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3話 初めての魔法

 雪山を降り、二人は七色の花畑の間を歩いていた。初めて嗅ぐ甘い香り。初めて見る植物。そこにはレオナの色々な初めてが広がっていた。ゆっくりと歩くグリフを尻目に、レオナは早足で花畑を行く。レオナの緑色の瞳は、初めて見る光景に満ちていた。

「ねぇねぇ、グリフさん。これはなんて言うの?」

「これはパンジーだな」

すっかりグリフに慣れきったレオナからは、次々とありふれた質問が溢れてくる。レオナの好奇心に、グリフは疲れ切ってため息をついた。花びらを散らす風に紛れて、しばらくは二人の楽しげな声が運ばれた。


 花畑を抜けると、川沿いに差し掛かった。その奥には石造りの建物が見え隠れする。レオナは身を乗り出し、見たことのない建物を眺めた。

「ちょっ、ちょっと待て。お前、吾輩をどこまで歩かせるつもりだ」

「あ、ごめん」

グリフが舌を仕切りに出して息を吐く。レオナは川の畔に腰をかけた。

「休むことも大切だぞ。長旅になるからな」

グリフは人間のように前足で川の水をすくい、口の中に入れる。濁り一つない冷たい水が、火照った体を冷やす。グリフはだらしなく、草むらに寝そべった。レオナのグリフを真似して、川の水を飲んだ。雪山とは違う、微かに草の匂いがする水に、レオナは舌鼓を打つ。そのままレオナは茂みに仰向けに寝そべった。川の涼しい風がレオナの髪を撫でた。帽子を脱ぎ、レオナはしばらく風に身を委ねる。

「ねぇ、グリフはどうしてあの雪山にいたの?」

レオナは寝そべるグリフの身体を揺らす。グリフはだるそうに目を開き、大きくあくびをした。

「それを知ってお前に何がある? たまたまだ」

グリフは面倒臭そうにため息をつき、再びふて寝する。レオナはしかめ面をして、グリフの尻尾を引っ張った。

「もう、教えてくれたっていいじゃん」

「痛たたたた!止め……止めんか!」

グリフはレオナを尻尾で払いのける。レオナ尻餅をつき、頬を膨らませた。

「勘違いするな。吾輩はあくまで放浪の身。余計な詮索はしない方がいいぞ」

グリフは顔をしかめ、レオナに背を向ける。レオナはグリフの顔側に寄り、覗き込んだ。

「でも、怪物に襲われた僕を助けてくれたじゃん」

「ただの気まぐれさ。目の前で食い散らかされる姿なぞ見たくないからな」

レオナは不貞腐れ、グリフを説得することを諦める。グリフを知りたい気持ちは収まらないが、いずれ分かってくるだろう。レオナは自分にそう言い聞かせながら、その場に寝転がる。   

 しばらくすると、傍にある茂みが仕切りに動いた。レオナは驚き、筆箒に縋り付いた。蠢く茂みを目にし、グリフも起き上がる。全身の羽毛を膨張させ、尻尾を威嚇するように振り上げた。茂みからゆっくりと何かが現れる。雪山で見た熊の怪物を、レオナは思い出していた。出てきた瞬間、襲われるかもしれない。レオナに冷たい恐怖が走る。

 だが、それは大きな怪物でも凶暴なお化けでもない、ただの小さなゼリー状の生命体だった。ゼリーの中に浮かび上がる緑色の二つの目が、こちらを見ている。黄緑色の体を震わせて、ひどく怯えているようだ。グリフは尻尾を下げて、生命体のほうへ寄っていく。

「……なんだ、スライムか。凶暴な魔物かと思ったぞ」

「スライム?」

「害は無い。ただの魔物だ」

グリフは拍子抜けしてため息をつく。レオナも恐る恐るスライムに近づく。レオナはこの生き物に近い物体を見たことがない。スライムは動く度に、形を絶えず変えていく。透き通る身体は、草むらを写し取っていた。

