第九話・5
「海原に負担をかけすぎてはいけないので、具体的に何を頼むということは考えていないのですが……彼がいるだけで、部員が引き締まるところがあります。土曜日の試合でも、海原のおかげで助けられました」
岸川先生が改めて、俺を水泳部に勧誘している件について藤田先生に説明する。俺がいるだけで引き締まるなんて実感がないのだが、やはり目つきが悪いので見られていると緊張が増すということか。それで本当にプールに顔を出してもいいのだろうか。
「はぁー……あの海坊がねえ。水泳部に好きな女の子でもいるから頑張ったとか?」
「藤田先生……? クラスの生徒とはいえ、あまりからかうようなことは……」
藤田先生と一緒に、俺まで圧迫されるプレッシャー――これが女騎士先生の本気のオーラだというのか。
「や、やだ岸川先生、冗談ですってば。海坊、ごめんね変なこと言って」
「は、はい。できればそれと、普通の呼び方にしてもらいたいですが……」
「岸川先生、海原を水泳部のマネージャーにしたい件については覚えておきます。海坊、あんまり頑張りすぎないようにね。眉間に皺が寄ると怖くなっちゃうわよ」
呼び方を変えてくれたかというのはやはりぬか喜びで、藤田先生は好きなことを言って行ってしまった――それを見送って、岸川先生はふう、と息をつく。
「海坊……か。藤田先生にも困ったものだ。そんな呼び方をしては、甘やかしたいと言っているようなものではないか……?」
「クラスメイト全員に呼び名をつけるようにしていて、それで覚えてるそうです。俺には似合わなさすぎて皆には忘れられてますから、それはそれで良かったですよ」
「ふふっ……なかなか言うな、海原も。では……」
私たちも行こうか、と先生は言ってくれようとしたのだろう。ごく自然に、岸川先生が手をこちらに差し出してくる。
手つなぎで校舎に入るのは先生、それは――と言いかけたところで、自転車置場にやってくる生徒たちの視線を感じる。
「岸川先生が、校舎裏で海原と……あ、あれは決闘の握手……?」
「おいおい、あいつ死んだぜ……いや、まさか勝算が……?」
いつもの勘違いによって救われるとは――と思いつつ、岸川先生はできるだけさりげなく手を引っ込める。それも、俺が先生の決闘の申し込みを拒んだと解釈された。
かくして女騎士先生によって、今日も姉ヶ崎高校の平和は守られた。
男子生徒たちはそう思っているのだが――岸川先生の後ろ姿が見えなくなったあと、彼女はすぐにメッセージを送ってきてくれているのだった。
岸川先生:海原、今日のお昼は大丈夫だろうか
そう――昨日の夜、杜山先生のマンションから帰るときに、岸川先生から今日の昼食の予定について聞かれていた。
ふだんは月水金曜日にしか先生とお昼を一緒にすることはないが、今日は火曜日でも特例ということで、お昼を空けておくように言われた。
自分:はい、大丈夫です
岸川先生:そうか、分かった
岸川先生:では、どちらが先に屋上に着くか競争だな
自分:廊下を走らないように気をつけます
今日は少し趣向を変えた昼食を用意してくれるとのことで、俺の頬は自然に緩み、口角が上がってしまう。
「わ、笑ってる……あれは岸川先生に何か計略を仕掛けた顔だ……!」
「くっ……俺たちに何ができるというんだ。岸川先生、逃げてください……っ!」
何か良からぬことを想像していそうなので、彼らの邪気は軽く視線を送って飛ばしておいた。眼光が鋭いと言われてしまうのも、そんなに悪いことばかりではない。
◆◇◆
午前最後の授業、盛大に腹の音を響かせていた男子たちが、授業が終わると同時に目を血走らせて席を立ち、走り出ていく――購買部のパン獲得合戦は今日も戦争だ。
「さてと……海原大明神、今日はカツカレーになさいますか? それともカツサンド?」
あたかも当然一緒に行くよな? という空気を出してくるのは、俺の友人に限りなく近い存在である上杉純である。変な呼び名で呼ばれると友情ゲージが下がってしまうのは否めない。
「上杉くん、それって執事のモノマネか何か? ウケるんだけど」
「購買行くならワッフル買ってきてくれない? あったらでいいから。お金もあったら払うから」
この二人の女子は小谷美貴と、鈴木憂子という――吹奏楽部の部員ということで、さすがに名前を知らないのは良くないと思い、ちゃんと覚えた。
成績がすごく悪いというわけではないのだが、高校に入ってから勉強についていくのが大変らしく、「ヤバい」教科があるというので、同じような爆弾を抱えている純に教えるついでに、幾つかの科目を教えた。それから、何というか――最初は怯えていた俺に対して警戒が弱まるのを通りこして、何か懐かれている感じになってしまった。
「なんかノリでパシリにされかけてんだけど、海原は助けてくれるよね?」
「そんな、友人キャラみたいに言われてもな……」
「え、上杉くんってまだ友達として認めてもらえてなかったの?」
「うちらは部活で一緒になることもあるし、結構仲いいよね」
とは言ってもまだほとんど話してないが、と否定するのも狭量だろうか。友好的に接してくる相手に過剰なバリアを張ってしまうのは良くない。
「くっそ、俺だけが海原大明神のご利益を知っていたかった。見つかっちまったらしょうがねーな……おっ……」
純は制服のポケットからスマホを取り出す――そして、真顔になる。
「……海原、カツカレー祭りの開催は延期にしてもらっていいか?」
「ああ、木曜あたりにでもな」
木曜は原則として、購買か学食の日と決まっている。それはそれとして、純が何か落ち着かなさそうなのはなぜかと見ていると――教室の外に、純と同じ髪色をした女子生徒がいる。
あれは純の双子の妹――確か、上杉双葉という名前だったか。双子といっても男女では雰囲気が全く違い、兄よりも見るからに気が強そうだ。
「……っ」
おっと、あまり見ているのは良くなかった――思い切り純の妹と目が合ってしまった。
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