Impatience 「焦燥」
「俺は、俺は何が間違っているっていうんだ」
兵長は見ていた、あの大尉の変わりようを。
「大丈夫か、マリアーン」
「問題ありません、閣下」
基地に戻ってから、マリアーンの様子がおかしいことにラファエル・アリギエーリ中将は気づいていた。それもそのはずだ。「影」と対機し、逃したのだ。彼のお節介な性格に由来するものではなく、軍の秩序のためにメンタル面のサポートが必須であるため、ラファエルはマリアーンを個別に呼び出したのだ。
「この任務は滅入る兵士も少なくない。何より相手がアメンテスの幹部だからな」
「いえ、寧ろ私は奮い立ち倒すべき相手の前で、あのような失態を」
「影」という大物を先ほど仕留め損ねたことを彼は気に病んでいたのだ。仇敵を倒せなかった悔しさに、マリアーンは手を膝に置き震えていた。
「お前は頑張ったように見えるがな」
「大事なのは成果です、俺は、俺は……」
蒸し暑い空気が簡単に組み立てられた庁舎に絡みつく。迷彩服は脱いでいない。陸軍の象徴である深緑のスカーフも取っていない。つまり戦って何も支度せずにこちらに戻ってきたのだ。恐らく、彼の脳裏には銃を握った感触も硝煙の匂いも残っていただろう。そのままにしてはいけない、とラファエルは悟った。
「来い」
マリアーンと同じ迷彩服を着崩していたラファエルは、大尉の手首を掴むと顔を見合わせた。
「か、閣下」
突然の行動に、戸惑うマリアーン。
「……まだ、お前には闘志が見える、迷いが見える」
瞳は優しかったが、言葉には心強さが見られた。大丈夫だと諭すよりも、ずっと信頼できる響きだ。安堵したつもりはなかったが、上官の命令には背けずマリアーンは大人しく彼の後をついていった。
「この基地に地下があることは知っているか」
「はっ、噂程度には」
「噂か」
ラファエルはふっと笑うと、電子タバコを取り出して吹かしながら廊下を歩く。愛用品のニコチン濃度は高く、「3柱」クラスのならば健康上禁止されている嗜好品だ。彼はすべてが例外だった。3柱の権限を使うことができ、なおかつ彼は3柱ではない。出生も謎であり、彼がこの地位にいる本当の理由もわからない。マリアーンにとってプライベートな話題は心底どうでもよく、良い上司か悪い上司かだけが問題であったので何の問題も無かったとはいえ、その関係は傍から見れば不気味であった。こつこつと2組の靴が階段を鳴らし、地下へと降りていく。そして解錠の音と共に、マリアーンの見慣れない光景が広がった。
「ここは」
「訓練場。使うことはまずないがな」
自動的に照明として白いLEDライトが付き、無機質な白い壁とビニル素材の赤いマットの敷かれた床が広がる。基地の一部というよりは、スポーツジムのようだ。部屋につくなりラファエルは電子タバコの電源を落とし、上着を脱いだ。まだ空調が機能していないらしく蒸し暑かった。髪をかきわけてついた一息は強いタール臭。その煙る空気の中で、2つの緑の双眸が輝く。彼はマリアーンの前に立つと上着を脱げ、とジェスチャーした。
「マリアーン、稽古だと思って一戦交えようじゃないか」
ラファエルは黒いタンクトップに軍用の迷彩ズボン、腰に同じく緑の迷彩の上着を巻いて臨戦態勢を整えた。
「え、ええっ!閣下とお手合わせなど、この俺が」
「気にするなマリアーン。タイマンだ。お互いの拳で語ろう」
先ほどとは明らかに違う、戦う者の鋭い眼差し。冷めていたマリアーンの闘争心もまた、火蓋を落としたのか。
「…分かりました、閣下の仰せのままに。」
「堅苦しい言い方はよせ。軽いお遊びだお遊び」
