第七話・5
帰り際、昇降口で俺は自分の傘を探す。すると、同じクラスの女子がスマホで電話をしていた。
あれは、吹奏楽部の部員だ。確かミキと呼ばれていた気がする。
「お母さん、ごめん、傘とられちゃって……あ、無理なんだ。うん、分かった」
「大丈夫か?」
「えっ……あっ、う、海原くん。今帰り?」
そこまで驚かなくてもと思うが、肝心な時に声が低くなってしまう。
やはり声をかけない方が正解だったか――二人ならいいが、一人だとかなりビクビクされているのが分かる。
しかしここで何でもないと言っていては、今までと何も変わらない。
「傘、持ってかれたんだって?」
「ねー、困っちゃうよね。似てる傘だから持ってかれたのかもしれないけどさー」
「じゃあ、これを使ってくれ」
「え……い、いいよそんな。海原くんに悪いよ」
遠慮されるところまでは分かっている。それでこちらも遠慮していたら、今までと何も変わらない。
「俺は折り畳み傘を持ってるから大丈夫だ。気にせず使ってくれ」
「ほんとに? じゃ、じゃあ……明日絶対返すから、借りていい?」
「ああ、いいよ。別にいつ返してもらってもいいからな」
「ありがとー! ……あ、そういえばなんだけど、ちせちゃんから聞いた?」
「ちせちゃん……あ、ああ。杜山先生か」
先生の愛称を意識せず口にしてしまって、微妙に照れる――と、そんな俺の内心については、全く悟られていないようで良かった。
「知聖ちゃんっていうとちょっとお堅い感じだから、うちらはちせちゃんって呼んでるの」
「そうなのか。それで、聞いたって何のことだ?」
「海原くん、去年の文化祭でうちらの部を手伝ってくれたよね。そのときから、ユーフォに海原くんが入ってくれたらって話になっててさー」
杜山先生が、一人で突っ走ってしまっているわけではなかった。思っていた通り、先生はそういう筋をしっかり通す人だ。
「ごめんね、吹部のこと手伝ってくれたのに、同じクラスになっても声もかけないで」
「ああ、気にしないでくれ。気をつけてな」
「あっ、う、うん、ありがと……また勉強教えてね、ってそれは駄目か」
まずは自分でやる努力をしてからだ、と言う前に、彼女は俺の傘を差して雨空の下に出ていった。
さて――折り畳み傘があると言ってしまっておいて何だが、実は持っていない。人の傘を持っていった奴には恨み言のひとつも言いたいが、まあそれはそれだ。
「……海原」
「うわっ……そ、空野先輩……」
今まで全く気配を感じさせなかった空野先輩が、すっと出てくる。
「えーと……先輩が見てたなら自分から言うけど、傘を盗られて困ってるみたいだったから、貸しただけだよ」
「自分の傘を貸してあげたの? ……海原は?」
「折り畳み傘があるから大丈夫だ」
「……私も傘がなくなってたから、職員室で借りてきた。置き傘、もう残ってないって」
「空野先輩も盗まれたのか……よっぽど雨の予報を見てなかったやつが多いんだな」
「……海原、本当に……」
「大丈夫、人に傘を貸しておいて自分は持ってないとか、間抜けにも程があるだろ」
空野先輩は俺をじっと見ている。職員室から借りてきたものらしい青い傘は、結構大きいサイズのようだ。これならあまり濡れずに済むだろう。
「……絶対、大丈夫? 傘、本当に持ってる?」
「持ってるよ。そう聞かれると出しづらくなるから、先に行っててくれ」
「……分かった。今日のバイト、遅れないようにね」
試験期間中、まるまるバイトを休んでしまうわけにはいかないので、いつもより減ってはいるがバイトのシフトには入っている。
バイトの日だから、店まで一緒に行こうとか、誘ってくれるつもりだったのだろうかと我ながら甘い推論が浮かぶ。だが残念ながらありえそうにない話だ、空野先輩が俺と一緒に帰ることなんて、今まで一度もなかったわけで。
怪我をしているときは声をかけてくれたが、普段は通学途中で姿を見ても話したりはしない。今日も昇降口で俺を見たから声をかけただけで、それだけだ。
――絶対、大丈夫? 傘、本当に持ってる?
そう聞いてくれた空野先輩は、本当は気づいているのかもしれないと思った。しかし俺も、別に意味のない嘘をついたとは思っていない。
傘を忘れて、濡れて帰るくらいはたまにあることだ。別に今日が初めてじゃない。
一度家に戻ってからバイト先に行けばいいだけの話だ。俺は下駄箱から靴を取り出し、駐輪場の近くに出られる出口に向かった。
◆◇◆
バイトに入って一時間ほど過ぎてから、微妙にふらつきを感じ始めた。
空野先輩に知られないように残りの時間を乗り切ること自体は、難しくはなかった。レジ打ちや棚の整理をやっていると気が紛れるし、雨の日はお客さんがそれほど多くない。こまめに床をモップで拭くなどの業務は増えるが。
上がりの時間が来て、俺は空野先輩が更衣室から出てきたあと、挨拶を交わした。
「……海原、お先に」
「お疲れ様です、先輩」
「…………」
何か言おうとしているように見えたが、何も言わず、先輩は帰っていく。
俺はといえば、頭がぼーっとしてきているのを自覚している――顔に出たりしていないだろうかと思うが、とにかく、一緒に入っている先輩に迷惑はかけなかったと思う。
帰ったら勉強をしないといけない。頭がグルグルと湯だっているようだが、こんなのは気の持ちようだ。だが風邪を引きかけてるとしたら、予防のために、風邪薬でも買って帰るか。家に置いてあるやつがあったか、あくまで予防だから絶対薬を飲む必要があるわけじゃないが、ああ、頭がクラクラする。
俺もバイト先を出て、自分の家に帰る。どうやって自転車を漕いだかは、あまり記憶に残っていない。
さらに言うなら、家に入ったところで、全身にびっしょりと汗をかいていると自覚するが、俺は玄関の明かりもつけられないままでその場に倒れ込んだ。
「まずったか……」
連日深夜まで勉強していたが、まだ全く問題ないと思っていた。雨に打たれたからというのが原因と思いたくないが、認めざるを得ない。
スマホに着信があって、ポケットの中で震えている。辛うじて取り出すと、そこには岸川先生の名前が表示されていた。




