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クラゲが還る水星の岸辺に  作者: ヤマザキゴウ


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28.白と炎

 怠惰と微笑。この、剥き出しの鉄骨と埃に塗れた資材置き場に漂う、どこか浮世の重力から解脱したような若者たちの空気感。それは、美大という閉鎖的な揺籃ようらんが育む、一種の特異な徴候しるしと言えるのかもしれない。しかし、七海にとってはこの場所に、この「ソサイエティ」と称される奇妙な集団に己の居場所を固定することだけが、不安定な自己を繋ぎ止めるための唯一の投錨とうびょうであった。


 いつもの、放課後。

 いつもの、透明な停滞。


 ある者は床に直に置いたコンパネを、毒々しい原色のペンキで塗り込め、ある者は長机の上でプラスチックの残骸を精緻な模型へと昇華させていく。

 この結社の代表とも呼ぶべき馬渕東海は、安物のゲーミングチェアに深く身体を沈め、片手に握った缶ビールの冷たさを頼りに、発光するモニターを凝視していた。映し出されているのは、またしても古い白黒映画のようだ。


 七海は、まだ何の色にも染まっていない、まっさらなキャンバスを愛おしく抱き締めるように抱え、表面の毛羽立ったソファーに身を預けている。


 視線の先では、モノクロームの映像の中、喜劇役者が重力に抗うような滑稽な足取りで右往左往していた。

 すると、隣で乾燥したスナック菓子を無機質に咀嚼そしゃくしていた戸川が、ふと声を漏らした。


「七海ちゃん。何か、悩みでもあるの?」


「えっ、あ、……いえ」


 反射的に言葉がこぼれる。

 己のかたちに、内面の亀裂が漏れ出していたのだろうか。

 彼女に心配させてしまうほどに。

 しかし、戸川はそれ以上の追及をせず、


「ふーん。まあ、なんかあったら、遠慮なく相談してね」


 悩み、というにはあまりに実体がない。

 あるような、ないような。

 いや、確かにそこには「何か」が確実に横たわっている。

 ただ、それを的確な言語として抽出できないだけなのだ。

 例えば、生活の糧としているフードデリバリーの労働。上手くいっているという自覚はあったが、都市の喧騒と消費されるだけの時間は、七海の精神を少しずつ摩耗させていく。


 あるいは、学び舎での日々。この「ソサイエティ」というコミュニティに属することで、表層的な孤独からは救済された。しかし、この資材置き場という聖域を一歩でも出てしまえば、洗練という名の下に画一化された都会的な若者たちの光彩に、眩暈めまいを覚えそうになる。


 そして、不透明な将来。

 美大を卒業したとして。その後、自分はどのような社会の歯車、あるいは異物となるのか。

 

