第十二話・3
「……まだ始めたばかりで汗は大丈夫だから、触っても問題はない。さあ、まずは上腕二頭筋だ。効いているかどうか触ってみてくれ」
「はい。上腕二頭筋……ここですか?」
「う、うむ。筋肉についても基礎的な知識はあるようだな……さすが海原だ」
腕で力こぶを作るときの筋肉。それが上腕二頭筋だが、男性と違って女性の場合すごく柔らかく感じるのは何故なのだろうか。
「では……こうして、首の前辺りまで引っ張っていく。後ろに身体を下げてもいいが、あまり下げすぎてはいけない……ふっ……」
先生がバーを引っ張る――少し後ろに下がり、首の前までバーを持ってくる。肘が直角になるこの角度が重要ということのようだ。
「……凄いですね、かなり筋肉が動いてます。他に、広背筋が鍛えられるんでしたね……先生の筋肉、こんなに柔らかいなんて……」
指先で先生の筋肉が動いていることを確かめる――確かにこれだけのテンションがかかっていれば、しっかり鍛えられそうだ。
「……た、確かに、その筋肉にも効くが……その、何だ、一つずつ、段階を踏んで……」
「先生、もう一度やってみてください。綺麗なフォームですね……これを俺の目に焼き付けて、トレーナーをするときの見本にします」
「う、うん、そうしていければ……ほ、他にも、違う筋肉にも効果が……一つずつ、確認を……っ」
フロントプルダウンという運動はこれほど広範囲の筋肉に効果がある。水泳にどの筋肉がどう生かされるかも勉強しなくては――試験の勉強も大事だが、トレーナーの勉強にも興味が湧いてくる。
「はぁっ、はぁっ……う、海原、1セット終わっているが、まだ続けるのか……?」
「すみません先生、あまりに先生の筋肉の動きに集中していて……素晴らしいトレーニングでした」
「っ……う、海原、汗は先生が自分で拭くから……」
「これもトレーナーとしてするべきことのはずです。お疲れ様でした、先生」
岸川先生はバーをゆっくりと離す。しっとりと汗のしずくが首筋に滴っているので、タオルを持ってきて押さえた。これは俺が持参したタオルだが、先生の汗を拭くために使われるなら全くもって光栄なことだ。
「……私のタオルがそこにあるのに。海原、熱心にしてくれて嬉しいが……そ、その、その部分の汗は積極的に拭こうとせずとも……っ」
「先生、今日のスイム前のメニューは全部終わりました」
「う、うむ、分かった。それでは……」
先生がスイムの指導に行くのであれば、トレーナー指導はここまでだろうか。まだ一つしか教わっていないので、正直を言って物足りない。
しかし先生はマシンから降りたはいいが、その発言は想像の反対を行くものだった。
「もう少し海原にマシンの使い方と、トレーナーとしての心構えを教えておきたい。槇島にメニューを伝えてあるので、まずそのメニューをこなしてもらう。もしサークルがきつければ10秒までは延長していい」
「「「はい!」」」
先生がつきっきりで見ているばかりが指導ではない――そして、先生は俺に対する直接指導に今は熱意を燃やしている。
部員たちがトレーニングルームを出ていく。最後に出ていきかけた空野先輩がこちらを見る――無言で見つめられ、とても心臓によくない。
先輩はそのまま部屋を出ていき、俺と先生の二人だけになる。この距離なら先生の顔ははっきり見えている――俺の視力だと、数メートルまでは何とか見えるというレベルだ。
「……海原、今日教えたことを空野とのトレーニングに生かせば、きっと喜んでもらえるのではないか?」
「い、いえ。一年生の子がついていて、かなり順調にできてましたし……」
「彼女もゆくゆくは選手として水泳部を支える立場なのでな、手伝いばかりというわけでもない。空野が希望するなら、海原をトレーナーとして付けたいと思っているのだが……どうした? 忙しくなりそうで、やはり難しいか……?」
先生は滅多に見せない表情を見せる――俺に断られそうだからということか、いつも毅然としている先生が、切なそうな瞳で俺を見る。
女騎士先生の要請――もとい、これはおねだりだ。
勉強とバイトに全てのエネルギーを使おうと思っていたあの頃が今や懐かしい。だが、時間が削られるならその分勉強の密度を上げればいいのだ――キャパシティが限られていても、努力が不可能を可能にする。
なんて理屈めいたことよりも、俺自身が先生の期待に応えたい。こうして水泳部の活動に参加することを、純粋に楽しいと思い始めているから。
「分かりました。空野先輩が俺についてほしいかは別として、水泳部のためにできることがあれば俺も嬉しいです」
「……っ」
少し優等生のようなことを言い過ぎただろうかと、自分では反省したのだが――先生は腕を広げて、俺をしばらく見つめたあと、こほんと咳払いをして後ろを向いた。
「あ、あまり海原がいい子すぎると……良くないな」
「っ……ち、違います。俺は……」
先生に喜んでもらおうと無理をしたりとか、そんなふうに思われては困る――というのは、俺の早とちりだった。
先生はただ後ろを向いただけではなく、汗をかいてしまったからか、ドリンクで水分を補給していたようだった。
「そんな顔をして言われたら、私は、海原のお姉ちゃんなのだから。弟を愛でたくなってしまうではないか……」
「……先生……んっ……」
ストローがそっと近づいてきて、俺はされるがままにそれを飲む。
「……これを飲んだら、指導の続きをしよう。海原は体育のとき、私と組むと緊張しているようだったからな……このままではいけないと思っていた。部活のことを、個人的なことに結びつけてはいけないと分かっているが……」
先生はやはり、俺が先生と体操をしたときのぎこちなさに気づいていた。
それを解決したいと思って、俺とトレーニングをしたい――トレーナーの指導をしたいと思ってくれたのなら、先生はやはり律儀で、とても優しい。
「先生と組んで体操をすることは、滅多にないと思いますが……次は、自然にできればと思います。俺はその……先生を尊敬してるので、大変なんですが……」
「そ、そうか……尊敬というのは、私には身に余るというか、言い過ぎではないかと思うが……海原こそ、私は尊敬するべきところが多いと思う」
「そ、そんなことは……」
そうやって互いに謙遜しあっている俺たちは、客観的にはどう見えるのだろうか――そう思うと急に恥ずかしくなってしまう。
「……で、では……あまりプールに行くのが遅れてしまうといけないからな、次の説明に移ろう」
岸川先生はラットプルダウンのマシンから、もう一つの上半身を鍛えるマシンに移る――連続で上半身というのはどうなのだろうと思うが、一つずつ教えてもらえるのなら順番は関係ないということか。




