第三話・2
「先生、ありがとうございます。じゃあ、またあとで」
「え、ええ……行ってらっしゃい、海原くん」
俺は車を降り、最初は松葉杖を使わずに立つ――そして杜山先生の車が走り去ったのを見てから杖を突いた。
もうかなり痛みは引いてるが、まだ足をかばって歩いた方が良さそうではある。治りを早くするためにも、俺は杖を突いて歩いた。
貰ったばかりの名刺を、ひとまずカバンの外側のポケットに入れておく。ここでも折れ曲がったりはしないだろうと思うが、後でバスの定期入れに収納するまでは、気をつけておかないといけない。
移動に時間はかかるが、早めに出てきたので問題はない。他の生徒が自転車で俺を追い抜いていったりもする――やはりこれ以上学校に近づいていたら、目撃される可能性が飛躍的に高まっていただろう。
また一人、うちの学校の女子が、車道の隅を自転車で走っていく――しかし、少し先で自転車が止まり、乗っていた黒髪の上級生がこちらを見た。
「……海原?」
「っ……そ、空野先輩。おはようございます」
「敬語じゃなくていいけど……どうしたの、こんなところから歩いて。いつもバスじゃなかった?」
「あ、ああ……いつもはバスだけど、今日はちょっと理由があって」
「……ふうん」
このテンションの低め安定という感じに、今でも慣れない。高校で再会してから一年以上経ち、バイトでも去年の夏、空野先輩が夏の試合を終えたあとから一緒になっているのに、同じ高校生バイトでシフトが被ることが少ないこともあって、ほとんど他人と変わらないのではという関係性でしかない。
空野先輩を前にするとどうしても緊張してしまう。彼女があまりにも大人びすぎたから――そして、岸川先生や杜山先生ほどとは言わないが、育ち盛りの暴力的なまでの発育が彼女を大きく変えてしまったからだ。
先輩は水泳部の部員だ。岸川先生に指導を受けていて、競泳の強化選手に指定されている。
競泳は身体の凹凸が少ない方が、水の抵抗を減らせて有利である――それが一般常識なのだろうが、空野先輩は全くそのイメージとは逆を行っていて、しかも県でもトップレベルの記録を持っていた。
端的に言って、正面に立つとどうしても視線が引きつけられるほどに胸が大きい。昔と比べると信じられない――それは子供の頃の記憶を引きずりすぎだろうか。
「……視線が一秒以上止まったら、さすがに気づくから」
「っ……ご、ごめん、そんなつもりじゃ……」
空野先輩が自転車を押してこちらにやってくる。彼女は俺の目の前まで来ると、すっと手を伸ばす――そして、下顎に指を添え、くいっと正面を向かせられた。
「おっぱいは、ふだんいっぱい見てるんじゃないの? エッチな本とかで」
「おっ……せ、先輩、そういうことはあんまりはっきり……っ」
エッチな本というのもそうだが、おっぱいという言葉を先輩が発するのは、何か罪悪感がとても大きい。先輩が落ち着いているほど、俺の方が申し訳なくなる。
そして俺が、日頃どんな生活をしているかについて、あまり芳しくない想像をされている。コンビニの仕事をしているとき、エッチな本の売り場を気にしているように思われてしまっているのだろうか。それを完全に否定できる男子などそういないだろう。
「海原、うちの部の先生と仲いいでしょ。だから、好きなんじゃないかなって」
一瞬頭が真っ白になる――空野先輩に、そんなふうに思われていたとは。俺と岸川先生の関係は、水泳部では公認の事実だったりするのだろうか。いや、先生と生徒の一線を決して超えてはいないはずだ。
「うちの先生、水着着てても凄いし……あれでよく選手やってたなって」
「な、何だ……そういうことか。そういう凄さなら、空野先輩も負けては……」
「……なんて?」
「い、いや、何でもない……そういえば昨日のバイト、急に休んだりして大丈夫だったか?」
敬語を使うと怪訝な顔をされるので、何とかフラットに喋ろうとするのだが、まだバランスがつかめない。慣れなれしくしすぎると怒られてしまいそうで――今のところ、気分を悪くした様子はないみたいだ。というより表情が全然変わらない、クールすぎる。
「そんなに忙しくなかったから、大丈夫。海原のこともちゃんと伝えておいた。足が良くなったらお店に顔を出して、シフト表を書くようにって」
「もう大分良くなったから、明日には行けそうだ。今日家に帰ったら電話するよ」
「それがいいと思う。店長、海原のこと心配してたから」
淡々としてはいるが、空野先輩は冷たいというわけではなくて、むしろ普段から良くしてくれている。
それでも昔と違うのは、バイト以外で顔を合わせたり、休みに遊ぼうなんて話にはならないということだ。俺も休みの日はほぼ勉強しているし、遊びたいなどと容易に考えてはならないのだが。
「先輩、それじゃ、またバイトに入った時にはよろしく」
なるべく肩に力を入れないような話し方を心がけるが、先輩は返事をしてくれず、俺をじっと見ている。
そして、彼女は自分の自転車のサドルをぽんぽんと叩いた。
「……乗って」
「い、いや……自分で歩けるから大丈夫。本当は杖無しで歩けるくらいだし」
「じゃあ、ぎゅって足踏んでも大丈夫? 泣かない?」
「……それはさすがに、怪我をしてなくても痛いと思うからやめてほしい」
「海原、松葉杖で歩くの大変そうだから。バイトに早く戻ってくれた方が助かるし、学校まで送ってあげる」
先輩は髪留めのゴムを取り出して口にくわえ、長い髪をまとめて束ねる。滅多に見ることのないポニーテール。それは、動きやすいようにということらしい。
「……乗って。押してってあげる」
声のトーンは変わらないのに、プレッシャーが強くなる――俺という人間は、つくづく年上からの押しに弱すぎる。




