第六話・5
バイトを終え、一風呂浴びたあとで自室の机に向かう。先生と一緒に勉強した範囲を補強して、一科目ずつ範囲を固めていく。
結局、先生はいつも使っている自転車を見られると俺に正体がばれてしまうと気づいて、図書室を出るところで解散となった。
そのときに、クッキーを渡された。出来合いのものではない、家で作ってきたものだというそれを、俺は久しぶりに使う菓子皿に入れて、勉強しながら一つ口に運ぶ。
「……美味しすぎる……」
さっくりとした歯ごたえで、口の中でとろける。いつ焼いたものかはわからないが、香ばしさがしっかりとあって、油っぽさもなくさっぱりしているのにコクがある。
特に牛乳が好きというわけでもないが、このミルク風味は例外だ。豊穣の象徴のような胸を持つ岸川先生が作るミルククッキーは、他のクッキーの追随を許さない、想像の翼を広げさせるような味なのだ。
先生のおっぱいが大きいからと言って、ミルクという言葉から毎回想像を膨らませるのは変態でしかないか。それにしても美味い。練乳みたいな風味で濃厚なミルク感がありつつも、甘みがちょうどよく後を引く。絶賛の感想が止まらない。
サクサクと口に運んでいるとかなりのペースで減っていく。あとは勉強を終えたときの自分への褒美として、大事にとっておくことにする。
クッキーの味にひとしきり感激したあと、俺は自然と岸川先生のことを考えていた。
先生は、どうして制服を着るなんて手段に出てまで、俺と一緒に勉強してくれたのか。
答えは、考えるまでもなかった。
俺が一人で勉強しているだろうと思ったから、様子を見に来てくれた。先生としてでは俺が遠慮をすると思って、制服を着てまで。
先生はこの学校のOGなので、制服が今でも取っておいてあったのかもしれない。ブレザーの前を閉じられなかったのは、学生時代より成長していることを示している。
あんな先輩が本当にいたらと、ずっと同じことを考えている俺もどうなのだろう。ありえないことなのに、夢想してしまう。
石川先輩と時々学校で会って話をするような関係になって、勉強して。そうやって、学園生活を送れていたら。
先生と生徒とは全く違う。岸川先生とメッセージを交換することには遠慮があるが、生徒同士だったらそのルールは必要がなくなる。
でも先生はあくまでも先生で、石川先輩は彼女が演じてくれている間だけの存在だ。もし本当にいてくれたらと思うのは、俺の甘い幻想にすぎない。
先生が制服を着てまで俺に伝えたかったことは、そんなことじゃない。
学校で俺のことを見ているから、きっと先生もよく分かっている。俺がクラスで孤立していることを。
そして、自分に対しての「何か怖い」というイメージを、変えるきっかけが掴めないでいること――とうの昔に諦めていることまで、先生には見通されている。
そこまでしてもらって、何もしないなんてありえないか。そうだよな。
俺は今の状況を、特に変えたいと思っているわけじゃなかった。ただ、歯がゆいと思うことが無かったわけではない。だが、どうしても状況を変えなくては耐えられないというほどは、学校で接するだけの周囲の人々に期待していなかった。いつでも空気を読まず、気兼ねなく馬鹿話をしてくれる純がいてくれたからというのもある。
しかし、先生を安心させたい、期待に応えたいというだけで、もう一度頑張ってみるかという気になっている。
そう上手くいくものじゃない。固まってしまったキャラクターを変えると、逆に引かれるということもあるだろう。だから、少しずつでいい。もし引かれるなら元の位置に戻れば、周りを戸惑わせることもなくて済む。
定着したインテリヤクザというイメージを変えるのは一朝一夕では難しいだろうが、怖そうだけど話してみたら普通の人くらいにならないだろうか。
自分の目つきの悪さを自認している俺としては、まずは眼光を和らげなければならない。おっとりとした杜山先生を見習えば、少しは和らいだりしないだろうか。心根がおっとりしていない上におっぱいばかり気にしている俺が杜山先生に倣おうとするなんて、おこがましいことだと重々分かっているので、俺にできる範囲でできることをやるしかない。
◆◇◆
状況を変えようと決意しても、簡単にチャンスがあるわけじゃない。そう思っていたのだが。
翌日の朝、少し早めに教室にやってくると、三分の一くらいの生徒がすでに登校していた。人数が少ないほど怯えられやすいのだが、やはり愛嬌を振りまいたりすることもできず、自分の席に座る。
「ごめーん、一限の数学の課題ってやってある?」
「うそっ、やってないの? うちの方が見せてもらおうと思ってたのに」
隣の席の女子と友達の、切羽詰まったやりとりが聞こえてくる。この二人はいつも持ちつ持たれつという感じで課題を見せあっているのだが、今日は連絡が上手くいってなかったようだ。昨夜メールをすれば事故は避けられただろう。
「じゃあ、他に誰か……あっ……」
「……や、やばいよ、うちらが邪魔なんかしたら、海原くん怒っちゃうし……」
助けを求められて怒ったことなど一切ない――と、多少理不尽に感じたので、目に力が入ってしまう。
「「ひぃっ……!」」
そこまでか、と思うほど引かれる――ここでいつもの俺なら、無理に怒ってなどいないと誤解を解こうとせず、無言で英単語帳でもめくっているところだ。その行動すらも不機嫌でやっていると思われるので、苛立ちを募らせるばかりだった。
しかし今日は、少しだけ。
俺がクラスで浮いていることへの引け目も、一方的に怖がられることへの不満も、何もかも一度忘れる。




