第八話・11
そんなわけで、俺は岸川先生に夕食を御馳走してもらう約束をした。
放課後にバイトがあると伝えると、「では君のバイトが終わるまでに準備を整えておこう」と返事が返ってきた。そして時間を伝えたのだが――杜山先生も一緒にいるというのは、何となく想像はつくものの、変装してまで迎えに来てくれた二人を前にするとなかなか口に出しづらいものがある。
「……い、いや。私たちは海原の家に一度行っているので、私一人で訪問しても、特に問題はないのだが、これには事情があって……」
「岸川先生とお昼に一緒になって、私はこれで海原くんにいつでもご飯を作ってあげることになったんですって言ったの。そういう約束だったものね」
「えっ……そ、それは確か、入部したらって条件じゃ……うわっ!」
岸川先生が口を引き結んでいる――こんな厳しい表情を見るのは久しぶりだ。みんなの前で女騎士と振る舞っているときよりも迫力があるというのは、俺の気の所為ではないだろう。
「海原……吹奏楽部の実質的な部員になったということか? 確かにコンクールに出ようと思えば、籍を置いておく必要はあるが……」
「あっ、そうよね、それをちゃんとしておかないと……教えてくれてありがとうございます、岸川先生」
「い、いえ、それは正式な入部手続きをするべきとか、そういうことではなく……う、海原の気持ちは固まったのか? それならおね、先生は何も言わないが……」
今お姉ちゃんって言おうとしましたね、と揚げ足を取っている場合ではない。なぜか岸川先生は、少し目を潤ませて俺を見ている。
「え、ええと……その、吹奏楽部で俺のことを必要としてもらえるなら、いつでも協力したいし、練習にも出たいと思ってます。今までやってきたようにバイトも続けたいので、色々手を出しすぎて半端にならないようにします。その、水泳部のこともですが、一年の時は断りましたけど、俺にできることがあったら……」
「っ……本当か!?」
物凄い反応だった――岸川先生の帽子が取れて、中にしまわれていた黒髪が広がるくらいに。それを見て、後ろで杜山先生が驚き、口に手を当てていた。
「ふむっ……ぷはっ……せ、先生、いちおう外なので、他の人に見られたら……」
間合いが近いどころの話ではなく、岸川先生は俺の頭を抱えてぎゅうぎゅうと胸に埋めてくる。一日仕事をしたあとなのに、スーツとシャツからは甘い匂いがして、顔を包む柔らかさは巨大なマシュマロのようで、理性が――と、蕩けている場合じゃない。しかし抗えない、俺は悲しくもそういう生き物だった。
「海原が来てくれれば、きっと空野にももっと気合が入る。確かに女子部員しかいないので説明は必要だが、男子マネージャーが欲しいと軽口を言う部員もいたので、海原のような真面目な男子が来たら文句は言えまい」
「岸川先生も海原くんをスカウトしたかったんですね……その気持ちをずっと抑えて、彼に栄養たっぷりのご飯を……」
「そ、そういったわけでは……海原の生活のことを知って、これはいけないと思っただけです。あんパンと牛乳だけでお昼を終わらせると聞いた時は目眩がしました、それでこの子は私が守ってあげなくてはいけないと……」
俺も立派な高校二年生なのだが、先生たちはなぜこうも甘やかしてくれるのだろう――自分でもとても不思議で、何度でも疑問に思ってしまうが、きっと先生たちはそれを言っても小首をかしげるばかりだろう。
「……はっ。ま、守るというのは言い過ぎだったな……女騎士という呼ばれ方は本意ではないと言っておきながら、思考が引きずられてしまっている」
「岸川先生は凛々しいですから、女騎士さまってとってもぴったりだと思います」
「も、杜山先生まで……海原も笑ったりして、いけない子だ」
「ふむっ……」
また捕まる俺――そして捕まるときは、確かに自分でも思うが、完全に年下の扱いに甘んじている。事実として年下なので間違いではないが、おっぱいに弱いだけと言われたら否定ができない。
「……お料理もそうだけど、岸川先生に負けないように、私も熱心にスカウトしないと駄目かしら」
「いえ……これはスカウトではなく、夜になると少し肌寒いので、温めているだけです。海原は風邪が治ったばかりですから」
「それなら、あのときみたいに二人で温めて……あっ……」
二人が俺を看病してくれた夜、朝起きると二人はすでにベッドを出ていて、朝食の準備をしてくれていた。
二人とも落ち着かなさそうにしていたが、俺の許可を取らずにシャワーを使ってしまったからということだった。俺としては自由に使ってもらって構わなかったのだが、お風呂上がりの二人と朝食の席をともにしているという状況の方が、俺を落ち着かなくさせた――また朝食の味噌汁の味が優しく、泣きが入りかけたというのは秘密だ。
先生二人が、俺を夜這い――もとい、俺のことを温めてくれたことがバレてしまったのではないかと心配している。
俺からしてみれば、どれだけ感謝しても足りないようなことなのに。
「……俺、杜山先生の卵焼きが食べたいです。岸川先生のお味噌汁も」
「……海原」
「海原くん……ええ、腕によりをかけて作るわね。焦がさないように気をつけなきゃ」
俺はいったん家に戻り、自転車を置いたあとで杜山先生の車に乗せられ、彼女のマンションに向かった。
初めは二人とも俺に助手席に乗るようにと言ってくれたが、後ろの席を希望して乗せてもらった――結構車に乗るのは好きで、後部座席も座り心地が良かった。
二人は長い信号待ちの間に、楽しそうに話を振ってくれた。バックミラーで俺の姿が目に入ったときも、杜山先生は微笑んでいた。
いつも教室では恐れながら振り返られていますと言っても、きっと二人は信じてはくれないだろう。
だからこそ、もし二人が俺のクラスでの様子を見た時に心配させないようにしなくてはと思う。先生二人に格好悪いところは見せたくない、そんな理由でも、俺にとってはとても重要なことなのだから。
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