第十一話・1
球技大会の翌日。幸いにも、打球を当てられたところは杜山先生(と空野先輩)による手当てのおかげで、全く腫れたりすることはなかった。
「ねえねえ、海原くん」
「海原くんって定期演奏会出るの? 六月に入ってすぐにあるんだけど」
朝の教室で、吹奏楽部の小谷さんと鈴木さんが声をかけてくる。二人が話しかけてくることは珍しくなくなり、クラスメイトが変にざわつくことも少なくなっていた。
「定期演奏会か……そうか、六月にあるんだよな」
「うん、秋にもあるんだけどね。六月にやるのは新入部員のお披露目っていう感じでもあるんだけど、やるからにはってことで曲も結構難しいのがあって……」
参加するなら練習しておく必要があるということだ。俺としては、必要なものがあれば事前に予習をしておくことはできる。
「じゃあ、考えておくっていうことでいいか?」
「ほんと? じゃあ、参考にこれね。今年やる曲の楽譜、いっぱいあるけど」
いっぱいというが、厚めのファイルに一式おさまっている。そのファイルに『もりやま』と書いたシールが貼ってあって、杜山先生が用意したというのは分かった。
「お、おい……海原が何か女子から渡されてるぞ……!」
「さすが海原、勉強を教えた代わりに上納品を……あのファイルの中には、とんでもないものが入ってるに違いない……!」
とんでもない楽譜は含まれてないようだが――と、もはや脳内で突っ込むのも疲れるので、受け流すことにする。
「やれやれ、あれだけテニスでフェアプレーをして悪役を粉砕したのにな。まだ俺たちのことが正義側だと分からんやつがいるとは」
いつの間にか教室に入ってきていた純が声をかけてくる。純の言う通りではあるが、俺は別に自分が正義とまでは思っていない。降りかかる火の粉は払わなければ、というだけだ。
「海原の鬼畜ドライブを見たせいか。あれは俺も震えるからな、どうやって打ってるんだって」
これからはテニスをする時も、本気を出してはならないのか――いや、それも場合によるだろう。とりあえず適当なことを言う純は置いておいて、もらったばかりの楽譜をホームルーム前に見ておくことにした。
◆◇◆
俺の働いているコンビニでは、夕方シフトに入ることがある高校生は俺と空野先輩の二人である。
部活のある空野先輩は出られる曜日が限られているので、俺は空野先輩が出られないところを埋めるのが基本だ。しかし夕方のパートの人が休みを取って手薄なときが月に何度かあって、その時は二人で一緒になる。
「というわけで……今日は空野さんが久しぶりだから、海原くんに積極的にサポートしてもらってね」
「はい。でも、私一人でもしっかりできます」
空野先輩は責任感があるので、俺に頼る前提というのは駄目だということだろう。俺としてはいつでも頼ってもらいたいが、先輩の意志を尊重したい。
そんなことを考えていると、店長が俺を見て楽しそうに笑う――これは、何か茶化そうとしている感じの、イタズラをする前の猫じみた気配だ。
「海原くん、空野さんの試合を応援に行ったのよね? 結局どうなったのか、海原くんが詳しく聞かせてくれないのよ」
「そ、それは……応援には行きましたが、何があったっていうのは、先輩のいないところで話すのは駄目だと思っただけです」
「もー、律儀なんだから。私と伊角ちゃんなら、他に言いふらしたりしないっていうのにねー。私が奈々ちゃんの嫌がることするわけないじゃない」
「……奈々ちゃんは恥ずかしいので、名字で呼んでください」
空野先輩の名前はニックネームがつけやすいので、色々な名前で呼ばれている――俺も子供の頃は『リョーちん』などと呼ばれていたが、最近は不本意な名前ばかりで呼ばれるようになってしまったものだ。
「海原くんったら、空野さんに怒られる私を見て嬉しそうにしちゃって。俺が一番奈々海先輩のことをわかってる、みたいな」
「店長、表が混んできてるので、レジに入ります」
「……私も行く。店長、バイトを続けさせてくれてありがとうございます」
「私の方がお願いしたいくらいなんだから、気にしないで。なんなら海原くんと一緒に家まで行こうかと思ってたくらいよ」
先輩がバイトを休んでいた理由は試合前だからというだけではないので、俺が空野先輩の家に行くなんて考えられなかったわけだが――その辺りのことは、今となっては懐かしいくらいの気持ちで振り返ることができる。
「……いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ。こちら温めていかれますか?」
二つあるレジでそれぞれ接客をする。よく来てくれているお婆さんが、空野先輩を久しぶりに見て喜んでいた――男性客からも毎回注目されているが、空野先輩は老若男女に好かれるところがある。
「はい、ホットスナックが一割引きのサービス期間中でーす。いかがですか? 唐揚げと焼き鳥二本ですね、ありがとうございまーす!」
店長がよく通る声を張って接客を手伝ってくれる。店長は空野先輩のいる時間帯が一番お客さんが多いというが、間違いなくこの店の屋台骨であり、この辺りで一番客の入りが多いコンビニという立ち位置を確保できているのは、彼女の存在によるものだと言えるだろう。
「……テレホンカード……は、はい。かしこまりました……」
空野先輩が戸惑っている――テレホンカードは滅多に店で売れることがないので、ふと買いたいと言われたときに困ってしまうこともあるだろう。
いつもなら、手伝おうとすると遠慮されてしまうことが多かった。今日もそれは変わらないのかもしれないから、できるだけさりげなく、最小限の手助けをする。
「ここのチケット発券のところにテレホンカードもあるので、これで……」
「っ……」
ふわりと、甘くて良い香りがする。先輩のサラリとした黒髪――夕方になっても、まだシャンプーの香気が残っている。
俺が後ろからレジを操作したから、先輩は少し驚いてしまったようだった。手早く操作を終えて、テレホンカードの値段が会計に入る。
「……こちら、千円のカードでよろしいですか?」
「ええ、ええ。ありがとう、お姉さん。眼鏡のお兄さんも、すぐに来てくれて優しいねえ」
俺は笑って――上手く笑えているかは別として――役目を終えて自分のレジに戻る。代わってくれていた店長は、俺の肩をぽんと叩いて言った。
「じゃあ、そろそろ大丈夫そうだから後は頼むわね。空野さんと二人だけど、仲良くしなさいよ」
「は、はい。善処します」
「またまた、照れちゃって。今もいい感じだったじゃない、自然にできてたわよ。いつもだったら、空野さんもっと遠慮してたでしょ」
それは確かにそうなのだが、あまり茶化されるとまた空野先輩が俺と距離を取ってしまわないだろうか。
そうこうしているうちに、レジに並んでいたお客さんが途切れる。途中で受理した光熱費の領収証を整理していると――何か、視線を感じる。
気のせいというわけでもなさそうで、空野先輩の方を見やると、彼女はつい、と目をそらしてしまう。そしてレジから出ていくと、店内の見回りを始める。減った商品を前に出したり、陳列を整えたりする作業はこまめにやらなくてはいけない。
そして次のお客さんが来てレジを打つ。その間も、先輩が俺をじっと見ているので気になってしまう――一体どうしたんだろうか。もしかしてコンビニの制服を裏返しに着てたりしないだろうかと思うが、勿論そんなことはない。