「お……お願いします! どうか殺さないでください……!」

スライムに口と思しき部分が現れる。大きな口は、ネズミ程なら丸呑みしてしまいそうだ。レオナは向こう側が見え、もはや穴と化した口に足がすくむ。

「殺すだと? 吾輩がお前を殺すと思っているのか!?」

「ゴ……ゴゴゴゴメンなさい!! どうか食べないでください!」

グリフが叱りつける様に怒鳴る。スライムは身を震わせ、目から大量の液体を流した。レオナは、この未知の生き物の挙動を仕切りに見る。

「おかしいな。同じ魔物のクセに、なぜ吾輩に怯えているんだ?」

グリフが近づく度に、スライムは後ろへと跳ねていく。レオナはそっと、スライムの目から流れる液体を拭き取った。

「涙……。君、泣いてるんだね」

人間と同じ、温かい涙だ。目の前のスライムは、恐怖で小刻みに震えている。まるで初めて魔物を見た時のレオナのように。レオナの手が熱くなる。レオナはそっとスライムの頭を撫でた。ひんやりと冷たい感触と、恐怖による振動がレオナに伝わる。スライムは慣れない感触に頭を上げ、レオナの顔を見た。

「怖がることはないよ。僕は君を傷つけたりはしない」

スライムは自分を撫でている人間を見る。レオナは柔らかくスライムに笑いかけた。次第に心地よくなったのか、スライムはレオナの手に体を委ねる。

「あ……ありがとうございます」

再びスライムの目には涙が溢れ出た。レオナは苦笑して、スライムの涙をマントで拭き取る。

「それで、お前はどうしてこんなところにいるのだ?」

グリフが近づくと、スライムはビクッとして素早くレオナの後ろに隠れる。レオナの脛に纏わりつき、スライムはグリフの様子を伺った。

「ひっ!」

「安心して。グリフさんは君の敵なんかじゃないよ」

敵と言われたことに、グリフは不機嫌そうに鼻を鳴らす。レオナはしゃがみ、スライムを真っ直ぐ見る。

「教えてほしいんだ。君は誰なの?」

「ブ……ブラウの街に住んでいるセ……セルマです。私……川に落ちて、気が付いたらこんな姿になっちゃって……」

弱気な口調のセルマ。黄緑色の体に浮かぶ二つの目が潤んでいた。セルマは身体の一部を伸ばし、手のように変形させる。指のような部分を作り出し、痙攣するように動かした。

「こんな姿? 一体どう言うことだ?」

「私、元々は人間なんです。空を覆う程の赤い光を見ていたら、眩しさのあまり足を滑らせてしまったんです。次に目を開けたら、手足がどこにあるのかも分からない、ゼリーみたいな姿になってて……」

セルマはグリフを見て縮こまる。グリフは顎に前足を当ててしばらく考え込んだ。レオナは不安で震えるセルマを撫でる。指のような部分を絡めるセルマの動作は、確かに人間のそれだ。

「どういうことだ? 人間が魔物になるなぞ、まるで……」

「魔法使いさんとグリフィンのおじさんは、どこに行くんですか?」

セルマは軽快な調子で跳ね、レオナの肩に飛び乗る。警戒を少し解き、セルマはレオナの頰に擦り寄った。憧れの存在であった"魔法使い"と呼ばれ、レオナは恥ずかしさに紅潮した。

