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月明かりに、寄り添う牙

 楓は、マントの陰でコマの咆哮を聞いていた。

 楓父に護られているからか、それとも自らの持つ光のおかげなのか。尋常ではない畏怖に晒される事はない。

 だが、派手な破壊音や唸り声が離れていく。

 たった独りで、かなりの速力で楓から遠ざかっていってしまう。


 行っちゃ、いやだ。


 そんな言葉は、言えなかった。自分の為に引きつけてくれているのだ。それくらい楓にだって分かっている。

 しかし、壊れた涙腺はすぐに彼女の頬を濡らした。皆で一緒に帰ると、言ったのに。

 結局、誰かしらを犠牲にしてしまう。

 それが恐くて、苦しくて。楓はすがるように楓父のシャツをつかんだ。

 静かに、それと分からぬよう周囲の記憶を操作していた楓父は、初めて頼られた驚きに、抱く腕の力を強くした。


「帰って、くるよね? 皆、一緒じゃなきゃ、駄目なんだから」

「大丈夫だよ。あれは何があっても帰ってくる」

「何かないように、ここに来たのに……誰も、傷ついちゃ、駄目なのに――」


 遥か遠く離れた所から二、三回ほど空気を切り裂くような乾いた破裂音に、茶色の瞳が見開かれる。 小さな身体は、かわいそうなほど硬直し、ガタガタと震えだした。

 蒼白となり、オレンジ色のコートの胸元を強く握りしめた。呼吸するのも難しいほどの胸の痛みが、楓を襲う。


「楓ちゃん……楓! 人間の武器では、我々は死ぬ事はない。大丈夫だよ」


 諭す声とかぶさるように、聞こえてきた咆哮で、無事なのだと少しだけ気持ちが和らいだが、更に離れたとも感じた。

 傍にいて欲しいというのは、冗談で言ったわけではなかった。コマともう離れたくなかったのに。生きていて、と願わなくてはいけない状況が嫌だった。


「コマさん……」


 痛切に呟いて、細い腕を逞しい背中に回した。

 強く抱きしめれば、コマが帰ってくるのだと言うように。


 *


 銀色の獣は、上空からのサーチライトに照らされ、その光の中に収まる程度の速度で、派手に地面や塀を壊し、怖ろしげに声を上げながら逃げていた。

 どこまで距離を伸ばせばいいのかは分からないが、とにかく遠くに見える山をまっすぐ目指す。

 コマは瓦屋根の上へと飛び上がった。その勢いに数枚の瓦が割れ、その下で悲鳴が聞こえた。被害が出ないように降り立ったつもりだったが、やはり難しいようだ。

 この姿形のまま、長時間意識を保っていられる事は初めてだった。放って寄こしたマフラーのおかげなのか、とにかく囮は成功しているわけだ。

 もう見えるはずのない方向を振り返り、風を読むように、黒い鼻を高く上げる。


 潮の香りが強いものの、彼女の香りすら感じられる事はない。


 中途半端に伸びた口を、横に大きく持ち上げる。苦笑に見えるその顔には、少しの憂いを含んだ金色の瞳が揺らぐ。

 家の中はともかくとして、外では彼女の居場所を探る事は出来なかった事を思い出したのだ。

 徹底して隠された彼女には、コマの鼻すら効かない。

 彼女の存在を感じたかった。このまま会えなくなるのではないか、と焦燥感にかられる。


「……楓」


 楓父が傍にいるのだ。心配する事など何もないのだろうが、落ち着かない。

 そして、そんな自分に酷く動揺していた。

 激しいサイレンと、強い光に晒されて、コマは白い煙のような息を大きく吐き出す。赤い光が近づくのを確かめて、裏手の道へと跳んだ――


 ――瞬間、乾いた音が立て続けに鳴り響く。


 こんな町中で、まさか発砲されるとは思っていなかった。

 油断していたとはいえ自分の失態に、コマは思わず舌打ちをする。

 その凶弾に、右足のけんを打ち抜かれていたのだ。

 体勢を崩したコマは、それでも家と塀の間に身を滑り込ませた。

 恨み言を吐き出したくもなったが、とにかくこの状況を打破するしかない。


 真夜中であるというのに、塀の向こう側では、歓喜の声が沸きあがっていた。

 贔屓目に見ても人間と見る事は出来ない獣を、捕獲出来るのだ。数の多さを優位とする人間にとって、未確認物体とて怖くなくなるのだろう。

 狼へと姿をやつし、三本足でそっと家の影に身を潜めれば、視線を感じた。


 風下に、何かいる……!


