29.合理と詭弁
「マブチトウミさんですよね? 応援してます!」
不意に投げかけられたその瑞々(みずみず)しい声の主は、春の光を透過させたような若い女性だった。
七海は、ただ呆然とその光景を眺めるしかなかった。あれほど凄絶な破壊と騒乱を巻き起こしておきながら、馬渕東海は法的な断罪も、社会的な指弾を浴びることもない。今や彼は、どこか神聖な免罪符を手にしたかのように、街のゴミ拾いという世俗的なボランティアに、いかにも不承不承といった体で従事している。
事の顛末は、七海の与かり知らぬ異次元の領域で、密やかに、かつ迅速に進行していた。
大学事務局が下した公式の裁定は、「あれは事前に申請を検討していた実験的芸術活動の、やや行き過ぎたプレ・イベントである」という、虚構を真実へと塗り替えるレトリックであった。
さらに驚嘆すべきは、東海に憎悪の火花を散らしていたはずの造形科の動向だ。彼らは事件の熱も冷めやらぬ即日のうちに、YouTubeへ一本の声明を投稿したのである。
画面の中、無惨に焼け落ち、黒い肋骨を晒す死骸のようなオブジェの前で、一人の男子学生が朗々と、神官のような厳かさで説いていた。
「本作は、焼失という不可逆的な物理プロセスを経て、初めて真の成就へと至った実験的連作です。銘は『幻影の暁』。
本来、芸術とは作者の自意識という閉鎖系に完結しがちですが、本作において我々が企図したのは、作者の統制を離れた『外部性』の導入でした。すなわち、他者の剥き出しのパトスという動的な変数と、炎という根源的かつ暴力的な自然現象の介入です。
この三者の偶然的な交錯は、人間的な矮小な設計図を脱構築し、作品を人知の及ばない不確実性の領野へと転移させました。作者の意図が他者の狂気によって蹂躙され、炎によって灰へと帰すその刹那、作品は『モノ』としての拘束を解かれ、純粋な現象へと昇華されたのです。
この神学的とも言える偶発性の止揚こそが、本作を完成へと導いた唯一の因果であり、これこそが現代における真の表現の在り方であると確信しております」
明け方の湿った空気が漂うベッドの上、七海は寝転んだまま、網膜に焼き付くその映像をスマホの画面越しに眺めていた。脳裏を掠めた唯一の感想は、「この人たち、随分と早起きだなぁ」という、ひどく場違いで、散文的なものだった。
「七海ちゃん、疲れてない?」
隣を歩く戸川の声に、思考の連鎖が遮られる。
「はい。大丈夫です。……あのぅ、これ。なんで私たちは、こんなこと、しなきゃいけないんですか?」
七海は、手に持った無機質なゴミ袋の重みを確かめるように尋ねた。「ソサイエティ」の面々は、今こうしてトングを手に、学校周辺の清掃活動という、あまりにも健康的な労働に駆り出されている。
「まあ、私たちも共犯者みたいなものだから。反省してまーす、っていうパフォーマンスよ」
「なるほど」
あまりにも明快な回答に、七海は深く納得してしまった。
警察署へと連行された馬渕東海は、わずか数時間後には、溜まり場であるあの資材置き場に、何食わぬ顔で帰還していたのだ。
誰もが、夜が更けても、彼の帰還を確信し、その背中を待っていた。
後輩の槇村にいたっては、
「アニキ、おつとめ。ごくろうさんです!」
などと、前時代的なヤクザ映画の模倣のような所作で頭を下げ、東海に軽快に頭を叩かれていた。その滑稽な儀式は、七海にとって理解の範疇を超えていたが、同時に不思議な安堵をもたらしもした。
あれほどの暴挙を働きながら、これほど鮮やかに収束させてしまうとは。
七海は、目の前のアスファルトを凝視しながら、世の中を動かす欲望の複雑怪奇な力学について思いを馳せていた。この頼り甲斐のある先輩たちが、水面下でどれほどの知略を尽くし、奔走していたのかを彼女は断片的に知っている。
昨年、この学び舎で起きたという「令和の美大闘争」。
その渦中で、馬渕東海はすでにメディアの寵児となり、抗争の象徴へと祭り上げられていた。大学側も、彼を異分子として排除するよりは、むしろ「制御下に置かれた前衛性」という広告塔として利用する道を選んだのだ。
しかし、と、今朝、事務科の女性が苦々しげに説明してくれた言葉を思い出す。
「大丈夫。もう造形科のボスも、納得してるみたいよ。あいつらも『最高にバズったから、あれは共同制作のパフォーマンスだったことにしよう』ってさ」
常識という天秤にかければ、馬渕東海は除籍、最悪の場合は逮捕という奈落に堕ちていてもおかしくなかった。器物損壊、そして放火。
だが、現実は事情聴取という名の幕間劇で幕を閉じた。
東海は、周囲に可燃物のない野球場をあえて選定したこと。
消火器を事前に待機させていたこと。
そして灯油の量すらも緻密に計算済みであったこと。
それらを徹底して「計画性」という鎧として主張したのだという。
その結果、「公共の危険」は存在しなかったと警察が認定し、厳重注意という名の実質的な無罪放免が勝ち取られた。
被害者たる造形科が「損壊ではなく演出であった」と証言した以上、法執行機関が介入する余地は、もはやどこにも残されていなかった。
大学側としても、強大なインフルエンス力を持つ彼を退学させれば、「若者の才能を窒息させる保守的権力」としてSNSの業火に焼かれるリスクがある。ならば、「自由な学風」という広大な抱擁で彼を飲み込み、手懐けるほうが遥かに合理的であると判断したらしい。
合理と詭弁。
それらが入り混じった事情を飲み込んでもなお、七海は依然として、ぼんやりとした非現実の霧の中にいた。
あまりにも、バカバカしくて、滅茶苦茶で、秩序が美しく崩壊している。
しかし、その混乱こそが、今の彼女を救っているのも、また事実だった。
「今夜、またトウミさんが焼肉を奢ってくれるってよ」
戸川が、軽やかに教えてくれた。
「それは、素晴らしいですね。私たちには、精神的損害を請求する権利がありますよね?」
七海は顔を上げ、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
すると、戸川は驚いたように目を見開き、嬉しそうに、
「言うようになったねぇ」
と、からかうような笑い声を上げた。
「おいそこ! タバコのポイ捨てすんじゃねーよ!」
前方を歩く東海が、自販機の傍らで佇んでいた若者を一喝した。
注意された若者は、一瞬、狼狽と不快が混じった表情を見せたが、相手の顔を認めた瞬間、その瞳に驚喜の光が宿った。
「え、あ?! マブチトウミさんですよね?! あの、握手して下さい!」
何故か、そこには崇拝にも似た喜びがあった。
七海は、本当にトウミさんという男は、この歪な時代のアイコンなのだな、とぼんやり考えた。
そして、アスファルトの裂け目に張り付いていた、無残に潰れた空き缶を拾い上げ、確かな手応えと共にゴミ袋の中へと放り込んだ。