 思索を深めれば深めるほど、不安はその輪郭を失い、自己意識と自意識の暗闇に溶けはじめ、最後は、重く粘着質な黒いタールのように、心の奥底に吹き溜まる。


 ぼんやりと、再びモニターを見やる。

 映像の中の主人公は、巨大な歯車が噛み合う工場のような場所で、翻弄されるように働いていた。


「働く……か……」


 思わず、独白が漏れる。


「できれば、一生働かずに、楽して暮らしたいよねぇ」


 戸川が、その呟きを拾い上げ、やる気のない調子で追随する。


「でも。無理ですよね?」


「うん。無理……宝くじで一等を当てるか。大企業の経営者と結婚するしかないねぇ」


「どっちの方が可能性が高そうですか?」


「宝くじじゃない? だって、毎週どこかで一億円とか当選してる人がいるのよ? この日本には」


「そういえば、そうなんですかね」


 その刹那、東海が空の缶ビールを掲げるようにして、


「生活保護だ。生活保護」


 と、あまりにも身も蓋もない、だが射貫いぬくような言葉を放った。


「ひろゆきか! っての!」


 戸川の鋭いツッコミが飛ぶ。

 七海は、その滑稽なやり取りに、少しだけ喉の奥を鳴らして笑った。

 東海はデスクの上に不作法に缶を置くと、


「ちょっと俺、ションベンいってくる」


 と言い残し、ドアへと歩き出す。


「いちいち報告しなくていいっての!」


 戸川の罵声を背中に受けながら、東海の影が消える。

 そして再び、緩やかで、どこか停滞した時間が再開される。


「戸川先輩は、将来何になりたいんですか?」


「んー。服飾関係か、お菓子屋さんかなぁ」


「……確かに、両方とも、色彩が大事ですね」


「そうそう。でも、わかんないけどねぇ。ここのみんなで、会社立ち上げるなんて企みもあるみたいだし」


「そうなんですか?」


「そうそう。トウミさんを代表取締役にして!」


「私も、雇ってくれますかね?」


「よし。私たち二人は執行役員にねじ込んで貰おう」


 軽薄な笑い声が、埃っぽい空気に混ざる。


 その時だった。

 沈黙を切り裂くような、尋常ならざる叫びが外から響いた。


「きゃぁぁぁぁ!」

「う、うわぁ! なんだこれ!」


 誰もが顔を上げた。


「なんすか? 事件すか、事故っすか?!」


 プラモデルの微細なパーツを弄んでいた槇村が、弾かれたように飛び起き、資材置き場から駆け出していく。


「行ってみる?」


 戸川が、普段通り落ち着いた様子で提案してきた。


「行って、みましょうか」


 ソサイエティの住人たちが、緩慢な動きで立ち上がり、廊下へと向かった。

 そこには、野次馬の群れが形成されていた。

まだ校舎に残留していた、モラトリアムの余熱に浮かされた学生たち。

 廊下の一角には、まるで冬の朝の深い霧のように、白い粉末が濃密に漂っていた。


「あ、あれ、トウミさんだ!」


 槇村が駆け寄っていく。

 背中を真っ白に染められ、髪の毛からは大量の粉末が砂時計の砂のようにこぼれ落ちている。東海の姿は、まるで未完成の石膏像のように、無惨で、そして奇妙に神聖だった。


「あ! 七海ちゃん! 近寄っちゃダメ! これ。消火器だ。目に入ったら危ない」


 七海は足を止めた。


「トウミさん! 誰にやられたんすか?!」


 槇村が袖で口元を覆い、屈辱に立ち上がろうとする彼に手を貸す。


「クソがぁぁぁぁ! 造形科の連中だよ! またあいつら。もうこんなん傷害罪だろうがよ!」


 東海の激怒は、白い粉末を周囲に撒き散らした。

 すると、戸川が、


「また襲撃かぁ。トウミさん、嫌われてるからねぇ」


 と、呆れたような、それでいてどこか楽しげな溜息を吐いた。

 東海は、身に纏った白を荒々しく払い落とすと、階段脇の水道で、顔と手を洗った。

 そして、その瞳に復讐のほむらを宿し、ずかずかと歩き出す。


 ソサイエティの面々も、その異様な熱量に引き寄せられるように付き従う。七海もまた、抗いがたい奔流に呑み込まれるように、その後ろ姿を追った。


「ねぇ! ちょっと、これ。誰が掃除するのー!」


 背後で響く女子生徒の悲鳴に近い抗議も、今の彼らには遠い世界のノイズに過ぎなかった。


 東海は、資材置き場の奥、埃を被った古い石油ストーブから灰色のタンクを力任せに引き抜いた。


「ちょ、何する気っすかっ?!」


 槇村の声に戦慄が混じる。


「あいつら、今日という今日はぜってーに許さねぇ。もうブチ切れたぜ」


 般若のような形相で、東海はそのタンクを手に、どこかへ歩き出した。

 それを見送るソサイエティの面々は。


「あー、また面白いことになるわ、これ」

「はい! 動画準備!」

「酒持ってくか?」


 と、狂宴を待ち侘びる使徒のような、異様な高揚に包まれていた。


 再び、謎の行進が始まる。

 馬渕東海を先頭にしたその群れは、まるで既存の秩序に対するデモのような、あるいは原始的な宗教儀式のような、説明のつかない連帯感に満ちていた。


 辿り着いた場所は、野球場だった。

 なぜ美大にこのような場所が存在するのか、その矛盾さえも、今の光景には相応しかった。

 マウンドの中央には、造形科が心血を注いだであろう巨大なオブジェが、不気味に鎮座していた。タコとも、あるいは宇宙から這い出した異形ともつかぬ、ボロボロの造形作品。


 東海は、銀色のキャップを無慈悲に捻り、中の液体をオブジェの周囲に回しかけていく。灯油の匂いが夜の闇に混じり始めた。


 すると、戸川が、


「うーわ……。燃やす気だ……」


 と、呟く。

 まさか、そこまでは……。

 七海の思考が拒絶するよりも早く、東海は躊躇することなく、ポケットから取り出したライターで火を放った。


 刹那、紅蓮の炎が爆発的に立ち上がった。


「うわぁ、やりやがった……」

「これ、本当に配信していいのか?」


 戸惑いを含んだ声が漏れるが、その実、場には歓喜に近い気配が満ちていた。

 火は猛烈な勢いでオブジェを侵食し、その肉体を焼き溶かしていく。

 薄暗い空に、どろりとした黒煙が舞う。

 材料が焼け落ち、その内側に隠されていた貧相な骨組みの影が、炎のゆらめきの中に露わになる。その、あまりにも現実味のない破壊の光景に、七海はただ呆然とするしかなかった。

やがて。


「マブチトウミー! お前また何やってくれてんだぁぁぁ!」

「テメェ! いくらなんでも、やり過ぎだろぅ!!」


 地平の向こうから、怒号とともに集団が駆けてくる。あれが造形科の人達なのだろう。


「お前らこそ度が過ぎてんだよぉ! コラァ!」


 東海もまた、叫び声を上げ、両陣営は入り乱れての取っ組み合いへと突入した。


「あらぁ。これまた、ニュースになるんじゃないの?」


 戸川が他人事のように呟く。

 そして、「七海ちゃん。私たちは。離れてよっか?」


「あ、はい……」


 二人は、その狂乱を離れ、ベンチ席に腰を下ろした。

 そこから眺める、巨大な炎。

 原始的な本能を剥き出しにした男たちの闘争。


 ――まるで、映画のワンシーンだ。


 七海は、そう思った。

 不意に、校門の方へと視線を向けると、赤色灯の明滅が。


「あ、パトカー、来ちゃってます」


 制服を纏った警察官二人が、東海たちに向かって滑稽なほど必死に駆けていく。


「私たち、離れててよかったね」


「大丈夫なんですか?」


「さあ、大丈夫じゃない?」


 そう言って、二人は同時に、堪えきれずに大笑いしてしまった。

 その笑いは、止まることを知らなかった。

 さらに戸川が、網膜に焼き付いた決定的な結末を、冷静に口にした。


「……あっ、トウミさん。パトカーに乗せられちゃった……」


 このあまりにも滅茶苦茶で、秩序が崩壊した夕暮れの中で、七海の心に吹き溜まっていた重く黒いタールのような悩みは、いつの間にか炎に炙られ、煙と共にどこか遠くの空へと霧散していた。

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