 いくら体調がすぐれないとしても、失態続き過ぎる。

 至近距離に迫り来る黒い影に、身を低くして迎撃するべく、大きく堅固な牙を剥きだした。

 しかし、それは彼を飛び越え、うかつにも塀へと身を乗り出してきた男に襲いかかる。

 苦痛と恐怖に慌てふためく複数の悲鳴が、そこかしこで上がった。

 いぶかしく思いながら、コマは息を殺し、塀越しに様子を窺う。

 何者かが、反対側の家の屋根へと気を使うわけでもなく降り立った。


 破壊音とともに、月の光にぼんやりと照らされたソレは、黒の混ざった灰色の毛皮に覆われ、二本足で立つ犬にも似た顔立ちの巨獣。

 赤い瞳が冷酷に光り、凶悪な怒りに満ちた声を、閑静な住宅街に響き渡らせた。

 中心にいる警察官や、騒ぎに起きてしまった住民達は、その恐ろしい咆哮に身の毛立ち、その恐怖に支配される。

 その歪な獣は嘲笑するように口を歪ませ、屋根を渡り跳びながら、山へと駆けた。


 制服を着た男達は、身震いしながらも果敢にパトカーに飛び乗り、ヘリの発するサーチライトを追って走り出した。

 けたたましい音が遠ざかり、戻ってくる事がないと確信したコマは、騒ぎの間に完治した足で地をしっかりと踏みしめる。


「……どうして、タイが?」



 彼には、気まぐれという言葉は当てはまらない。何事も計算ずくで動いていたはずだった。

 年月が、そうさせたとでもいうのか。

 どうしても信じられないその事実に、思わず呟いたコマだったが、誰が答えてくれるわけでもない。考えても分かる事ではない。


 ただ、静かに走り出した。

 早く、彼女の傍に戻る。

 それだけを考え、闇夜を疾走するコマを、おぼろげな月明かりが優しく見守っていた――


 ――白々と、夜が明ける。

 楓は、眠る事も出来ずにいた。虎の姿で、大きなコブを作って意識を失っているネキの、大きな胴体に毛布を巻きつけた身を預け、そっと撫で続けていた。

 呼吸に合わせて波打つ温かな身体に、不安は最小限でとどまっている。

 また、涙がこぼれ落ちた。


「おかしいな……こんな事、なかったのに」


 泣くという言葉は、辞書でしか知らなかった。

 何事も起こらず、全てにおいて平穏な生活は、楓の感情に何の起伏ももたらさなかったのだ。

 ネキを拾った時も、彼女は父親にしか興味を示さず、楓はただ眺めているだけだった。


「ネキさん……好き」


 ピクリとも動かない巨虎に、そう呟いてみる。

 心からの言葉だった。口にしてしまえば、少しだけ胸がむずがゆくなる。

 涙を袖で拭って、楓は小さく笑った。

 明るくなってきた窓辺を、泣き腫らした目でぼんやりと眺める。


「コマさん……大好き」


 呟いた言葉は、誰にも届かない。

 そう気が付いて、また涙が溢れ出す。

 もう何度目になるのだろう、体中疲れきってしまっていた。それなのに、眠れないのだ。

 冷たくなった指先を温めるようにネキの身体に押し付ける。


「大好き、なんだよ」


 怖かった。何がと聞かれたとしても、漠然とした物でしかなかったが、その目は丸く巣作りされたバスローブを見つめている。

 帰ってきて。という言葉は、嗚咽に阻まれた。

 感情のコントロールが追いつかない。ぽっかりとあいた胸の隙間は、広がる一方だった。


 玄関前の定位置に、彼がいないというだけで、酷く心細い。


「こわい……よぉ」


 小さな子供が泣きじゃくるように、それでも楓は声を押し殺して泣いた。

 楓父はネキのシツケを済ませ、すぐ戻ると言い、出て行った。

 その間にコマを探しに出たかったが、行き違いになれば意味がない。それに、動きの悪い足では遠くまで探せない事も分かっている。


「役立たず――何で、こんな足に生まれちゃったの!」


 右足に小さな拳を振り上げれば、黒い扉の外側を小さく引っかく音が聞こえてきた。

 控えめに、それでもちゃんと聞こえるように。近くに誰かが起きていると、確信した仕草にも思えた。

 ショートボブを揺らして、立ち上がる。声が、出せなかった。

 言いたい事は、たくさんあるのに。

 毛布を肩にかけたまま、ゆっくりと扉に近づく。心はすでに扉を開け放っているくらいの勢いを見せていたが、現実はドアノブに手をかけて躊躇していた。


「……コマ、さん?」


 声を震わせて、氷のような冷たさの扉に手の平を当てた。

 楓の声に別段驚いた様子もなく、そうだと返してきたそっけない言葉。あまりにもいつも通りな言い方に、冷え切った頬をほころばせた。


 こんなにも心配したのに。

 そうだって……それだけ?


