資料写し費。
現物確認費。
かなり細かい。
「確認費も入っていますね」
「はい」
マルタが頷く。
「確認は無料ではない、と報告書にありましたので」
クラリスは、少しだけ胸が温かくなった。
言葉が制度に入っている。
誰かの善意や無償労働ではなく、必要経費として。
「休息規定は?」
またイリスだった。
今度は国王も驚かなかった。
むしろ、少し待っていたような顔だった。
「週一日の完全休務日を明記した」
国王が答える。
イリスは表情を変えずに言った。
「不足です」
室内が静まった。
オスカーの筆が一瞬止まる。
ジュリアスが小さく咳をした。
レオンハルトは、明らかに笑いをこらえている。
国王アレクシスは、じっとイリスを見た。
「不足か」
「はい。週一日の完全休務日に加え、終業時刻、連続勤務上限、夜間呼び出し条件を明記すべきです」
堂々としていた。
王の前で、侍女が休息規定の不足を指摘している。
普通なら不敬と取られてもおかしくない。
しかし、この場の誰もそれを咎めなかった。
なぜなら、正しいからだ。
クラリスは、少しだけ恥ずかしくなりながらも口を開いた。
「陛下。わたくしも同意いたします」
「そなたもか」
「はい」
クラリスはイリスを見てから、国王へ向き直った。
「この役職が、他部署の不備や緊急案件を扱う以上、際限なく業務が増える危険があります。終業時刻と緊急対応条件を明記しなければ、制度そのものが“便利な人”へ戻ります」
国王は、しばらく黙っていた。
やがて、低く笑った。
「王宮に仕える者が、王の前で終業時刻を要求する時代になったか」
「必要でございます」
イリスが即答した。
王妃が少し笑った。
「陛下、必要です」
レオンハルトも頷く。
「私も必要だと思います。クラリスを倒すための役職ではありません」
ジュリアスも、静かに言った。
「私も賛成します。かつて、彼女が限界なく働くことに甘えていた者として」
国王は、一度天井を見た。
そして、諦めたように頷く。
「よかろう。終業時刻、連続勤務上限、夜間呼び出し条件を明記する」
イリスが深く礼をした。
「ありがとうございます」
オスカーは、ものすごい速さで書き加えていた。
「拒否権については」
クラリスが尋ねる。
国王は別紙を示す。
「王宮筆頭実務顧問は、職務範囲外の私的依頼、無償奉仕、正式決裁を経ない業務を拒否できる」
クラリスは、その一文を見た。
胸の奥に、何かが静かに落ちた。
正式決裁を経ない業務を拒否できる。
かつて、それができなかった。
お願い。
少しだけ。
君なら分かるだろう。
王太子妃になるのだから。
公爵令嬢なのだから。
皆のためだから。
そう言われて、引き受けた。
それが積み重なった。
今、その積み重ねに対して、拒否権という文字が置かれている。
「この一文は、残してください」
クラリスは言った。
「必ず」
国王は重く頷いた。
「残す」
王妃も続ける。
「むしろ、他の役職にも広げるべきでしょう」
マルタ女官長が、静かに頭を下げた。
「王妃執務院でも検討いたします」
クラリスは、ゆっくり資料を閉じた。
条件は、かなり整っている。
まだ細部は詰める必要がある。
だが、方向は明確だった。
この役職は、クラリスにすべてを背負わせるためではない。
少なくとも、そうならないよう文書化されつつある。
レオンハルトが、静かに言った。
「クラリス」
「はい」
「君一人に背負わせる役職ではない。君が一人で背負わない仕組みを作る役職だ」
昨日も聞いた言葉。
だが、正式草案を前に聞くと、重みが違った。
ジュリアスも口を開く。
「私は、君が戻ってくることを望んでいた」
部屋が少し静まる。
ジュリアスは言葉を選びながら続けた。
「以前の私は、君に王太子妃として戻ってほしかったのだと思う。私を支える人として」
その言葉は正直だった。
少し痛いほどに。
「だが、今は違う」
彼はクラリスを見た。
「君が君の仕事として王宮に立つなら、私はそれを王太子として支える。君に支えられるだけではなく、私も制度の中で責任を負う」
クラリスは静かに頷いた。
許したわけではない。
過去が消えたわけでもない。
だが、彼がその言葉を言えるようになったことは、記録してよい変化だった。
「ありがとうございます」
国王が問う。
「クラリス・フォン・エルディア。改めて問う。この条件で、王宮筆頭実務顧問を受けるか」
室内が静かになる。
クラリスは、手元の草案を見た。
職務範囲。
権限。
