第十話・1
岸川先生は俺たちのやりとりを見ていたが、部員の人たちが好意的に接してくれているのを見て表情を和らげる。全く、本当に姉さんに見守られているような気分だ。
「では、トレーニングの後のクールダウンを始める。あまり時間を空けると筋肉が固まってしまうからな。ゆっくりプルとキックを意識しながら流すように」
「「「はいっ!」」」
部員たちが帽子とゴーグルを身に着け、次々とプールに入っていく。その後で、先生は俺の肩にぽんと手を置いた。
「海原には、今日は一つだけ頼みたいことがある。私と一緒にドリンクを作って、後でみんなに渡してもらえるだろうか」
「わかりました。先生と一緒にそういうことができるのは嬉しいです」
先生と話しているうちに空野先輩がプールの端に立つ――ゴーグルをつけたあと、先輩がこちらを見たので、俺も小さく手を振った。空野先輩は頷いて入水する。
「やはり……海原が来たからと言うと本人は照れるだろうが、モチベーションが高い。他の部員も良いテンションになっているし、海原がいることで空気が引き締まるのかもしれないな」
「まだ来たばかりで何もしてないので、これから役に立てるといいんですが……せ、先生。どうしました?」
先生が俺をじっと見つめてくる。思いつめているような、それとも少し違うような。
「先生、俺の顔に何か……」
俺を見ながら、先生は、自分の唇に触れていた。それは無意識の行動だったようで、彼女ははっとしたように顔をそらす。
「っ……い、いや、何でもない。海原、ドリンクは教官室にある。みんなすぐに上がってくるから、それまでにドリンクを作ってしまおう」
先生は先に教官室に向かう。俺はといえば――どこを見られていたのか、少し遅れて気がつく。
先生が自分の唇に触れた、その意味は――俺が溺れたあと、助けてくれるときにどんなことをしたのか。
まさか、唇と唇で人工呼吸をしたなんてことだったら――いや、そんなことがあるわけがない。
もしそうやって助けてもらったんだとしたら、俺は先生にどうやって恩を返せばいいのか分からない。日頃からしてもらっていることも多すぎて、まったく返すことができていないのに。
◆◇◆
姉ヶ崎高校で毎年開催される、中間試験後のイベント――それが、全校合同の球技大会である。
学年ごとに他のクラスのチームと対戦し、一日かけて総当たり戦を行う。一学年は八クラスあるので、一日に七試合をこなせばいいわけだ。また、クラスの中でも参加する種目は分かれており、バスケ、バレー、テニスの三つからどれかを選ぶ。
そんなわけで、球技大会当日の朝。全員がすでに運動着に着替えて、ホームルームの始まりを待ちつつざわついていた。
「よう、相棒。今日は一日よろしく頼むぜ」
席に座って単語帳をめくっていると、純が肩に手を置いてくる。
相棒というのはテニスのダブルスの話だ。どの競技に参加したいというのは特になかったのだが、純がやけにダブルスに情熱を燃やしていたので引きずられた形だ。
「随分気合いが入ってるな……何か理由でもあるのか?」
「そりゃもう、他のクラスの女子も見てるわけだからな。こういう時に燃えない奴は、どんなチャンスでも燃え上がれないぜ」
「炎上っていう意味に聞こえるんだが……はりきりすぎて問題を起こすなよ」
「問題なら起こるさ。上杉純、テニスが意外に上手い問題がな」
こいつはとにかく、お祭り的なイベントに便乗して騒ぎたい奴なのだ。それならバスケやバレーの方がチーム人数も多く、盛り上がれそうなものなのだが――あえて俺とダブルスをしたいというのは酔狂であり、純なりの気遣いなのかもしれない。
「ところで、前に妹に呼ばれてみたいだが、あれは何だったんだ?」
「ん? あ、ああ……まあ、色々あってな。海原にもじきに面倒かけるかもしれないけど、その時は大目に見てくれよ」
「曖昧すぎて良く分からないが、覚えていられたら覚えておこう」
「うちの二年で最強クラスの頭脳を持つ男なら、忘れようったって忘れないだろ。というか、球技大会の日まで単語帳をめくってるとか、勉強熱心を通り越してあだ名が賢者になっちゃわね?」
「単語帳程度で賢者になれたら、世界は大賢者で満ち溢れてるだろ。それは俺が困る」
「俺も困る。だが今年は、海原が勉強を教えてくれる。俺は賢者の弟子ってことだな」
「そこまで熱心に教えるつもりもないが……ん?」
純と話しているうちに、何か視線を感じる――隣の席の小谷さんと鈴木さんが、こちらを見てニヤニヤとしていた。
「海原くんと上杉くんってほんとに仲いいよね。勉強してるときも思ってたけど」
「テニスもダブルスで出るんでしょ? あたしたちもペアで出るよ」
「おっ、そいつはいいとこ見せにゃあならんじゃねーの。俺の必殺技であるところの『破天荒なワルツ』、魅せてやんよ」
「えー、なにそれ、かっこ悪そー」
「海原くんってテニスも上手そうだよね。こうやって眼鏡くいってしながら、計算通りとか言ってみたりして」
「いや、そんなベタなことはしないが……」
「でも海原くんなら似合いそう。ねえねえ、今やってみて? 眼鏡くいって」
「おいおい、姉ヶ崎の『凍りつく眼光』と呼ばれた男に何をさせるつもりだ? うかつに触れると低温火傷するぜ、お嬢さん方」
「お前が俺の変なあだ名を広めてるんじゃないだろうな……」
まず低温火傷はそういう意味ではないというのは置いておいてひとまず睨んでおくが、純は悪びれない。というか、悪びれたところを見たことがない。
さておき、鈴木さんにテニスが上手そうと言われたが、授業では負けたことがない。テニスは相手を見ることと脚力が大事で、相手には不利な位置で受けてもらい、こちらは有利な位置で打つというのが基本となる。
そんなことを考えていると、担任の藤田先生が来る前に、クラス委員長がこちらにやってきた。
「海原、今日はテニスで一緒に回ることになるからよろしく頼む」
「委員長もテニスにしたのか。得意だったか?」
「いや、まあ普通だな。海原がやるのなら、俺も参加したいと思っただけだ」
「え、委員長も海原くんと仲良かったの?」
「真面目な委員長と、ちょっと怖そうな海原くん……意外な組み合わせだよね」
「確かに海原は怖いな、敵チームに回ったらと思うと戦々恐々だ。だが、味方となるとこれほど心強い男もいない」
なぜこれほど委員長から信頼されているのか――というのは、体育の授業で一緒のチームだからだろうか。
状況はあまり変わっていないと思ったが、徐々に変わりつつあるのかもしれない。
クラス40人のうち、まともに話せるのは4人。純しかいなかった状況からすると、随分と変わった。激変と言ってもいいだろう。




