残された傷
枯れかけた椿の花が冷たい雨に叩き落とされる夜の日の事だ
真っ黒なレインコートを羽織った人影が、薄汚れた建築物の裏路地に立ち、空を見上げていたのは
この路地に人がいるのは今が始まりというわけではないし、別段珍しくもない話の筈…だった
その人影が足元にしゃがみ込みマンホールを持ち上げようとするまでは。
鋼鉄製の蓋は万が一の事故などおきぬようにと凄まじい重さと専用の工具を必要とするものだが
その影は僅かな穴に指を掛け、片腕で軽々と持ち上げて見せた。音を立てぬように蓋をずらし下水道に入ろうとする。
その直前、ビル風が人影のいる路地裏に吹き荒れ、人影のフードを持ちあげた。
少年だった、歳は14ぐらいか黒い髪があっという間に濡れていく
空を見上げる顔にはまだ幼さが残るものだった、だがその黒炭のような眼には光はなく、
感受性の高い人ならどこか薄らさ寒いものを覚える眼だった、まるでその眼だけが酷く季節を重ねているようだ。
無表情で見上げるその先には雨に汚れるコンクリートの壁、それに挟まる狭く暗い空
そして60階はあるだろう、黒い雨をものともしない銀色に輝く巨大な高層ビルを見つめている
激しい雨が顔に叩きつけるのを意に関せず、その少年は視線をそらさずまばたきすらしない
雨の一粒がその眼に落ち、頬を伝う。そして消え入りそうな声で呟く
「待っていろ」
それだけ言うとその少年はマンホールの中に消え、ずらされた蓋が元に戻る。
雨音が雑音をかき消し、流れる水が匂いを消す
数分後にはそこに少年がいたなどと誰も思わないだろう。
それに何より今を生きる人々にはこれから彼のやることなどに興味はなく自分の事で精一杯なのだ。




