第二話・4
「ん、んしょっ……あっ、ええと、三年生の空野さん……?」
「3―Dの空野奈々海です。爪が少し割れちゃった子がいて、絆創膏をもらいに来ました。私、保健委員なので」
「あらあら、大変……ちょっと待っててね、すぐに持ってくるから」
淡々とした口調で話す、艶のある黒髪が印象的な女子生徒――というか、俺にとっては、この学校で数少ない知人の一人だ。
知人というよりも、幼馴染みと言っていいかもしれない。しかし、子供の頃は近所に住んでいるからという理由で仲良くなっても、ある時期から疎遠になってしまった。
昔はもっと活発というか、おてんばな性格だったと思う。俺のことを連れ回して、男も女もなく接して、よく笑っていた。
しかし今目の前にいる空野先輩は、三年生の中では五本の指に入る美人と言われているものの、「クールビューティ」と呼ばれるような人になっていた。
「……なにか?」
「っ……い、いや、何でもない……です」
「敬語じゃなくてもいいのに。二年生でも有名なインテリヤクザくん」
あからさまに辛辣な言い方をされて、多少なりと苦々しい思いを味わう。あえてここでインテリヤクザと言う意味が、俺への罰以外には考えられない。
そんなことを言っても泣き言にしかならない。このまま倒れたままでもどうかと思うので、腹筋に力を入れて身体を起こした。
「…………」
「……な、何か……?」
空野先輩は確かに何かを言ったが、小さな声すぎて聞き取れなかった。
あえて聞かない方が平和かもしれないと思ったが、どうしても気になる――しかし、先輩が答えてくれるというのは望み薄だ。
「……大丈夫?」
「えっ……ま、まあ、頭は大丈夫だけど……」
「……頭じゃなくて、足。テーピングしてあるけど、ひねった?」
「さっきの体育で、ちょっと……」
「……バイト、休む? 今日、シフト入ってたけど」
そう――俺と空野先輩は、バイト先が同じコンビニだ。
昔の知り合いで、学校では先輩と後輩で、バイト先まで同じ。
それでも一度時間を置くと、俺も先輩も少なからず変わってしまって、昔みたいに気の置けない接し方はできなくなる。
今の俺が、先輩にとって好感の持てない相手という可能性も否めないが――「大丈夫?」と聞いてくれたのは、俺が身構えすぎただけで、普通に心配してくれたのだと思う。
「……休んだ方がよさそう」
「そうだな……そんなに治るまで時間はかからないと思うんだけど」
「海原くんのことは、私に任せておいて。先生、ちゃんと怪我が治るまでしっかりサポートするから」
「……はい。よろしくお願いします」
空野先輩は絆創膏を受け取ると杜山先生に頭を下げ、保健室を出ていく。
学校で先輩を見る機会はあまりないので、何となく後ろ姿を見送ってしまう――すると、ふに、と杜山先生に頬をつつかれた。
「せ、先生。すみません、じっと見てたから怪しかったですか」
「海原くん、空野さんと知り合いだったのね……すごくきれいな子よね、彼女」
「知り合いというか……まあ、知り合いですね」
こんな言い方もどうかと思うが、やはり空野先輩との昔のことを思うと、複雑な思いが湧く。俺が覚えているだけで、先輩はもう忘れているのかもしれないが。
「海原くんのこと、空野さんにお願いされちゃった」
「っ……待ってください先生。あれは、普通に挨拶をしただけじゃないかと」
「空野さんも、海原くんと同じバイト先なのよね? 先生、聞くつもりはなかったけど聞いちゃったもの。今日も同じシフトでバイトをする予定だったのなら、お仕事をしてる間も、休んでる海原くんのことを気にかけると思うの」
絶対に、空野先輩はそこまでのニュアンスで言ったわけじゃない。
今の杜山先生には何を言っても通じない――岸川先生と話していてもそうなることがあるのだが、ついに俺は、二大女神の二人目にも押し切られかけている。
「これは勧誘のためじゃないから、心配しなくていいのよ。先生が、生徒のことを心配するのは当たり前のことだもの」
こんな時だけ「先生と生徒」を持ち出してくる杜山先生――彼女は得意げに腕を組むが、たぷんと強調された二つの山を前にして、目眩を覚えずにいられなかった。
◆◇◆
先生の処置が適切だったからか、放課後には普通に歩けるくらいにはなっていたのだが、俺は普通に一人で家に帰る途中で、車で追いかけてきた先生に捕まった。そしてどこに連れていかれたかといえば、病院だ。保健室での治療だけでは心配だからということだったが、確かにしっかり診てもらえて骨に異常がないとわかったし、あると便利な松葉杖などを貸してもらえた。
図書室で勉強をしてから帰るという時間差攻撃に出たのが、結果的には裏目に出てしまった――杜山先生も退勤できる時間になり、校舎を出るところで見つかってしまい、悠々と追いつかれてしまったわけだ。
「もう腫れはほとんど引いてるってお医者様は言っていたけど、もう少し安静にしていないとね」
助手席に座っている俺に、先生は運転しながら話しかけてくる。ちゃんと前を見て慎重に運転しているし、それについては全幅の信頼を置ける。
乗せてもらって偉そうに考えることではなく、運んでもらえているだけで本来は感謝しなくてはいけないところなのだが――。
「先生、病院に連れて行ってもらったことには感謝してます。してるんですが……」
「いいのよ、乗せていってあげたから部活を見に来てなんて言わないわ。少しだけ期待はしてるけど、ちょっぴりだけだから」
「そ、そうじゃなくてですね、俺の家じゃない方向に向かってるみたいなんですが……」
最初に俺の家がある場所については伝えて、先生もカーナビに登録していたのだが、今はなぜか『自宅』に向かってまっしぐらに進んでいる。この場合の自宅とは、杜山先生の家のことだ。
信号待ちをしている間に、先生がこちらを向く――何度見ても輝きの変わらない女神の微笑み。しかし俺は、この笑顔を前にしても、素直に心を許すわけにはいかないと感じた。




