第九話・4
こんな表情を見るのは初めてだ。女騎士先生が拗ねるなんてことがありえるのだろうか。しかし、ぷくー、となっているこの表情はどう見ても――と思っていると。
「見に来なかったら、空野とあんなに顔を近づけて……な、何をするつもりだったのか、教師としては関心を持たざるをえないのだが」
「い、いえ……何もないです、いや本当に。空野先輩がスマホを買ったばかりで、俺にカメラの使い方を教えてくれるって話をしてただけですよ」
「カメラか……学校内では使用禁止になっているが、場合によっては許可しているな」
「もちろん、学校の外で教えてもらうことになると思います。俺も使うだけならできますが、写真加工とかはしたことないので」
「ふ、ふん……そうか、空野とは家が近いということだったからな。いつでも休みに遊んだり、一緒に出かけたり、一緒に……ということも、これからは普通にあるというわけか。私は先生だからな、生徒同士の友達付き合いに口を出すつもりはないが」
ここまで分かりやすいというか本音を隠せていないのに、先生が拗ねているなんてありえないとか、それで片付けてしまうのは甘えでしかない。
しかし、やはり決めつけて恥ずかしい思いをするのは避けたいところだ――先生が、焼き餅を焼いているなんて。
「あ、あの……今のところ、まだ予定とかは決まってないですし、空野先輩も試合に向けて忙しいですから。遊んだりするのはなかなかできないと思います。先輩もですが、俺も可能な限り勉強に時間を当てたいと思っていますから」
「そ、そうか……すまない、邪推をしたりするのはいけなかった。空野も受験を控えていて、勉強と部活の両立を本当によく頑張ってくれているからな……」
そしてさらにバイトを始めるというのは、いくら空野先輩が体力があるといっても無茶があるのだが。それでも店長から神聖視されている空野先輩には、もう少しだけバイトを続けてほしいという思いがある。
「しかし、時には気晴らしも必要だ」
「気晴らし……」
「な、なんだ。そういうことを私が言うのは意外か?」
「い、いえ、滅相もないです。ただ、先生の言う通りだと思ったので。俺は一緒に遊ぶような相手もなかなかいないので、気晴らしっていう選択すら思いついてなかったんですが……あっ、いや、辛いとかじゃないですが」
岸川先生の目が潤んでいる――俺の学生生活というか、青春というものが結構灰色であったことについて話したら、こうなると分かっていたはずなのに。
「……海原は、ずっと寂しい思いをしていたのか? 私は去年の一年間、海原が栄養をちゃんと取っているかどうかばかり気にして、肝心なことに気づきもせずに……」
先生、それは俺の自己責任もありますから、先生のせいじゃありません――そう思っても言葉にできないうちに、先生がこちらに歩いてくる。
これはもしかしなくても、抱きしめられてしまうやつだ――と思った瞬間、チリンと自転車の鈴の音が鳴った。
「おはようございます、岸川先生……と、海坊……?」
この声は――純から「オカンみたい」と言われている、うちのクラスの担任の先生、藤田環先生だ。オカンというのは例えであって、まだ二十代後半の先生である。
きっぷの良いお姉さんという雰囲気なのだが、彼女はクラスでの自己紹介のときに、一人ひとり呼び名を決めていった――俺は「海坊」である。
クラスメイトからすると全くイメージに合わないので忘れさられているが、今でも藤田先生は俺を海坊と呼んでいる。
「……岸川先生? どうかしました?」
まさに俺をハグする一歩手前まできていた岸川先生は、何事もなかったようにそのまま振り返る。大人の女性は切り替えが早い――さすがだ。
「おはようございます、藤田先生」
「ああ良かった、聞こえてた。もしうちの海坊……海原と何か話し中だったりしたら、どうしようかと思ったわよ」
「すみません、私が彼に声をかけさせてもらったんです。彼には、水泳部のことでとてもお世話になったもので……」
そういう理由があれば、藤田先生に疑われることもない。
岸川先生の機転に感謝しなくては――と思いつつ、もうお礼は十分してもらったと思っているので申し訳ない気もする。
藤田先生はというと、何やら機嫌が良さそうだ――シャギーのかかった髪をいじりつつ、俺のことをにやにやと見てくる。
「海坊、私が面談したときは部活はもうやらないって言ってなかった? 二年生から水泳部デビューしちゃうの?」
「いえ、海原には……その、マネージャーのようなことをお願いしたいという意見が部員からも出ていまして。臨時で良いので、顔を出してもらえればと思っています」
それは夕食をご馳走になったとき、岸川先生が流れで言っただけだと思っていたのだが――部員から要望が出てるとは、いったい俺の評価は水泳部でどうなっているんだろうか。
「水泳部の男子マネージャーかー、海坊だったら記録管理とかきっちりできそうよね。こうやって眼鏡をくいってしながら、○○さん、タイムが伸び悩んでますねとか言ってみたり」
「俺にどういうイメージを持ってるんですか……」
「あはは、ごめんごめん。海坊って眼鏡かけると、ほんとにインテリ……じゃなくて、知性派ギャングって感じに見えるのよね」
また新しい異名が増えるのは勘弁願いたいので、突っ込むのはやめておく。藤田先生とは面談以外で長く話したことはないが、掴みどころがない雲のような人だ。




