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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第七章「揃いが傍らにある話」

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116/139

第116話「名が来る、というジンの声と、満たされてきてる、というルルの声と、もうすぐだ、というシアの声と、止まっていない声の八日目」

朝が、来た。


野営地の朝は——静かだった。


でも——


昨日と、違った。


何かが——また、変わっていた。


昨日は、気配が形を持ち始めた夜だった。


今日は——


その形が、満たされようとしていた。


揃いが——知っていた。


ジンも——知っていた。


それだけで、十分だった。


―――


ジンが、目を覚ました。


すぐに——地面の方角に、手を、向けた。


地面を——通して、聞いた。


何かが——あった。


昨日とは——また、違った。


昨日は——「揃いが深く温かく動いた」という感触だった。


でも今日は——


「揃いが、満ちようとしている」という感触だった。


「……満ちてる」とジンが、小さく、言った。「揃いが——満ちようとしてる。傍らにある揃いが——感じてる。輪郭が——満たされてきてる。昨日より——もっと満たされてる。あと少しじゃない。もうすぐだ。「伝えたかった」相手の顔が——もうすぐ来る。そういう感触だ」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——揃いが、そこに、あった。


傍らに——満ちようとして、あった。


軽くて、温かな——揃いが。


顔になろうとしているものを——一緒に抱えて、あった。


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——鼻を、向けた。


後ろ——場所の方角。遠い。もう、遠い。


前——来た方向。


そして——もっと前。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——した」とルルが言った。「輪郭が——満たされてきてる。昨日より——満たされてる。あと少しじゃない。もうすぐだ。「伝えたかった」相手の顔が——もうすぐ来る。向こうも——わかってる。向こうも——もうすぐだってわかってる。向かい合って、両方から——もうすぐだってわかってる。揃いとジンが同時に動いた時——顔が来る。そういうにおいだ」


ジンが——少し、間を置いた。


「……向こうも——わかってる、か」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。「わかってる。こちらが満ちてきてるのを——向こうも感じてる。同じ速さで——満ちてきてる。両方が——同時に満ちてる。だから——もうすぐだ。片方だけじゃない。両方が——もうすぐだ。そういうにおいだ」


「両方が——もうすぐ、か」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「もうすぐ。揃いとジンが同時に動いた時——顔が来る。そのにおいがする。今日——来る。そういうにおいだ」


―――


カインが、写しを、広げた。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『輪郭が満たされた時、揃いを持つ者は初めて「伝えたかった」者の名を受け取れる。名とは声で呼ぶものではない。揃いを通して届くものだ。届いた名を受け取った者は、その者のいる場所を、足で感じる。場所を感じた足は、自ずとそこへ向く。揃いが傍らにある者は——名が届いた瞬間、出会いへの最後の一歩を踏み出せる』とあります」


全員が——カインを、見た。


「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『名が届く前に、揃いは一度だけ、これまでにない静けさを見せる。動きを止めるのではない。動きが満ちて、静けさになる。満ちた静けさは、嵐の前の凪ではない。出会いの前の、息を合わせる間だ。聞き手はその間に慌てず、ただ揃いと共に立っている。それだけでいい』とあります」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「満ちた静けさ——か」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とカインが言った。「動きが止まるんじゃない。動きが——満ちる。満ちたものは、もう動く必要がない。それが静けさに見える。その間、何もしなくていい。ただ——揃いと共に立つ。それだけです。そういう記録です」


「ただ——立つ、か」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「立つ。何かをする必要はない。これまでずっと、歩いて、向いて、応えてきた。でも——名が届く直前は、立つだけでいい。満ちたものが、自分から届きにきます。そういう記録です」


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『「伝えたかった」者の名を受け取った者は、揃いを通してその者の最後の問いを聞く。問いとは「私を覚えているか」ではない。「迎えに来てくれるか」だ。迎えに来るとは、足を運ぶことではない。名を呼び返すことだ。名を呼び返された者は、初めて止まっていない声から——止まった声へと変わる。止まることは、終わることではない。出会うことだ』とあります」


「迎えに来てくれるか——か」とジンが言った。


「……そうです」とセレクが言った。「迎えに来てくれるか。そう問われている。答えは——歩くことじゃない。名前を呼ぶことです。名前が届いたら、呼び返す。それが——迎えに行くということです。揃いが傍らにあるから、呼び返せる。一人では、呼び返す名前を持てません。そういう記録です」