「おじさん?失敬な。吾輩のことはグリフお兄さんと呼べ」

グリフは“おじさん”という言葉に過敏に反応した。セルマは飛び上がり、再びセルマの足元に逃げる。

「ダメだよグリフ。セルマが怖がってるじゃないか」

レオナは鼻息を荒くするグリフをなだめた。怯えるセルマを見て、グリフは渋々引き下がる。「僕、魔王を止めに行くんだ」

「ま、魔王ですか? でも、あれはただのお伽話ですよ」

「いや、魔王は本当にいる。お前達も見たのだろう? あの赤い光を」

二人は驚き、グリフを見る。グリフの金色の瞳は、一段と鋭さを増した。グリフの言葉を聞いた途端、レオナはあの日を思い出す。あの日、師匠を奪った、赤く輝く禍々しい光。

「昔、同じような事があったそうだ。魔王が放った光で、人々が魔物に変わり、地上を覆い尽くした。その時は魔法使いと剣士の手によって魔王は封印されたそうだ」 

「お師匠の事だ……」

レオナは筆箒を握り締める。かつて師匠が対峙してきた受難が、今また目の前に広がっているのだ。レオナの胸が重くなる。

「お前は魔物に変えられた人々を元に戻さねばならない。それが、お前が師匠から託された願いなのだろう」

「え? で、でも……僕……」

グリフはレオナの背中を前足で押す。レオナはよろけながらセルマの前に押しやられる。筆箒を両腕で抱えたまま、レオナはセルマを見た。セルマの瞳に、自信の無い顔をするレオナが映る。レオナは魔法を何も知らない。形だけ呪文を唱えようとしても、唇の隙間から空気が漏れるだけだ。

「で……できないよ。僕、魔法を使ったことないんだよ」

「何を言っているんだ。この魔物を元に戻すのが、最初の一歩だ。目の前の人間一人救えずに、魔王を止めることはできぬぞ」

グリフは厳しい口調でレオナを諭す。レオナは恐る恐る筆箒を手に取る。レオナの中に渦巻く不安は、セルマにも見て取れた。セルマの瞳に映るレオナは、今にも泣き出しそうだ。師匠に縋るように、レオナは筆箒を握る。

「この者を元に戻そうと、意識を集中させろ。魔法はお前の思いに答えてくれるはずだ」

グリフがレオナの顔を筆先に向けさせる。戸惑いながらも、レオナ筆先に意識を集中させる。指先が痺れるほど、筆を握りしめた。すると、筆先から僅かに光が漏れる。光は次第に強くなり、セルマの体を包み込んだ。セルマの驚く声が、レオナの耳に入ってくる。思わずレオナは、筆箒を落としそうになった。光の中でセルマの姿はぼやけ、影絵のように映し出される。グリフは静かにその様子を見ていた。レオナは自分の筆箒から迸る光に翻弄される。セルマの影が徐々に変わっていく。小さな体はレオナと変わらない大きさになり、手足ははっきりとしたものに変化する。光が収束した時には、一人の少女がいた。色白の肌を、緑色の雫がプリントされた白いワンピースが覆う。気弱そうな緑色の瞳を見て、レオナはすぐにその少女がセルマだと確信した。セルマは茫然として、自分の手を見ている。肌色の人間の手を、ぎこちなく動かしていた。

「元に……戻っている……?」

少女らしい高い声でセルマは呟く。レオナは安堵すると同時に、その場に崩れ落ちた。緊張が解け、身体中の力が抜けていく。雫型のピン止めがついた黄緑色の髪を揺らし、セルマはレオナを支えた。

「だ……大丈夫!?」

セルマに見下ろされ、レオナは照れ臭そうに頬を掻く。師匠以外の手に支えられ、レオナの胸が温かくなった。ゆっくりと立ち上がり、レオナは筆箒を背負う。

「う、うん。ありがとう、セルマ」

「さあ、先に行くぞ」

グリフは微かに笑い、先に進む。レオナはセルマの手を引きながら、グリフの元へ駆け寄る。

「待って! グリフさん」

グリフはため息をつきながら、レオナに振り向く。レオナは息を切らしながらも、晴れやかな表情を浮かべていた。

「さっきはありがとう。僕、自分が魔法を使えるなんて思いもしなかったよ」

「ふん、礼には及ばんよ。さあ、とっとと街へ行くぞ」

グリフは苦笑し、レオナとセルマを急かす。二人は嬉しそうに顔を見合わせ、グリフの後に付いて行く。

 川沿いを歩き続け、建物は街の様相へと変わっていく。その道筋には、三人の楽しげな足音が響いていた。

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