終章
「今日は二人で帰りましょう」
クラブ発足の打ち上げ終わって、綾瀬は静流にそう誘われた。後に予定もなかったので二つ返事で受け入れる。そもそもこの日に限らず綾瀬は静流の誘いを断らない。
静流と歩睦、そして綾瀬と双葉が仲良くなってからというもの、こうして二人でいる時間は少なくなっていた。家に帰ると今では妹を含めて団欒になるし、夜はお互い仕事や練習があるのだ。
日本に帰って来た頃よりも日が長くなってきていた。打ち上げは夕方まで続いたが、まだまだ陽差しは強い。あちこちに濃い影が虫食いのように廊下に落ちている。スペインにいた頃がふと思い出された。向こうはもっと陰影がはっきりしている。そこで気づく。最近は忘れていたのだ。向こうの空気や匂いというものを。
「静流さん、私たち結構普通に高校生やってますよね」
「そうね」
「あ、でも静流さんはまだまだかもしれませんよ」
「あら、どうして」
「こないだ静流さんの教室に行ったじゃないですか。みんな静流さんを神聖視してますよあれ。双葉や楓はそういうのなくなりましたけど」
「あなたは最初から平気にしていたわね。教室で一緒に過ごすのは時間は長いけれど、そこまで深いつきあいではないでしょう。だから私の外見や能力にだけ目が向いてしまうのね。けれど私、今度、国際金融のセミナーする予定があるわ。クラスメイトに」
「それはなんでまた」
「打ち解けてきているという事ね。考え方は色々よ」
静流がほんの少しだけ口元に陰を作るようにして笑う。この人は性格は変わらないけれど、気持ちは変わったのかもしれない。それはもちろん自分もだ。二人とも感情が豊かになってきた。
「やっぱ普通じゃないかもしれません。友達に金融のセミナーって。日本に帰って来た時はしばらくギターは弾かないのかな、って思ってましたよ」
「そう? 私は今までやってきた事は続けるつもりだったわ。もちろん時間は減らしてだけれど。それが周囲とのかけ橋になるとも。それが壁になるか橋になるか、あるいはそのまま放置するかは自分次第でしょう」
「さっき私もギターを少し手ほどきする事になりました。バンドをやっている子たちに頼まれて」
打ち上げの前にまず片づけがあった。倉庫から持ち出した椅子を元の場所に戻そうとしているとロックな外見の子たちに呼び止められた。金髪にピアス、シャツの下はグラフィックの入ったTシャツという出で立ちの少女は綾瀬を階段の裏にある物陰に連れて行かれた。これが噂のカツアゲかしらと、綾瀬には余裕があった。彼女達の格好はファッショッンだとわかっていたからだ。スペインの下町にいる不良は格段に洒落にならない。そして綾瀬はそんな彼らとも、友人とまでは行かないものの世間話したりする仲ではあった。
「しびれた。アンタ、最高にロックだ。オレっちにギターを教えてくれ」
そっか、オレっちか、と綾瀬は承知した。それに自分はやっているのはロックではなくフラメンコで、どちらかというとクラシックを分類されるのだが、まあそれは良いだろう。ともかくオレッちがわざわざ人目につかない所に来たのは単に頭を下げている姿を他の人間に見られたくないというロックな心意気からだった。
「あなたの方がよほど神聖視されているじゃない。ロックスターね」
「最近どんどんなおかしな方向に進んでいるような気がします」
「いいのよ、それで。私は畔に普通を求めていると言ったのを憶えている?」
「ええ、私にも普通の高校生になるって誘いましたね」
「でも、あれは訂正するわ。私たちは普通というよりは日常を求めていたのよ」
「その違いは何ですか」
「普通とは個性的ではないこと。日常とは特別な事があっても、生活のバランスが保たれること。私達はそれぞれ、興味のある事だけを今までしてきたでしょう。でもそれはアンバランスだと気づいていたのじゃないかしら」
「なるほど」
綾瀬はうなずいた。綾瀬の師匠が日本に帰るのをまるで止めなかったのは、それを見越してだったのかもしれない。彼に技術面で指摘された事はほとんどない。それくらい綾瀬にはテクニックの面で才能があった。しかしだからといって自分に神と言われる彼ほどの演奏ができるわけでもなかった。その違いの一端はそこにあるのだろう。自分にはギターしかないが、彼はもはやそれを生活の一部として融合している。それはギターで生活費を稼ぐとはまた異なるレベルの話だ。
「静流さん、私の友人の話なんですけど」
「私が知っている人?」
「違います。前にちょっと話した、イギリスのバイオリニストの子です」
「憶えているわ。あなたをライバルだと思ってる人ね」
「そいつです。サラっていうんですけど。昨日サラから国際電話があったんですよ」