マリアーンは突然の状況に軽く一呼吸するとタンクトップ一枚になり拳を構えた。
「その"お遊び"にも、本気だすのが俺のやり方だけど、な!」
隙を狙いラファエルが一発目をぶちこもうとする、すかさずマリアーンは受け止める。続いて左のジャブ、これも受け止める。脇腹にめがけた右、察知して受け止め、次は右肩を狙う左をいなす。
「どうした、攻めてこないのか」
ラファエルの攻撃を確実に受け止めていたが、反撃のチャンスがない。否、あったのだ、あっても、彼がマリアーンの上官だから、という理由で返せない。八百長でも負けたほうがいいから、演じるしかないと考えたのだ。面倒な人間関係は御免だった。
「っく!」
上半身だけに注意していたことが赤裸々になったかのように、マリアーンは中将の右脚を食らう。言葉に偽りはない。本気だ。容赦しないことは分かっている。でも、自分は、
「遠慮するな、俺を叩け!」
ラファエルの強烈な右ストレートがマリアーンの頬を殴る。自重の軽いマリアーンはいとも簡単に吹っ飛び、壁に打ち付けられる。
「しかし、」
「何がしかしだ。だからお前は影に勝てないんだ!」
マリアーンの瞳に刺す光が揺れる。
「本性で、本気で、正直に戦えなければ……相手はお前の隙をつく!だからお前は妥協して、チャンスを逃したんだ!」
「そ、そんなはずは……!」
「だったら何だというのだ!」
ぐっ、と苦虫を潰したような顔をするマリアーン。それは痛みによるものではない。「いままで真剣に戦ってきた」自分を否定されたことへの悔しさの表情だ。
「閣下……!」
「それがお前の本心か?立て、マリアーン!」
言葉とは裏腹に決着をつけるかのように、猛攻をかけるラファエル。しかしマリアーンの両目が開く。壁際にいたことを逆に利用し、壁を斜めに蹴り上げ宙に舞ったのだ。背後に回れた彼は、すかさずラファエルに肘を打ち込む。
「ぐっ!」
軽い呻きを漏らすラファエルに、今度はマリアーンが威勢よく声を出しながら右ストレートを打ち込んだ。
「やるな!」
「"俺"だって"お前"の機嫌取りで戦いたいわけじゃない!」
「まったく、言葉が汚いぞ?……しかし、そうこなくては!」
フットワークの軽くなったマリアーン。彼の目は狂気めいた闘志に燃え、ラファエルが攻撃を仕掛けようにもその俊敏性からあっさりと躱されてしまう。ラファエルがリーチの長い脚で中段蹴りを仕掛けると、宙返りをして後ずさり、猛スピードで突進する。彼は苦戦していたが、その苦戦を喜んでいた。強い人間と戦える闘士としての喜び、そして強い部下を持てたことへの喜び。二人の男は、只管、純粋な闘争心による戦闘を繰り広げていた。そして決着を付けたのは――
ラファエルの下段の蹴りを躱すと同時に、脚に乗りそのまま飛び上がり、中将の頭に踵を落としたマリアーンであった。頭部へと鈍い痛みの走ったラファエルが、赤いクッション性のあるマットに倒れる。勝負はあった。
「か、閣下!申し訳」
「……いい、楽しかっただろ、マリアーン?」
「……はい!」
痛みを堪えつつ起き上がったラファエルが見ていたのはまだギラギラとした瞳を湛え、今まで見たことのない笑顔のマリアーンであった。彼はただの復讐鬼ではない。彼は戦うことを元来好んでいる、生粋の武人だ。ラファエルは彼を失いたくはない、と胸の奥で固く誓った。
「だから、もっと自分に正直に生きろ。辛かったら辛いと言え。もっと素直になっていいんだ。本当のことを言う、これは上官の命令だ。」
「サー、イエッサー!」
その後大尉と中将は打撲の痕により部下に散々心配させられ軍医に迷惑をかけたのは言うまでもない。だがそれは、マリアーンにとっては武勲の傷だ。




