第十二話・2
「せ、先生。海原くんは、トレーニングをどうやって手伝ってくれるんですか?」
「彼にはトレーナーの役割をしてもらう。そのためにはトレーニングを一通り教える必要があるから、今日はいつものメニューをこなしていてくれ。できるな?」
「「「はいっ!」」」
岸川先生の部員に対する鼓舞の仕方は、彼女しかできないものがあると思う。信頼しているからこそ「できるな?」という、部員の意地を引き出すような聞き方ができるのだ。
空野先輩もさっそく脚を鍛えるマシンに座って、両足で重りを持ち上げる。あのトレーニングの名前はレッグエクステンションだっただろうか。
「……んっ……もう少しウェイトを重くして」
「はい、これくらいで大丈夫ですか?」
「ありがとう……ふっ……ふっ……」
何というか、思ってはいけないのだが物凄く吐息が艷やかで、アシスタントをしている一年生部員も顔を赤くしている。
華奢に見える空野先輩だが、競泳に必要な筋肉は鍛えられていて、俺でも苦しくなりそうなウェイトを一定のペースで持ち上げている。トレーニングをするときは髪をシュシュでまとめているが、すでに首筋に黒髪が幾筋か貼り付いていた。
「空野も頑張っているな……ウェイトトレーニングは苦手と言っていたが、随分ウェイトを重くできるようになった」
「はい、本当に凄……凄っ……!?」
何気なく振り返って、俺は驚愕する――岸川先生が声をかけてきたとは分かっているので、それは驚くところではない。
驚いたのは、岸川先生の姿にだった。トレーニングウェアということか、薄手のシャツを身に着けているのだが、そんなものを身に着けたらどうなってしまうのか。双子の丘は今日も健在で、体育の授業のときよりもさらに迫力が増しているように感じる。
そして下半身に身に着けているのは体育の授業のときのジャージではなく、スパッツだ。先生の脚線美が強調され、上と下を視線が往復して――なんて破廉恥なことをしてはいけない。
「実際にマシンを使って指導をするので、着替えてきた。済まないな、席を外して」
「い、いや、俺も見学をさせてもらってたので……」
「そうか、見てみてどうだ? みんな頑張っているだろう」
「はい、こんなに本格的とは……うちの学校って、こんなに運動部の設備に力を入れてたんですね」
「年に一つずつ運動部合同でマシンを購入してここまで揃ったそうだ。水泳部で使える日は限られているが、少なくとも週に一度は利用することができるのでな。タイムを上げるにはスイムとウェイトをバランス良くしなくてはいけない」
普通に学校生活を送っていたら、トレーニングルームに入ることもなかっただろう――熱心にトレーニングに取り組む部員たちを見ているとしみじみ思う、部活というのはある意味非日常の入り口だ。
何より非日常なのは、岸川先生のトレーニングウェア姿だろう。こんな姿を見ているのは、全校男子でも俺一人――選ばれし者というのは自意識過剰だが、まさにそれだ。
「では……まずこのマシンから説明していこう」
「はい。これは俺も知ってます、この棒を引っ張るやつですね」
「うむ、ラットプルダウンといって、腕の筋肉や広背筋を鍛えるために使うものだ。まず、私が手本を見せよう。まず身体が浮かないように、このバーを下げて固定する。海原、ウェイトを調節してくれるか? 手を挟まないように気をつけてな」
先生がマシンに座り、上からぶら下がっているバーを両手で引き下げる――かなり軽く設定されていたようなので、二つほどウェイトの金属板を追加する。
「よし、これでいい……では、まず身体の前にバーを下げるやり方から。フロントプルダウンというのだが……こうやって、1、2の呼吸で下げて……」
先生が腕を上に伸ばしてバーを掴み、引き下げる――それを見ているように言われた俺だが、とてもではないが正面から直視できるものではない。
「そして、4つ数えて元に戻す……んぅっ……これを10回……しっかり胸を張って、肩甲骨の動きを意識しながら……んんっ……」
――先生、なぜ上半身のトレーニングから教えてくれようとしたのですか。
やり方は頭に入ってきているが、それ以上に、少し反ってバーを上下させる先生の動きが、胸の大きさと形を強調する。こういった運動によっても、先生の胸は育てられていたのかもしれないが、運動をすると減ってしまうものだと思うので、やはり先生は特別な存在だと結論せざるを得ない。
「空野先輩、キレてますよ、もっとデカくしていきましょう!」
「……筋肉をむやみに大きくしすぎるのは……ふっ……良く、ない……ふっ……」
そして空野先輩も、岸川先生のアスリートとしての遺伝子を継いだ選手だといえる。傍についている一年生のテンションがおかしくなってきているが、これも苦しいウェイトトレーニングを乗り切るために必要なことなのだろうか。
「……海原、よそ見をしている場合ではないぞ。ちゃんとトレーナーをするために、私のお手本を見ていなければ」
「は、はい。すみません、集中します」
眼鏡の位置を整え、俺は深呼吸する。スイッチの切り替えは難しくない――俺は試験前にどんな状況にあっても集中できるようにイメージトレーニングをしたことがあるが、その時の経験が今生かされようとしている。
「うむ……では、私の筋肉のどこが動いているか、触って確かめてみてくれ。その方が、どこに効くのかを理解できるからな」
「……触ってもいいんですか?」
いつもの俺なら動揺しているところだが、スイッチを切り替えた俺ならばどうということはない。
これは先生の指導方針であり、俺がトレーナーとして一人前になるために必要なことなのだ。やましいことなど一切ない。