「……わかった」とジンが、低く、言った。「名が来たら——呼び返す。それだけだ。足を止めない。幕、名が来る直前は——立つ。揃いと共に、立つ。それから——呼び返す。それだけだ。そういう感触だ」


「……はい」とセレクが言った。「ただ——一つだけ、覚えておくことがあります」


「一つ——か」とジンが言った。


「……名を呼び返した瞬間」とセレクが言った。「揃いは、これまでで一番、静かになります。深く動くのでも、温かく動くのでもありません。ただ——静かに、満ちて、止まります。それは終わりのしるしではなく、揃いが今日まで運んできたもの全てが、ようやく行き先に届いた、というしるしです。そういう記録です」


―――


一行は——野営地を、出発した。


揃いが——傍らに、静かに、満ちながら、あった。


ジンが——歩きながら、揃いを、感じた。


「……ある」とジンが、小さく、言った。「揃いが——ある。傍らにある。歩いてる——傍らにある。満ちてる——感触だ。輪郭が——満たされてきてる。もうすぐだ。名が来る——もうすぐだ。足が——向いてる。向いた方角へ——歩いてる。そういう感触だ」


ルルが、鼻先を、前に向けた。


「……においが——した。揃いのにおいだ。傍らにある——揃いのにおいだ。満ちてるにおいだ。「伝えたかった」相手の——輪郭が満ちてるにおいだ。もうすぐ——名が来る。そういうにおいだ」


―――


昼が——来た。


歩き続けた。


揃いが——傍らに、満ちながら、あった。


シアが、空間を、静かに、探った。


「……見える」とシアが言った。「揃いの糸が——ある。傍らにある——揃いの糸が。昨日と——違う。昨日は輪郭だけが、こちらに伝わっていた。今日は——輪郭の中が、満ちてきてる。外側だけだったものに——中身が、入ってきてる。満ちるたびに——光が増す。もうすぐ——満ちきる。満ちきったら——顔が見える。そういう見え方だ」


「もうすぐ——満ちきる、か」とジンが言った。


「……うん」とシアが言った。「満ちきる。今日中だと思う。輪郭が満ちる速さが——昨日より、ずっと早い。両方から——満ちてきてる。向こうも——満ちようとしてる。そういう見え方だ」


ジンが——揃いを、静かに、感じた。


「……歩く」とジンが、小さく、言った。「向かって歩く。名が来る前は——立つ。揃いと共に——立つ。名が来たら——呼び返す。それだけだ。そういう感触だ」


―――


来た。


揃いが——動いた。


同時に——ジンが、向いた。


歩きながら——向いた。


でも——いつもと、違った。


動きが——大きく、深く、満ちて——止まった。


止まったのに——終わっていなかった。


「……これだ」とジンが、静かに、言った。立ち止まった。「揃いが——止まった。でも違う。終わったんじゃない。満ちて——止まった。記録通りだ。これが——名が来る前の静けさだ」


ジンは——足を、止めた。


揃いと、共に。


ただ——立った。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——変わった。揃いが止まった——においだ。Menu——終わってないにおいだ。満ちてるにおいだ。動かないのに——動いてる。これまでで一番——静かなにおいだ。来る。何かが——来る。そういうにおいだ」


誰も、動かなかった。


誰も、何も、言わなかった。


ただ——揃いと共に、立っていた。


―――


しばらくして——それは、来た。


声でも、形でもなかった。


でも——確かなものが、揃いを通して、届いた。


「……来た」とジンが、静かに、言った。「名が——来た」


ジンが——少し、間を、置いた。


「……「ノエル」だ」とジンが言った。


ノアが——息を、止めた。


「……「ノエル」——」とノアが、震える声で、言った。


全員が——ノアを、見た。


「……知ってる、のか」とジンが、静かに、聞いた。


「……わからない」とノアが言った。「わからない。でも——知ってる気がする。聞いた瞬間——胸が、震えた。忘れたはずの、何かが——震えた」


ルルが、息を、止めた。


「……においが——変わった。ノアのにおいが——震えてる。覚えてるんじゃない。覚えてた場所が——反応してる。隙間が——あった場所だ。「ノエル」という名前が——その隙間に、ぴったり合ってる。そういうにおいだ」