補佐官。
報酬。
休息規定。
拒否権。
すべて、まだ完全ではない。
けれど、文書になっている。
声に出せる形になっている。
それが大切だった。
クラリスは、ゆっくり立ち上がった。
「お受けいたします」
イリスが、ほんの少しだけ息を吸った気配がした。
レオンハルトは表情を変えない。
だが、目が穏やかになった。
クラリスは続ける。
「ただし、条件があります」
国王は片眉を上げた。
「まだあるか」
「はい」
クラリスはまっすぐ国王を見る。
「この役職の最初の仕事として、補佐官制度と休息規定の運用状況を三か月後に再確認させてください。文書に書いたことが本当に動いているかを確認します」
沈黙。
そして、王妃が小さく笑った。
「最初の仕事が、自分の役職を監査することですか」
「必要です」
クラリスは真剣に答えた。
「自分が便利な人に戻っていないか、制度で確認します」
国王は、今度こそ声を立てて笑った。
重い会議の場には珍しい笑いだった。
「よかろう。認める」
「ありがとうございます」
「実にそなたらしい。いや、王宮にはそのくらいが必要なのだろう」
クラリスは深く礼をした。
王宮筆頭実務顧問。
その肩書きは重い。
逃げられない。
だが、今のクラリスは知っている。
逃げられない肩書きでも、一人で背負わない仕組みを作ることはできる。
国王執務室を出た後、廊下でイリスが札を見せた。
便利な人に戻らない
クラリスはそれを見て、少し笑った。
「今日の札は、まだ必要?」
「はい」
「役職を受けた後も?」
「むしろ、これからが本番でございます」
「厳しいわね」
「お嬢様のためです」
レオンハルトが隣で言った。
「良い札だ」
「殿下もそう思われますか」
「ああ。額に入れて執務室に飾るべきだな」
「やめてください」
クラリスは即座に言った。
ジュリアスが後ろから苦笑する。
「いや、案外いいかもしれない」
「王太子殿下まで」
「私の執務室にも、“署名は読む”と貼るべきかもしれない」
イリスが真顔で頷いた。
「必要かと」
ジュリアスは一瞬固まり、それから笑った。
「容赦がないな」
「記録に基づく助言でございます」
廊下に、少しだけ柔らかな空気が流れた。
その日の夕方、王宮臨時顧問室には新しい札が増えた。
イリスが書いたものではない。
レオンハルトが持ってきた、正式な木札だった。
まだ仮のものだが、丁寧な文字でこう刻まれている。
王宮筆頭実務顧問室
クラリスは、それを見てしばらく黙った。
臨時顧問室ではなくなる。
王宮に、正式な場所ができる。
便利に呼ばれて、どこかの机の隅で仕事をするのではない。
職務として、部屋を持つ。
名前を持つ。
補佐を持つ。
拒否権を持つ。
「どうだ」
レオンハルトが尋ねた。
クラリスは、少し考えた。
「重いです」
「だろうな」
「でも、不思議と嫌ではありません」
「そうか」
イリスが横から言った。
「まず、机の配置を決めましょう」
「早いわね」
「補佐官四名分の席が必要でございます」
「そうだったわ」
「それと、休憩用の椅子は机から離れた場所に」
「まだ座らせる気なの?」
「必要があれば」
オスカーが、新しい部署の記録台帳を抱えて入ってきた。
「台帳の表題はどうしますか」
「もう用意しているのですか」
「必要になると思いまして」
ミレーヌも、リーナと一緒にやってきた。
「五欄様式の清書、持ってきました」
「慈善記録官用の試作です」
ローゼン侯爵夫人からは、使者が届いた。
社交界向け通知文案の第一稿。
封筒の余白には、彼女らしい一文が添えられていた。
王宮筆頭実務顧問様。逃げられない肩書き、おめでとうございます。
クラリスは思わず笑ってしまった。
本当に逃げられない。
だが、逃げないことと、全部を抱えることは違う。
その夜、クラリスは新しい木札を机の上に置いた。
王宮筆頭実務顧問室。
その隣に、イリスがいつもの札を置く。
今日は帰る
クラリスはそれを見て、素直に頷いた。
「帰りましょう」
イリスが満足そうに微笑んだ。
「はい」
王宮筆頭実務顧問という、逃げられない肩書き。
けれど、その肩書きには、今度こそ文書がある。
報酬がある。
補佐がある。
休息規定がある。
拒否権がある。
そして、見張ってくれる人たちがいる。
クラリス・フォン・エルディアは、もう誰かの影ではなかった。
便利な無償奉仕者でもなかった。
王宮を動かす実務に、正式な名前を持つ者として、そこに立とうとしていた。




