第7章 ― 1
それは突然のことだった。
山の上から地を這うような音が轟き、波に似た音がどんどん近付いてくる。
全身の毛が逆立つような不快感に見舞われながら、夏希は山頂を見上げては絶句した。
「う、そ・・・・・」
天災は去ったはずだ。
2人の魂は点へ還り、全ては“めでたし、めでたし”で終わるはずだった。
それなのに、黒く波立つ土砂はもの凄いスピードで近付いてくる。
夏希は崖淵近くに立ち、洸に向かって声を張り上げた。
「洸、逃げて!! 今すぐ、そこから・・・」
逃げるってどこに? 土砂はもうすぐ側まで来ているというのに。
万全な調子の洸なら、機転を利かせて何かを思いついたかもしれない。
けど、今の洸は満身創痍で何もかも諦めた風に、静かに夏希を見上げていた。
「悪い、夏希。オレはここまでだ」
地鳴りで聞き難くなっているはずの洸の声が、鮮明に聞こえる。
心を解かすような優しい声色に、胸の奥が痛んだ。
「なに、言ってんの。まだ、これからじゃん。灯の成長を見るんでしょ? 親の跡を継ぐんでしょ? 芽依と・・・」
結婚するんでしょ?―――、夏希は言葉を続けられず、下唇を噛み締めた。
自分はこの時代の人間ではない。未練を持っててはいけないのだ。
夏希が来なければ、洸は順当に司から神職の座を受け継ぎ、芽依と交際を重ねて夫婦になっていたのだろう。だが、夏希が来たから洸の歯車は狂ってしまった。夏希のせいで洸は罪人となって罰せられることになった。罪人となった洸が神職の座に簡単に就けるとは思えない。けど、洸ならできると思う、信じている。
他人任せな考えしか持てなくて後悔の念に襲われる夏希に、洸はゆっくりと首を左右に振った。
「オレは夏希に出逢えて良かった。出逢い方は最悪だったけど、今は心底思ってる。オレはおまえを、おまえだけを守りたい。オレの側で生きて欲しいと思ってしまったんだ。・・・それが禁忌に触れた」
まるで、夏希の気持ちを読み解くように、洸は言葉を重ねる。
洸は血に濡れた右手をゆっくりと差し出した。
それは夏希と血の混じりを交わした約束の手。
届くことがないと分かっていても、夏希は同じ穴が空いていた左手を伸ばした。
「洸! お願い、掴まっ・・・」
「夏希、どれだけ言葉を重ねてもオレの気持ちは変わらないよ」
「洸・・・、私も、だから・・・・・」
「今までありがとう」
洸は笑顔を向けた。
ほんの少しの短い間だけだったが、今までで一番、優しくて暖かい笑みを浮かべてくれた。
夏希の目尻から涙がこぼれる。
洸は土砂の中へと飲まれていった。
「いやあああああああああぁぁあぁぁぁぁ」
絶叫が響く。
頭の中が真っ白になり、何も考えられない。
どうして、どうして洸がこんな目に合わなくちゃいけないのだ。
元々言えば、夏希が彼を巻き込んだせいだ。そうだ、自分のせいだ。自分が悪い。
夏希が居なければ洸は死なずに済んだ。痛い思いも、苦しいこともせず安穏に生きていられた。
「私の、せいで・・・」
夏希の手の平から小さな鈴が音を鳴らしてこぼれ落ちる。
月明かりが反射して土砂の中で落ちていった。