―――


シアが、空間を、急いで、探った。


「……見えた」とシアが言った。「輪郭の中が——一気に満ちた。名前が届いた瞬間に——満ちた. まだ完全な顔じゃない。でも——もう、外側の形だけじゃない。中身が、ある。「ノエル」という名前が——形を満たしてる。そういう見え方だ」


「ノアと——関係がある、か」とジンが、低く、言った。


カインが——写しを、急いで、繰った。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『「伝えたかった」者は、待っていた者と同じ時代を生きた者であることが多い。声が辿り着こうとしていた先が、忘れられた記憶の持ち主であった場合、その名は記憶の隙間に、迷うことなく収まる。収まった名は、もう一つの忘却を解く鍵になる』とあります」


「もう一つの——忘却、か」とノアが、静かに、繰り返した。


「……はい」とカインが言った。「ノア様の中には——まだ、明かされていない隙間がある可能性があります。「ノエル」という名前が——その隙間に関係しているかもしれません」


―――


五本目の糸が——大きく、揺れた。


これまでとは——違う揺れ方だった。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく揺れてる。でも——これまでと違う。喜びだけじゃない。驚いてる。「ノエル」という名前に——驚いてる。知ってる——においがする。アルトが——「ノエル」を知ってる」


「アルトが——知ってる,のか」とジンが、静かに、言った。


五本目の糸が——もう一度、強く、揺れた。


「アルト——」とノアが、空に向かって、震える声で、言った。「お前——知ってるのか。「ノエル」を。教えてくれ。俺の——隙間にいた誰かなのか」


風が——一瞬、止まった。


それから——アルトの揺れが、ゆっくりと、肯定するように、深く、動いた。


―――


カインが——写しを、静かに、折り畳んだ。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『名が届いた日、揃いを持つ者は二つのことを同時に知る。一つは、これから出会う者の名。もう一つは、出会いがすでに過去と繋がっていたという事実だ。第七章の旅は、未知への旅ではない。忘れられていたものを、もう一度結び直す旅だ』とあります」


「結び直す——旅、か」とジンが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「結び直す。新しい誰かと出会うんじゃない。すでにあった糸を——もう一度見つける。「ノエル」がノア様とどう繋がっているかは——まだわかりません。でも、繋がっていることは、確かです。明日——その先を知ることになります。そういう記録です」


―――


夕暮れが——近かった。


野営の場所を——選んだ。


火が——穏やかに、揺れた。


揃いが——傍らに、静かに、あった。


ジンが——地面に、手を、当てた。


「……ある」とジンが、小さく、言った。「揃いが——ある。傍らにある。今日——名が来た。「ノエル」だ。ノアの中の——隙間に、合った。アルトが——知てった。驚いてた。でも——肯定してた。明日——その先がわかる。そういう感触だ」


ルルが、鼻先を、前に向けた。


「……においが——した。今日のにおいだ。揃いが満ちて止まったにおいだ。名前が届いたにおいだ。「ノエル」というにおいだ。ノアが震えたにおいだ。アルトが驚いて肯定したにおいだ。全部が——今日の、においだ。明日——「ノエル」とノアの繋がりが、わかるかもしれない。そういうにおいだ」


