第七話・2
「海原くんも岸川先生と仲良くしてるから、応援演奏に参加してくれたら……っていうのは、やっぱりずるいわね」
「いえ……俺が吹奏楽部に入れないのは、個人的な理由ですから。水泳部を応援したい気持ちはあっても、それをしないのなら、俺は薄情だと言われても仕方ないと思います」
「……押し付けみたいにしてごめんね。海原くんのことを見るたびに、勧誘ばかりして……海原くんは勉強だけじゃなくて、アルバイトでも頑張ってるって、自分の目で見て分かってるのにね」
杜山先生は微笑んで言う。がっかりしているのを押し隠しているような。空元気を振り絞ったような声だった。
「うちの部の子たちに良くしてくれてありがとう。試験期間、勉強頑張ってね」
「……はい。先生、失礼します」
俺は挨拶をして、保健室を出る。
まだ日が高く、明るい廊下を歩きながら、俺は杜山先生との話を思い返していた。
勧誘を断ったとき、先生が寂しそうだったから。ずっと熱心に誘ってくれているからというだけじゃない。
中学までで、十分部活には打ち込んだと思っていた。ずっと続けてプロになれるわけでもなく、これ以上時間を使うことは、合理的ではないと思った。
誰だって、そんな理屈だけで動いてはいないと分かっている。
俺自身が、吹奏楽のことをどう思っているか。嫌になって辞めたなんてことはない、『何となく離れた』というだけで終わらせようとしていた。
去年の文化祭で、俺は杜山先生に声をかけられた。中学のソロコンで賞を取った俺の演奏を見ていて、ずっと気になっていたと言ってくれたが、最初は先生はとても慌てていて、言っていることが上手く伝わらなかった。
――急なお願いで本当に申し訳ないんだけど、海原くんの力が必要なの。
――うちの金管、ユーフォの子が一人風邪を引いちゃって、頑張ったけどやっぱり熱が出ちゃって……。
――海原くんならできると思うの。だから、学校じゅうを探してたのっ……!
保健室に、物凄く美人の先生がいる――そう純から聞いてはいたが、俺は杜山先生を近くで見たのはそれが初めてだった。
学校内を走り回って俺を探していた彼女は、息を切らせているうちに目眩を起こし、俺の方に倒れかかってきた。その時何が起こったかというと、普通なら決して触れることのない部分が触れてしまった。
――あっ……ご、ごめんなさい。お昼ごはん食べてないから、くらくらしちゃって。
昼食を食べないで、文化祭での演奏を成功させるために、先生は走り回っていた。
ユーフォニアムが無くても、ソロパートのあるような曲でなければ問題なく演奏できる。それでも先生は俺を参加させるために探してくれた――文化祭の当日に。普通に考えたらありえない話だが、実際に先生はそれを実行して、演奏も無事に成功してしまった。
いてもいなくても同じの目立たない楽器。俺の親もどんな楽器なのか全くピンと来なかったようで、演奏会に来たときは、『トランペットかもっと大きい楽器にすれば、どこを吹いてるか分かりやすいのに』と言われた。
親が言う通り、主旋律を吹く楽器は目立つ。ユーフォはブラスバンドの音色を構成する、金管の中音域を出すための部隊で、役割の近いホルンよりも数は少ない。男だからと大きめの金管をやることになったが、一番大きなチューバは同学年に上手い女の子がいたため、俺は半ば消去法でユーフォニアムになった。
俺にとっては、それくらいのものだ。部員として与えられたパートをこなしただけだ――それくらいだと思おうとした。
けれど杜山先生はずっとぶれないまま、俺が必要だと言ってくれている。俺が高校で吹奏楽に入らないのは勿体無いと、本気で思ってくれている。
認めなくてはいけない、先生の熱意に根負けしかけていることを。
三顧の礼という故事がある。それが事実として起きたことかはわからないが、才能を眠らせていた孔明が、劉備の仁徳によって配下に加わるというエピソードだ。
凡人の俺でも、そこまで熱意を込めて頼まれたら心は動く。
自分が入ったら吹奏楽部の演奏が良くなるとか、そこまで傲慢でもない。入ったら入ったで、自分のパートを精一杯にやるだけだ。
入ったら――そう、考えるようになってしまっている。
岸川先生と空野先輩がいる水泳部を応援したい。その一度のために演奏するだけでも、吹奏楽部の皆と一緒にやることができたらと思い始めている。
今のうちに自立を考えて動くことも、確かに今しかできないことだ。
しかし水泳部の試合も、吹奏楽部の活動も、今しかできないことに変わりない。
◆◇◆
翌日は午後から久しぶりに雨が降って、春にしては肌寒い日だった。
一日の授業が終わったあと、俺は岸川先生にLINEを送って、職員室から出てきてもらった。
廊下は冷えるからと、岸川先生は俺を印刷室に連れていってくれる。まだ二年目の岸川先生は、他の先生に印刷をお願いされることがあり、よくここに来るそうだった。
「海原、どうした? 自分から来てくれるのは珍しいな」
「先生、水泳部の試合のことなんですが、いつごろあるんでしょうか」
「ん? ああ……そうか、杜山先生が応援したいと言ってくれているからな、海原も気にしてくれているのか」
岸川先生は微笑むと、俺の頭に手を伸ばそうとする――しかし身長があまり変わらないうえに、簡単に褒めすぎだからということか、顔を赤らめて手を引いた。
「こういうときは少し身を屈めてもらうと、やりやすいのだが」
「い、いえいえ。そんな、褒めてもらうようなことでもなくてですね……」
俺はまだ水泳部の応援に参加するとは決めてない。それでも岸川先生は、そういう話を話題に出しただけで嬉しくて仕方がないという様子だった。




