第十四話・1
杜山先生の言う「荒療治」が何なのかは、その週の日曜日に判明することになった。
週明けの月曜日は学校の創立記念日で、休日になっている。五月に連休が集中していることで、六月がやたら長く感じるのは良し悪しではある――それはさておき、俺は土曜日にバイトが入っていたが、日曜と月曜は勉強か、水泳部・吹奏楽部の活動に参加するために空けていた。
それが結果的に良かったわけだが――水泳部の臨時マネージャー、ならびに吹奏楽部の助っ人になったばかりの俺が「合宿」に同行させてもらうというのは、いささか恐縮というか、いいのだろうかとは思う。
「は~、海きれ~だよねこの辺。まだ五月だから無理だけど、今から泳ぎたくなるよね~」
「吉田、合宿に行くのだから、あまりはしゃぎすぎないようにな」
「はーい。でも合宿ってやっぱりテンション上がるじゃん。芽瑠っちも少しくらい肩の力抜いた方がいいよ」
「……芽瑠っちはやめるように。しかし、忠告は受け取っておこう」
俺がどこにいるのかというと、隣の市にある合宿所に向かうバスの中だ。合宿所には競泳の練習に使えるプールと、吹奏楽の練習に使える合奏室があり、県内の高校であれば予約すれば使うことができる――なぜそんなところに行くことになったのかというと。
「杜山先生が誘ってくれたってどういう流れって思ったけど、みんな楽しそうだし良かったよね。やっぱり練習は楽しくやんなきゃ」
吉田先輩の言うとおり、バスの中は和気藹々としている。俺は一人で座っているが、前の方に座っている空野先輩も、三年の友達と話していて、その表情は硬くはない。
しかし、朝からずっと空野先輩とは話せていない。俺のことを避けているわけではないが、何となくタイミングが掴めないままだった――岸川先生ともだ。
やがてバスは海沿いの道に差し掛かり、合宿所らしい建物が見えてくる。駐車場にバスが停まってみんなが降りていく――俺以外の全員が降りたあと、中に残って送り出していた岸川先生と目が合った。
何を話せばいいのか。マネージャーの仕事はしばらくしなくていいと言われたのに、俺はここにいていいのか――。
そんな迷いは、岸川先生が微笑んでくれたことで霧散する。
「すまない、急にあんなことを言ったりして。後で、改めて話させてほしい」
「……はい。ちょっと驚きましたけど、今日ここに呼んでもらえて安心しました」
「そんなことは……私が言うのも何だが、当然のことだ。それに君は、吹奏楽部員としても合宿に参加しているのだから」
岸川先生はそう言って、俺の肩に手を置こうとして――今はしてはいけないというように手を引いた。
「……私はお姉ちゃん失格だ。海原に何も知らせずに、きっと心配をさせた」
「いいんです。話してくれる気になったのなら……それだけで嬉しいですから」
俺は先生の手を取る。そうしたいと思ったから――先生と生徒で、親しくしすぎてはいけないと思っていて。でも、触れたい。
俺に触れようとした先生は、躊躇して――その手は震えていたから。
「……海原に触れてもらうと落ち着く。でも本当は、私が海原を落ち着かせられるような存在でいたい」
何も、心配することはなかった。俺はいつも先生に甘やかされてしまっていて、突き放すようなことを言われたわけでもないのに、気持ちが沈みそうになっていた。
岸川先生が落ち着くと言うなら、俺はここにいてもいいと思える。彼女が肯定してくれるのなら、それだけで自信も気力も湧いてくる――我ながら、なんて単純なんだろうか。
「先生、前に預かった昔のデータをまとめてきました。もし良かったら、後で見てもらえますか」
俺が鞄からノートを取り出すと、先生は少し驚いて――その目が潤んで。
彼女は目元を拭って涙を見せないようにすると、照れ隠しのように微笑み、ノートを受け取ってくれた。
「もちろん参考にさせてもらう。貴重な合宿所での時間を、効果的な練習に使わなくてはな」
「はい。俺にもお手伝いさせてください」
二人でバスを降りる――すると、他のバスで移動していた杜山先生が、つばの広い帽子をかぶり、リゾート地を楽しむお嬢様のようなワンピースを着て、俺たちを待っていた。
「岸川先生、海原くんのこと、吹奏楽部にも貸してくださいね」