 色々な想いが頭の中を駆け巡り、たどり着いた先は唯一だった。


 帰って来てくれて、良かった。


 扉をそっと開ければ、少し離れた所で背筋を伸ばし、行儀良く座っている。

 誰にも侵されていないような冷たい空気は、濡れた頬を優しく撫で乾かしていく。

 その静寂と優しさに誘われて一歩踏み出せば、彼も立ち上がった。


「おかえり! コマさん」

「ああ、遅くなってすまない」


 ため息を吐きながら、渋い声で言う彼に、楓は不思議そうな顔を見せた。その意味が分かったのだろうコマは、長い口を横に伸ばしながら苦笑する。


「獣の姿でも人に追われるし、まさか人間の姿でも出歩けないだろう? 最近、人間はどんなに遅い時間でも起きてるんだな、面倒くさい」


 思わず裸で走っている人型のコマを想像し、赤面する。

 脳裏に浮かんでしまったその映像を消す為に、ショートボブが乱れるほど頭を振れば、まっすぐ見つめてくる金色の瞳とぶつかった。


「……どうした?」

「なんでもないからっ!」


 入って、とうながして――隣を横切ろうとしたコマの首に抱きついた。

 温かく、硬い毛並み。少し薄汚れているが、しっかり筋肉がついている首に顔をうずめて泣く。

 不安、切なさ。そして安堵が一気に押し寄せてきていた。

 毛並みが濡れる事も構わず、コマは静かに彼女の傍にいた。


「ってゆーか……悪かった」


 久しぶりの感覚に、鼓動が早くなりながら、コマは口の中で呟くように声をかける。

 早鐘のように打つ脈を聞きながら、楓は泣きながら笑った。


「……ってゆーか、悪かったよ」


 顔を離して言い返した楓を振り返り、困った顔で、そうだなと言う獣を見て、もう一度小さく笑う。

 少々、塩気のあるそのニオイ。コマはそっと鼻先を寄せ、彼女の濡れたアゴを小さく舐めた。

 飛び上がるようにコマから離れた楓の顔は、驚きに満ちている。

 昔、自分を犬だと飼い、泣き虫だった子供をあやす時にしていただけの行動だった。だが人によって、それがどれだけ重要な行動だったのかを、今、思い知る。

 コマは激しく動揺し、尾を股に挟んで耳をさげ、低姿勢に身構える。無意識に、謝罪の意を示していた。


「い、いや! これはっ!」

「コマさんの――変態っ!」

「変態とはなんだ! これは、そう、なぐさめようと思って……」

「うるさい、うるさーいっ! 近所迷惑でしょっ! 早く家に入ってよ!」


 首まで赤くなるのを感じながら、楓は恥ずかしさを隠すようにコマの背中を強く叩く。

 言葉に迷って、変態と言ってしまった事は、言い過ぎだったろうか? と少しだけチクリと胸を刺したが、口から飛び出しそうなほど跳ねている心臓を誤魔化す事で、精一杯だったのだ。

 騒々しく黒い扉が閉められた。

 また陽はのぼり、作られた平和は続くだろう――



「……あー、ジョイス。あいつ、消していいよな?」

「許さん……」


 青い髪を風になびかせながら、隣で浮いている黒ずくめの男へと思わず顔を向け、意外そうに目を見張った。

 しかし、彼の放った言葉はカラスに向けられたものではなかった。剣呑に光る赤い瞳を確認し、複雑な気持ちでカラスは呟いた。


「あー……俺の分まで、頼むわ」


 そのままこの場にいたら、確実に八つ当たりされそうだと踏み、朝陽に輝く黒く美しい羽を大きく伸ばした。

 コマに対して、同情する余地は微塵もないが、疲弊している今、騒動に巻き込まれる事だけは避けたい。

 つむじ風を起こして、彼は出来る限り離れる事しか出来なかった。

 静かに、しかし迅速に淡い光に照らされた邸宅へと降り立つ彼を尻目に、カラスは小さく首をすくめた。

 見ざる、言わざる、聞かざる。と、人間の言葉を思い浮かべ、ため息をついた。


 ――常時、平和が保たれるという事は、なかなかにして難しいものなのかもしれない。




月明かりに、寄り添う牙。これにて終幕となります。


長い間、お付き合いくださいまして、

本当にありがとうございました!


もっともっと精進していきます。


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