アンタ、今どこにいるのよ、と電話口で相手は激昂していた。わざわざイギリスからスペインにまで遊びに来たら、肝心の綾瀬がいなかったのだ。まあ、それは怒っても仕方ないかもしれない。スペインを発つ時、彼女には別に連絡しなくてもかまわないと思ったのはあの頃の自分なら不思議ではない。しかし今になって思えば薄情だったように思う。
サラが自分をライバル視していのも、今ならその理由がわかる。彼女はとても不器用なのだ。自分でも言っていたではないか、サラは流儀や形式にこだわると。会う理由を作らないと、会うこともままならない。それが綾瀬にはよくわかった。かつては自分もそうだった。だが、それは一度、自分の殻を破らないと認識できない事でもあった。
しかし綾瀬は電話口にさらに挑発した。軽口を叩き合うのが、自分と彼女の関係だったからだ。自分と彼女の演奏スタイルはまったく違う。自分が正確さを旨としているとしたら、サラの演奏はそれを気品や優雅さを持ち味としている。それなのになぜか彼女は自分と競い合おうするのだ。しかも自分が不利な正確性という土俵で。当然、綾瀬が勝つのだが、お互い目指す所が違うのだとはどうしても思えないらしい。綾瀬はそさを利用して採決を煽り、日本に、ここに誘った。ここに来ればサラも新しい自分を発見できるだろうと思ったからだ。幸い、彼女は日本で暮らしていた経験があって日本語にも堪能だ。
今度こそ決着をつけてやるわ、首を洗って待っていなさい、とまったく英国人らしからぬ慣用句を用いてそう宣言し電話は切れた。まだ住所も教えてないのにどうやって来るつもりだろうと思ったが、彼女らしくもあった。きっと電話を切った後で聞くのを忘れたことに気づいて悶々としたに違いない。メールで住所を送ってやると、「その、ありがとう。でもそれと勝負は別よ!」と返信が届いた。
「というわけで、もし静流さんが良ければ二、三日泊めてあげたいんですけど」
「かまわないわ」
「ありがとうございます。サラもここに住めるようになればいいんですけどね。もっと自由になれると思うんです」
「部屋は一つ余ってるから、別にそれでも。ただその子がそう望めばの話ね」
「そうですね。でもきっとわかると思います」
下駄箱で靴を履き替え校舎を出る。そういえば今日は静流以外の誰にも誘われなかった。もしかしたら静流が根回ししたのかもしれない。必要があれば彼女はそれくらいの段取りは普通に踏んだりする。しかし、その必要があるとは思えなかった。
「なんか誰もいませんね」
ついさっきまでB棟にはあちこちに人がいたはずだった。打ち上げの最中もドアにはめ込まれたガラス越しに、生徒が行き交っていた。手洗いに向かえば、吹奏楽部や演劇部の練習が遠くに聞こえていた。しかし今はそんな物音も一つもしない。
「ええ。歩睦も居なかったから、あなたと帰るのにちょうどいいと思ったのよ」
校舎を背にして校門まで歩いた。その背中に声が届いた。綾瀬と静流を呼ぶ声だ。二人で振り返ると、屋上から楓が叫んでいた。それだけではない、屋上には生徒が何十人もいた。そのなかには双葉や歩睦、畔、遥や揖斐ももちろんいる。顔が小さくて全部はわからないか、演奏会に参加してくれた人間もたくさん見えた。楓が指揮者の真似をしタクトを振り呼吸を合わせる。そして言った。
『綾瀬律さん、新開静流さん、ようこそ私達の高校へ! クラブ設立おめでとう!』
屋上から宙に何かが放り投げれられる。するすると校舎の中程まで伸びて、それが垂れ幕だとわかる。そこには文字が書いてある。祝、クラブ設立、おめでとう。一人一人が紙吹雪や,ビニールテープをばらまき垂れ幕を飾った。
「静流さん」
「何か動きがあるのは気づいていたけど、これは予想外」
さすが静流だった。自分はまるで気づかなかったが兆候はあったらしい。言われてみると、さっき下駄箱にはまだ外靴がたくさん残っていた。それに気づきつつ何もしなかった静流ははやはり変化していた。たぶん、以前なら何が起きているのか調べていただろう。しかし今、彼女はその必要がないと判断している。それはつまり彼らを信頼しているからだった。
「これは、嬉しいな」
綾瀬はしみじみと呟いた。ちょっと泣きそうになっていて声が震える。もしかしたら静流にばれているかもしれない。だが、それでもかまわなかった。双葉と話していたみたいに慌てたりはしないが、単純に心が震えた。ここまで自分たちの事を考えてくれる人たちが他にいるのだろうか。きっとは自分たちは幸運なのだ。どこの学校に行っても、この素晴らしい時間を迎えられたとはとても思えない。
「ほら、これならきっとサラにもわかりますよ。静流さん、ここは良いところですね」
「ええ、私達みたいな人間にはとても暖いところね」
綾瀬と静流は屋上に向かって大きく腕を振った。
最後までお読みいただきありがとうございました。




