第五話・8
「それでね、空野さんも三年生で、最後の試合だから。海原くんがユーフォニアムを吹いてくれたら、きっと喜んでくれると思うの。もちろん、私たちも」
海原はバイトに力を入れたいので、部活には入らないと言っていた。
そう考える理由は、彼の生い立ちなどにあるのだと思う。自立心を養うような、そんなご両親の方針のもとで育ってきて、早く自立することを志向している。
「……空野先輩を応援したいとは思ってます。でも、俺がユーフォニアムを吹くことが絶対必要とは思いません。俺が吹奏楽をやってたことも彼女は知らないし、今の吹奏楽部の調和を乱すこともするべきじゃないと思います……って言うと、やっぱり言い訳みたいになりますか」
海原の意志は固く、部活の勧誘は受けない――杜山先生には申し訳ないが、彼がそう答えるだろうとは分かっていた。
気持ちを変えることがあるとしたら、よほど大きな出来事が必要になる。それが海原にとって良いことなら、私は応援したいと思っている。
杜山先生は残念そうにしてはいたが、肩を落としたりすることはなかった。
海原の言葉に耳を傾けて、気持ちを押し付けることはしていない。その姿勢は、私も共感できるものがあった。
「……言い訳なんて思わない。でも、海原くんは自分の力は小さなものだって思いすぎてると思う。それはね、私の思い込みなんかじゃないから」
杜山先生がそう言ったところで、海原がふとこちらに視線を送る――特に隠れることをしていなかった私たちは、二人に近づいていく。
「岸川先生、それに空野先輩も……今の話、聞いてたんですか?」
問い詰めるような口調ではなくて安心した――立ち聞きをしていて海原が怒るようなら、謝っても許してもらえるかどうか分からない。
「ちょうど帰るところで、だいぶ話は聞こえていた。杜山先生、ありがとうございます。水泳部のために、そんなことを考えてくれて」
「は、はい……っ、私、あの、今まであまりお話できてなかったんですけど、岸川先生にその……あ、憧れていて……っ」
「杜山先生が、私に……そ、それは、一体どういった理由でですか?」
海原と空野がいるからか、杜山先生は少し恥ずかしそうにしていたが、意を決したように私の質問に答えてくれる。
「……先生はすらっと背も高くて、生徒から憧れられていて……私、岸川先生みたいな先生になりたかったんですけど、生徒からは『ちせちゃん』とか愛称で呼ばれちゃって、あまり先生として見てもらえないというか……」
「……『女神先生』って呼ばれて、すごく尊敬されてますけど、それは駄目なんですか?」
空野が言うと、杜山先生はかぁぁ、と顔を赤くする。急に生徒からそんなふうに言われたら、照れるのは仕方ないことだ。
「そ、それは……女神って言われても、私のどこがそんなふうに見えるのかわからないし、『女騎士先生』の方がかっこいいし……あっ……す、すみません、私がそう言っていたんじゃなくて、生徒たちが言っていて、素敵だなって思っていたんです」
その呼び名は恥ずかしいというか、「岸川」だから「女騎士」と呼ばれるのは分からなくもないのだが、その呼び方で返事をすることは断じてできないとは言っておきたい。
――そうこうしているうちに、閉門が近いことを告げるチャイムが鳴り始めた。
「いけない……そろそろ学校を出ないと、門が閉まっちゃう。海原くん、今日はうちでご飯は食べていく? それともお風呂?」
「えっ……も、杜山先生っ、いきなり何を……っ、うわっ!」
なぜ、海原がそれほど驚くのか。私自身も自覚はしている。きっと今の私は、自分でも教師としてどうかと思うほど、怖い顔をしてしまっているのだろう。
「……あっ、ち、違うんです、お風呂は別々なんですけど、海原くんは一人暮らしなので、私の家でお夕飯を作ってあげようって思って……だ、駄目ですよね、先生と生徒で」
「だ、駄目というか……それが駄目なら、私も……」
私は口ごもってしまう。お弁当を二人で食べるのも同じくらい咎められることなのか、それとも家に行くこととは段階が異なるのか。いずれにせよ、海原とのお弁当の時間は私にとって大切なものなので、無くなってしまうのは困る。
「海原、今日のところは解散ね。私は岸川先生と、杜山先生と話があるから」
「あ、ああ。俺、バイトがあるから急いで帰るよ」
「あっ、海原くん……ああ、行っちゃった。帰り際に声をかけちゃったから、お詫びをしたかったんですけど……」
お詫びということなら、海原を家に招いて夕食をご馳走するというのも分からなくはない――というほど、私も鈍くはない。
「杜山先生……海原のことを、朝車で送ってきたことがあると聞きましたが……」
「っ……そ、それは……海原くんは悪くないんです、私が怪我をした彼に夕食をご馳走しようと思って、お家に招いて……い、いけませんよね、先生がそんなことしたら……」
「わ、私からは……一概には、答えられないのですが……」
私が海原とお弁当を食べていることを、空野は知っている。そのために、私も言葉を濁すことしかできない。それでは、空野が怒っても仕方がないというのに。
「……海原と岸川先生とのことも、言っておいた方がいいですよね」
私もそうするべきだとは思うが、私は杜山先生の驚いたような視線を受けて、顔が熱くなるのを止められなかった。
生徒から「女騎士」と呼ばれている私が、皆に秘密にして海原とお弁当を食べていることを、ついに同僚に知られてしまったのだから。
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