第六話・4
「……もし、私が……」
「え……石川先輩?」
「い、いえ、何でもありません……涼太くん、もうそろそろ閉門の時間ですが、まだ勉強していきますか?」
「俺はそろそろ帰ります。ちょっと用事があって」
「分かりました、私も途中まで一緒に……」
二人で帰り支度を始めようとした、そのときだった。
本能が警告する。この状況を見られてはいけない人物が何人か存在して、俺の視界に入っている彼女は、その中の一人に含まれている。理解はしてもそれがどれくらいのピンチなのか分からないほど、空野先輩の姿は不意に現れた。
まだ見つかってはいない。しかし今から席を立っては目立ちすぎる。見られずにこの場をやり過ごすには、と考えたところで。
「りょ、涼太くんっ、すみません、少し机の下にっ……!」
「えっ……い、石川先輩、うわっ……!」
俺よりも石川先輩の方が慌てていた。先輩は俺を机の下に引きずり込む――四人掛けのテーブルなので下に入る余裕はあるのだが、急いだ拍子に、石川先輩に押し倒される形になってしまった。
「す、すみません、涼太くん。少しだけ静かにして……っ」
石川先輩――いや、岸川先生は、俺の口に人差し指を当てて、静かにするように懇願してくる。
しかしこの姿勢はまずい。ブレザーの前を閉じられないほど豊かな膨らみが俺の胸板に無防備に押し付けられて、その弾力を遺憾なく発揮している。先生はこのまま胸だけで胸立て伏せができるのではないだろうか。
心臓の鼓動は、こうして密着するだけでも伝わると分かる――トクン、トクンと小鳥のように先生の胸が鳴っていて、これ以上なく緊張していることが分かる。
「……静かに……もう少しだけ……」
先生がいつもポニーテールにしている髪がほどけてしまって、胸がすくような香りがする。先生の胸からミルクのような甘い香りもしていて、思考がまとまらない。普段バスルームで牛乳石鹸をお使いになっているのだろうか。
空野先輩はというと、友達と一緒に図書室に来ていたようだ。さっきからいたようなので、今までニアミスしなかったのは幸運だった――しかし、制服を着ている岸川先生の姿を見られたら、顧問として立つ瀬がなくなってしまいかねない。
『先生、制服で海原と何をしてたんですか?』
その質問に俺も岸川先生も上手い切り返しなどできるわけがないので、ひたすらに祈る。この危機が神の気まぐれか何かで、何事もなく過ぎ去ってくれるようにと。
「奈々海、どうしたの?」
「あ……ううん、ちょっと気になっただけ。何でもない」
テーブルの下から、空野先輩の足だけが見える。膝下までのソックス――これほど注目することはないし、勿論してはいけない。
しかし空野先輩は、俺からスカートの中が見える位置まで来てしまう――足元を見られたら終わりという状態で、俺は目を閉じるしかなくなる。
やがて空野先輩は友達と連れ立って図書室を出ていく。今日はバイトのシフトがかぶっているので、後でまた顔を合わせることになるだろう。
「い、石川先輩、そろそろ……」
「い、いえ、まだ念のために隠れて……じっとしていてください、涼太くん……」
身じろぎすらもできない――だんだん体温が伝わってきて、石川先輩の胸ぶとんという言葉が思い浮かぶ。寒いときに先生と一緒に寝たらさぞ温かいだろう、なんて恐れ多すぎる想像がどうしても展開されてしまう。
「あ、あの……海原くん、足の位置をもう少し……」
「す、すみません、先輩……そんなつもりじゃ……」
石川先輩に離れてもらうまでは、接触する位置に最大限の配慮をしなくてはいけない。もし先生が声を出してしまったりしたら、空野先輩でなくても他の生徒に気づかれてしまうかもしれない。
しかしどうしても身じろぎくらいはしてしまう。石川先輩は少し困ったような顔をして、俺をじっと見つめながら言った。
「……おいたはだめですよ。お姉ちゃんにも心の準備があるんだから……」
動いた拍子に髪が解け、眼鏡も取れてしまった。岸川先生の大人の魅力が暴走する――先輩でなくてお姉ちゃんになっているなんて問題は、こうなってしまうと些事にすぎない。
顔を赤くして強がるところも、控えめに言って可愛いとしか言いようがない。先生に可愛いなんてとても言えないのに、考えるだけでも背徳感に近いものを覚える。
もう少しこのままでいたい。しかし、言わなくてはいけない――この楽園のような状態から、自ら抜け出すのは名残り惜しいが、先生の信頼には代えられない。
「先輩……眼鏡、外れちゃってます……」
「っ……」
俺は手の届く場所にあった眼鏡を拭いて、岸川先生につけてあげた。変装の要だった眼鏡が外れてしまっていたと知ると、先生の顔がかぁぁ、と真っ赤になる。
岸川先生がたまに言う「お姉ちゃん」も出てしまっているので、正体は全く隠せていない――それでも。
「涼太くんの眼鏡は、外れにくいんですね……」
俺を「涼太くん」と呼ぶということは、これからも岸川先生は「石川える先輩」として俺の前に現れるかもしれないということだ。
テーブルの下から出たあと、岸川先生は身だしなみを整える――途中まで一緒に帰ると言っていたが、誰にも見られない必要があるのではないだろうか。
しかしそれは、岸川先生と俺の間では、元からなるべく守ってきたルールでもある。制服を脱いで元の先生の格好で帰った方がいいとは、俺はあえて言わなかった。
少しでも長く「石川先輩」としての先生を見ていたい。悪戯な気持ちではなく、そう思った――それほどに、一緒に勉強する時間が楽しかったからだ。