杜山先生には、本当に感謝しかない。こんな形でわだかまりを解くことができるなんて、思ってもみなかったから。
岸川先生もその気持ちは同じのようで、感極まってしまったようだった――杜山先生が岸川先生に近づき、肩に触れて落ち着かせようとする。
「……ありがとうございます、杜山先生。あなたは、本当に……」
「岸川先生はときどき思い詰めてしまうので、私が見ていてあげた方が良さそうですね。こう見えても、姉ヶ崎高校みんなの保健の先生ですから」
女騎士先生と、女神先生は固い友情で結ばれている。そんな話が学校の皆に伝わったら、ますます憧れが集まってしまう気がする。
「海原くん、お昼は合宿所のほうで用意してもらっているけど、夕食はバーベキューよ」
「バーベキュー……いいですね、それは」
「ふふっ……海原、目が輝いているぞ。男の子はやはり、いっぱい食べて元気でいるのが一番だな」
先生二人が微笑ましそうに俺を見る。やはり、先生の前では俺は「男の子」の扱いになってしまう――だが、今ばかりは悪い気はしなかった。
◆◇◆
俺たちはまず合宿所で昼食を摂ってから、休憩をはさんでそれぞれの練習を行うことになった。
俺は水泳部の練習に二時間参加し、休みなく泳ぐ選手たちを元気づけるような声がけをしたり、ドリンクを出したり――マネージャーとしてできることをひたすらこなした。学校のプールの練習よりも熱が入っていて、あの吉田先輩も私語を全くせずに取り組んでいた。
空野先輩は言うまでもない――ストイックなまでに、自分を追い込んでいく。一秒タイムが遅れたら、次は二秒縮める。
背泳ぎのタイムは他の選手よりずっと早く、並んで泳いでいる選手が周回遅れになる場面さえあった。空野先輩の実力が群を抜いていることを、データの面でも改めて確かめさせられる。
しかし、それでも県大会で争う相手――城ヶ崎学園の高坂・ヴァレリヤノヴナ・六花という選手は、地区大会の記録で空野先輩を上回っている。
城ヶ崎学園は、毎年全国大会に出場する選手を輩出する水泳の名門だ。去年から顧問になった日向御影という人は、元全日本代表の選手で、その強さと立ち居振る舞いから『女帝』と呼ばれていたという。
「――ペースが落ちているぞ! 次の周回で戻していけ、まだ疲れるには早い!」
「「「はいっ!」」」
岸川先生が檄を飛ばし、選手たちが応える。空野先輩も声を張って返事をしていた――彼女だけが早いタイムで回っているのに、そのことに対して一切不満を出さない。
その姿を見て、岸川先生は小さく呟く。
「……分かっている、苦しいことは。しかし、空野……まだ、おまえなら……」
見ている先生も苦しい。それくらいの練習を空野先輩はしている――他の選手たちも、勿論限界まで自分を追い込んでいる。
マネージャーとして、俺ができること。それは、すぐ近くで応援していることを、分かりやすく伝えることだ。
気持ちを伝えるのは苦手だ。だが、ふと声を出すと低く響いてしまう俺の声は――これほど熱の入った練習の時でも、皆に届かせることができる。
「――みんな、頑張って行きましょう! ラスト一本、終わったらインターバルです!」
岸川先生が驚いて俺を見る。俺が大きな声を出すとは思っていなかったのだろう。
それは選手も、マネージャーの槇島先輩も同じだった。空野先輩も――しかし。
「――海原くんも見てるので、頑張っていきましょう!」
「「「はいっ!」」」
三年生の先輩が俺の声に応えてくれて、部員全員が返事をする。
――空野先輩も。彼女はゴーグルを外して俺を見たあと、スタートする――今のサークルでは最後の一本だ。
「……っ!」
空野先輩のフォームは、これまでよりも力強かった――岸川先生も目を瞠る速さで二十五メートルを過ぎていく。
「……海原、声出しをしてくれてありがとう。いい声が出ていた」
「あ、ありがとうございます。うるさくならないようにします」
「聞こえなくては意味がないのでな、海原の声はよく響くから助かる。また頼むぞ」
「は、はいっ……!」
俺ができることは、苦しい思いをしている選手と比べたら些細なことだ。
それでも、一つでもいい。彼女たちのためにできることを増やせることが嬉しかった。




