第九話・8
俺が人参を自分から折ってしまったら、何か負けのような気がして。
こんな意地の張り合いは良くないと分かっているのに、先生は目を閉じずに俺を見つめていて。俺が止まっても、先生は進むことを止めずに――やがてその目が閉じようとして、
『――水泳部の岸川先生、先日の大会の表彰についてお話したいことがございます。校長室までお越しください』
校内放送を告げる電子音が、スピーカーから響く。その瞬間に人参スティックは折れてしまい、俺は気がつく――いつの間にか、先生の手が俺の肩に添えられている。
この距離は近い、近すぎる。間近で見つめ合っているのはまずい、もし気まぐれに屋上にやってきた誰かに見られでもしたら――。
「んっ……」
「っ……」
俺たちは同時に顔をそらす。人参スティックをそのままにして向き合っているわけにはいかないからだ。
「……ちゃんとよく噛んで飲み込まないと危ないぞ?」
「は、はい……こんな甘い人参は、生まれて初めて食べたかもしれません」
「農家をやっている親戚が送ってきてくれたものだから、海原がそう言っていたと伝えたら喜ぶだろうな」
野菜スティックにほのかに味付けがされていて、それだけでサラダのように食べられるようにする先生のテクニックが凄いんです――と言いたいが、何か別の意味に聞こえてしまいそうで思いとどまる。
「覚えているか? 最初のころに言っていたことを」
「あ……そ、それは何というか、俺にとっては黒歴史ですから。今では間違ったことを言ってたと思ってます、食べ物なんて必要なカロリーが取れれば何でもいいなんて」
先生は優しく微笑みながら、春巻きをタレにつけて、こぼれないように手で受けながら俺に差し出してくる――決して慣れたりはしない、顔どころか身体まで熱くなってしまいそうなほど照れるのに、先生には抵抗できない。
「野菜が美味しいと言ってくれるようになったのは、偉大な進歩だな。今のところ、海原は何でも美味しいと言ってくれるが……」
「何でもではないですよ。でも、先生が作ってくれるなら何でもかもしれません」
「そ、そうか……何を作るかではなく、誰が作るかということなのか。しかしそれだと、海原の栄養管理を、将来的にも……」
「せ、先生。そろそろ行かないと……俺に際限なく食べさせてちゃだめですよ」
「……せっかく作ったのだから、一口でも多く食べてもらいたいのだが。というのは、私の我がままか」
寂しそうな顔をする先生――本当にいいんだろうか。先生が作った料理を、ほとんど独り占めにしてしまっても。
自分が強欲だと思いながら、俺は弁当を片付けようとする先生に声をかける。
「先生、その……もし残すことになるなら、全部俺が食べてもいいですか」
「……いいのか? 二人分よりは少し少なめの分量といっても、全部食べたら午後から眠くなってしまうかもしれないぞ。本当に食べてしまうのか?」
俺が勉強に集中できるようにしたいという『先生』の部分と、料理を食べさせたいという『年上のお姉さん』の部分がせめぎ合っている――そんなのは俺にとって得しかない、優しすぎるゆえの葛藤だ。
「先生のお弁当を残す方が、集中できなくなりますから」
「……わかった。では、残りは全部食べてもかまわない。校長室での要件が済んだら戻ってくるから、待っているように」
「はい、先生」
◆◇◆
先生は言葉通りに、昼休みが終わる前にもう一度戻ってきてくれた。
「全部食べてくれたのは嬉しいが、健康を考えて、少し運動でカロリーを消費した方がいいか」
「せ、先生……っ、それは自分で……んむっ……」
先生は当然のように、俺の口の周りをハンカチで拭いてくれる。服に飛んでいないかまでチェックされ、襟元を正されて、髪まで整えられてしまった。
「うん、これでバッチリだな。午後からも授業、頑張るんだぞ」
「あ、ありがとうございます……」
「それで、運動の話だが……」
カロリーを消費した方がいいというのを、先生は思いつきで言ったわけではなかった。いつでも彼女は有言実行で、俺はたまに振り回され気味だと思うこともあるが――
「海原に臨時マネージャーをお願いしたいと言っていたことだし、一度プールに来てもらってもいいだろうか。水泳は良い運動になるからな」
「は、はい。今日は水着を持って来てないので、また別の日でもいいですか」
「うん、海原の都合がつく日でかまわない。できるだけ早くがいいと思っているが」
そう言われると、明日にでもという気持ちになる。ウェイトコントロールの意味もあるのだから、早めに運動を始めなくては意味がない。
こうして俺は、臨時マネージャーとは何をするのかを教えてもらうことも含めて、先生から水泳の指導を受けることになったのだった。