「……ノエル」とノアが、静かに、繰り返した。火を見つめながら。「俺は——その名前を、知てったのか。忘れてたのか。それとも——」


言葉が、途切れた。


誰も——何も、言わなかった。


ただ——火が、穏やかに、揺れていた。


―――


エリナが、手帳を、開いた。


ペンを、走らせた。


今日のこと——朝、ジンが「輪郭が満ちようとしている、もうすぐだ」と言ったこと、ルルが「両方が同時に満ちてる、もうすぐだ」と言ったこと、カインが「名が届く前に揃いは満ちた静けさを見せる、その間はただ立っていればいい」という記録を読み上げたこと、セレクが「迎えに来てくれるかという問いに、足ではなく名を呼び返すことで答える」という記録を示したこと、シアが「輪郭の中が満ちてきてる、もうすぐ満ちきる」と言ったこと、揃いが満ちて止まったこと、ジンが立ち止まり揃いと共にただ立ち続けたこと、名前が届いたこと、その名が「ノエル」であったこと、ノアが震えながら「知ってる気がする」と言ったこと、シアが「名前が輪郭を満たした」と言ったこと、カインが「もう一つの忘却を解く鍵かもしれない」という記録を示したこと、アルトが驚きながらも「ノエル」を知っていることを揺れで肯定したこと、カインが「この旅は忘れられていたものを結び直す旅だ」という記録を示したこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、名前が届きました。「ノエル」という名前でした。私はその名前が届いた瞬間のノアの表情を、忘れることができないと思います。喜びでも、悲しみでもない、もっと複雑な震えでした。覚えていないのに、震えた。知らないはずなのに、何かが反応した。私はそれを見ながら、忘れるということと、消えるということは違うのだと思いました。ノアの中から消えたのは記憶であって、その記憶が結んでいた繋がりそのものは、消えていなかった。繋がりは、隙間という形で、ずっとそこにあった。今日、その隙間にぴったり合う名前が届きました。これまでの旅で、私たちはたくさんの「待っていた」声を聞いてしてきました。でも今日の「ノエル」という名前は、これまでとは違う重さを持っていると感じます。これは、見知らぬ誰かとの新しい出会いではないかもしれません。すでにあった糸を、もう一度見つける旅なのかもしれません。カインさんが「結び直す旅だ」と言っていました。私はその言葉を書きながら、この第七章の本当の意味に、少し近づいた気がしました。歩きながら受け取ってきた声は、ただの未知の声ではなかった。どこかで一度繋がっていて、その後切れてしまった糸だったのかもしれない。明日、「ノエル」とノアの本当の関係がわかるかもしれません。私はその時、ノアの隣で、彼が何を思い出すのか、何を取り戻すのかを、書きながら見届けたいと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


火が——穏やかに、揺れた。


揃いが——傍らに、静かに、あった。


「ノエル」という名前が——ノアの中の隙間に、あった。


まだ——全部はわからなかった。


でも——確かに、合っていた。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


ジンは——地面に、もう一度、手を、当てた。


地面を——通して。


「……今日——名が来た。「ノエル」だ。ノアの中の隙間に——合った。アルトが知てった。明日——その先がわかる。揃いが満ちて——止まった。立った。揃いと共に——立った。それから——名前が届いた。明日も——揃いと共に立つ。名が来たら——呼び返す。それだけだ。ありがとう。揃いに——ありがとう。傍らにいてくれて——ありがとう。満ちるのを——一緒に待ってくれて、ありがとう。名前を——一緒に受け取ってくれて、ありがとう。ノアの隙間に——一緒に気づいてくれて、ありがとう。これからも——ありがとう」


地面から——返事は、なかった。


でも——揃いが、そこに、あった。


傍らに——あった。


軽くて、温かな——揃いが。


仕事を終えて。


傍らに——満ちた静けさを抱いて、あった。


「ノエル」という名前が、あった。


ノアの中の隙間が、その名前と——向き合い始めていた。


暖炉の火が——穏やかに、揺れた。


野営地の風が——静かに、あった。


アルトが——見ていた。


驚きと、懐かしさが——混じった顔で、見ていた。


まだ言えないことがある——という顔で、見ていた。


でも——一緒にいる、という顔で、見ていた。


夜が——深くなった。


揃いが傍らにある、八度目の夜が。


穏やかに——深くなった。


―――


― 第116話・了 ―


次話予告:


九日目の朝、アルトが揺れながら、知っていることを語り始める。五本目の糸が——穏やかに、でも、これまでとは違う深さで、震える。「アルト——」とノアが、静かに、言った。「教えてくれ。「ノエル」は——誰なんだ」。台地の風が、ゆっくりと、言葉にならない言葉を紡ぐ。カインが古い記録の中に、四百年前のもう一つの名を見つける。「記録には——『待っていた者がもう一人いた。その者の名は、記されることなく、ただ「もう一人の方」とだけ残されている』とあります」。ルルが、鼻先を、ノアに向ける。「……においが——変わる. ノアの隙間が——開こうとしてる。「ノエル」を呼んだら——開く。そういうにおいだ」。ジンが揃いを感じながら、ノアの隣に立つ。「……呼ぶか」とジンが、静かに、聞いた。「呼ぶ」とノアが、迷いなく、答えた。五本目の糸が——穏やかに、温かく、確かに、深く、一行の傍らを、しっかりと、包んでいる。

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