第九話・6
何か純の妹は急いでいる様子で、兄を連れて行く。前にも似たようなことがあり、純は家の決まりで妹と昼食を取らなくてはいけない日があると言っていた。兄妹仲良くということらしいが、現状は微妙なようにも見える。
「あ、そっか。上杉さんって、妹さんだっけ……」
「雰囲気全然違うから、上杉くんと同じクラスになっても気づかなかったよね」
「ん……二人は、純の妹のことを知ってるのか?」
「それは……えっと……」
「ちょっと込みいった話になっちゃうから、また今度でいい? あたしたちもご飯食べなきゃだしさ」
「ああ、それは構わないが。すまない、少し気になっただけなんだ」
小谷さんと鈴木さんは申し訳なさそうに笑うと、他の友達と合流して弁当を開け始める。
「ね、ねえ、インテリ……じゃなくて、海原くんと何話してたの?」
「ほんと、見ててハラハラするよ。二人とも、あんまり海原くんに深入りすると迷宮入りになっちゃうよ?」
「話してみたらそんなに悪い人じゃないって言ってんじゃん、疑り深いなー」
「うちらで良ければ紹介しよっか? って、調子乗ったら怒られちゃうか」
こうして俺に対するクラスのイメージは、一定の段階から変わらないままなのだった。純以外の男子では、俺を怖がるばかりでないのは委員長くらいだ。
とりあえずは岸川先生に心配をかけないように、体育で同じグループの男子には怯えられないようにしていきたい。
席を立つと、食事中の委員長が教室を出る俺に気づいて、こちらを見ながら中指で眼鏡をくいっと押し上げた。それが挨拶なのだとしたら、藤田先生の眼鏡男子に対するイメージもあながちズレてはいない気がする。
◆◇◆
はやる気持ちを抑えて屋上にやってくる。階段を上るときは足を速めてしまい、途中から一段飛ばしで上がってきた。
息を整え、扉を開ける。想像していたよりも眩しくはない。
空を見ると、白い雲で太陽が半分ほど隠れていた。階段のある塔屋を回り込むと、ちょうど影になるところにベンチがあり――そこで、岸川先生が待っていた。
「すみません先生、少し遅くなって……」
「ううん、私も今来たばかりだから大丈夫だ。時間には余裕があるから、急ぐことはないだろう」
先生のいつもきりっとした瞳が、俺を見るときに優しい光を宿す瞬間に、いつも目を奪われてしまう。
「今日は事前に言っていたとおり、少し趣向を変えてみることにした。海原が気に入ってくれるといいのだが……」
岸川先生が、トートバッグに入れていた巾着袋から、円筒形のものを取り出す――今まで使っていた弁当箱とは違うようで、むしろ水筒に見えなくもない。
「先生、それは……?」
「これはスープジャーというものだ。料理を保温して運ぶことができる」
「なるほど……お弁当でも温かいものが食べられるわけですね」
「その通りだ。常温でも美味しいお弁当作りを心がけてはいるが、やはり温かいものを食べたいときはあるだろう?」
「俺はいつも、先生の弁当に感動するばかりで、他のことは何も考えられては……あっいや、すみません、今日からはもっとしっかり味わいます」
ベンチにランチョンマットを敷き、スープジャーを置いてから――先生はちょん、と俺の鼻をつついてきた。
「せ、先生……?」
「いつも美味しそうに食べてくれるから、私はそれで十分満足している。しかし、感動というのは大袈裟だと思うのだが……」
先生は頬を赤らめて言う――きっと嬉しいと思ってくれているのだが、素直に顔に出してはいけないという葛藤を感じさせる。
「では……開けてみてくれ。こぼれないように気をつけて」
「はい……うわっ、これって……」
蓋を回して慎重に開け、立ち上った湯気と香りに思わず声が出てしまう。
「これは、シチュー……いえ、ボルシチってやつですか?」
「うん、正解だ。このサワークリームを乗せて……」
先生は俺からスープジャーを受け取り、別添えのクリームを載せる。そしてスプーンで軽くかき混ぜると――具をすくって、こぼれないように手で受けながら差し出してきた。
「……はい、あーん」
初めのうちは――先生が俺に弁当を食べさせてくれるようになったばかりのときは、こんなふうに食べさせてもらうことはなかった。
気がつくと、これが当たり前になっていて。俺は先生の手にボルシチがこぼれてしまわないうちに、食べるしかなくて――。
「……んっ……んんっ……!」
「ど、どうした……? 何か、変な味でも……」
俺の反応を見て岸川先生が慌ててしまう――俺は口に入ってほろりと崩れる肉の食感と、スープの深すぎるコクと旨味、まろやかな酸味の渾然一体となった奔流に驚いてしまっただけだ。
「美味しい……先生は、どうしてこんなに美味しいものが作れるんですか」
「っ……良かった。失敗していたのではないかと心配したぞ。あまり、驚かせないように」
「はい、すみません。いや、本当に美味い……トマトが入ってますけど、酸味がきつくなくて、食材の旨味がギュッと出てます」
「保温するだけではよく味が出ないから、圧力鍋で調理したものを入れてある。もっと時短もできるのだがな、姉がボルシチが食べたいというので、リクエストに応えることにした……ついでのようで済まない」
「こんな贅沢なついでだったら、心から大歓迎です。先生の料理は、お姉さんもファンなんですね」
「本人もやればできるのだが、私がときどき母の代わりに料理をしていたら、気に入ってしまってな……今もときどき頼まれてしまう」
生徒たちの、そして俺にとっても憧憬の対象であり、大人としての振る舞いのお手本のような存在の岸川先生が、お姉さんの前では妹として振る舞う――それが何か新鮮で、思わず家での岸川先生の様子を想像する。




