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——カランカラン、カランカラン
明るい音色が喜びと共に鳴り渡る。これは赤の鐘の音。それは、戦の勝利を告げる響き。
敵軍は白旗を掲げ、剣を地に伏せた。風が吹き抜けるたび焼け焦げた布がはためき、死者の名を呼ぶように揺れる。
兵士たちは歓声を上げた。剣を掲げ、互いの肩を叩き合い、泥にまみれた顔に笑みが浮かぶ。血に濡れた手が空を指し、誰かが叫ぶ。
「我らが王太子殿下に栄光あれ!」
「聖女ヘレン様に祝福を!」
その名を聞き、僕の背筋に冷たいものが走った。まだ終わっていない。いや、むしろ、これから始まる。
戦地に現れた一人の少女。彼女は負傷した兵士たちに触れ、稀有な治癒魔法を施した。痛みが和らぎ、苦悶は消え、兵士たちは彼女を“聖女”と呼んだ。
兵士の一人が彼女を連れてきた。
「聖女様をお連れしました!」
僕は感情を抑え、ライアンに視線を向けた。彼は何も言わず、ただ頷いた。
桃色の髪を揺らす女。赤い瞳が妖しく光る。
僕は立ち上がり、彼女に視線を向ける。兵士たちの歓声が遠のき、鼓動の音だけが耳に残る。
彼女は微笑んだ。その笑みに、僕は剣を抜いた。
剣先は一直線に、彼女の胸元を貫いた。
兵士たちは息をのみ、誰一人として動けなかった。
彼女はにんまりと笑った。歪んだ笑顔。赤い瞳が黒く濁る。
「あら、いきなり酷いことするのね」
声は、痛みを愉しむような甘美な響き。口元が吊り上がる。
「お前は聖女ではない。破壊を快楽とする魔女だ。もう二度と、お前の思い通りにはさせない」
兵士たちが動揺する中、ライアンが一歩前に出た。剣の柄に添えた手は、揺るがぬ誓いをも握りしめていた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ! アンジー!! アンジーーーっ!!」
僕は机をなぎ倒し、書類を散らしながら叫んだ。胸が裂けるように痛い。耳の奥で、女の笑い声が蘇る。それは、僕の自我が砕ける音。
脳裏に浮かび上がる地獄のような光景に、僕の膝は砕け、意識が暗闇に沈みかけた。
「これ……は、なん、だ……? 夢……いや、僕の……記憶……? 僕は……僕は、アンジーを……殺……うっ……」
口を押さえ、こみ上げる吐き気をなんとか抑え込む。胃の奥に鉛の塊が沈んでいるようだった。息がうまく吸えない。視界が揺れて、床が遠くなる。
「ライアン……これは……どういうことなんだ……?」
息も絶え絶えに問いかけると、ライアンは紫紺の石が嵌められた懐中飾の蓋を静かに閉じて僕を見つめた。鋭く、深く、まるで僕の魂を見透かすような目だった。
「思い出しましたか? 今の光景は、過去に実際に起こった出来事ですよ」
その声は冷たくも、痛みを知る者の声だった。
「あなたはあの魔女に魅了され、ファルクラン公爵令嬢を……愛していたはずのアンジェリカ王妃殿下を、自らの手で殺したのです」
言葉が、刃となって僕の罪を告げる。
「嘘、だ……そんなはず…………」
否定したかった。喉が裂けるほど叫びたかった。けれど、納得せざるを得なかった。アンジェリカが変わり果て、僕を拒み、視線を合わせず、名前すら呼ばなくなった理由。あの日、彼女が錯乱した理由。
「アンジーは……あの炎を見て、過去を思い出してしまったのか……だから……だからアンジーは、あんなに僕に怯えて……」
全身が震える。喉が詰まり、言葉がうまく出てこない。
「僕が……君を……」
僕は剣を抜き、震える手で自らの喉元へと向けた。刃先が肌に触れ、冷たい感触と痛みが現実を突きつける。ライアンが素早く剣を叩き落とし、金属音が石床に響いた。
「ライアン、殺してくれ……僕には、生きる資格なんてない……」
罪の重さが、僕の背を押し潰す。僕はその場に蹲り、嗚咽を漏らした。伝う涙と血が床を染める。
「アンジー……! 僕は君を、愛していたのに……何よりも大切だったのに……! なぜ、僕は……」
記憶の中のアンジェリカの笑顔が、次第に恐怖と絶望に歪んでいく。
「殿下、死ぬのは簡単です。ですが、それでは何も守れません。あなたは命を賭して、彼女を守らねばならない」
ライアンの言葉が胸の奥に突き刺さり、僕はゆっくりと顔を上げた。
「あの魔女は、再び現れるでしょう。しかし今度こそ、何も奪わせてはならない」
僕は自分の両手を見つめた。かつて彼女を絶望へと追いやり、その命までもを奪った手。
それでも。
僕は拳を握った。震える手に、血が滲むほど力を込めた。折れそうになる心を、アンジェリカの涙で繋ぎ止める。
成すべきことはただひとつ。厄災の化身——魔女に裁きを。
ライアンが剣を構えると同時に、雷鳴が轟き、黒い亀裂が天を走った。魔女の足元から立ち昇る赤黒い霧が、兵士たちの視界を曇らせるように広がっていく。
「来るぞ!」
僕の叫びに、魔女の髪が炎のように逆巻いた。彼女の瞳は完全に血の色に染まり、首元には禍々しい紋様が浮かび上がった。
「祝福を、与えてあげる」
その囁きと共に魔女の背後から黒い影が放たれた。影は鋭い槍と伸び、数人の兵士の胸を貫いた。彼らは叫ぶ間もなく崩れ落ち、周囲は一瞬にして凍り付く。
「退避! フランク、兵を下げろ!」
「はっ!」
ライアンの号令に兵士たちが動き出すが、魔女の魔法は空間そのものを歪ませていた。地面が波打ち、空が反転し、兵士たちは方向感覚を失っていく。
僕は剣を構え、魔女に向かって駆けた。恐怖も迷いもなかった。あるのはただ、贖罪。
剣が魔女の腹を裂く。血ではなく、黒い煙が噴き出す。魔女は笑いながら後退し、指先をひと振りする。
「ほんと愚かね」
その言葉と共に、地面から無数の腕が生えた。腐敗した肉のようなそれらは兵士たちを絡め取り、叫び声が戦場に響く。
ライアンは剣を振り払い、腕を断ち切りながら叫ぶ。
「殿下、一撃の機を!」
「わかった」
僕は跳躍し、魔女の背後を取る。魔女は笑いながら振り返り、囁いた。
「無駄よ。大人しくわたしにひれ伏しなさい」
「ふざけるな! 返せ……! 大好きだった笑顔を。輝いていた瞳を。僕の名を呼ぶ声を! 僕から奪った全てを返せ!!」
「アハハハハハ! 殺したのはあなたなんでしょう? ねぇ、わたしは直接手を下さないの。だってそれじゃつまらないじゃない?」
「ああ、そうだ……僕が……僕がアンジーを殺した……! お前が僕を狂わせたからだ! だから、僕は命を賭してお前を殺す。アンジェリカの生きる世界にお前が存在することは許さない!!」
「滑稽ね。お前たちではわたしを殺せないわ」
魔女が指を動かすと、足元を這う腕に捕らわれ、肩へと黒い影の槍が突き刺さった。
「ぐっ……」
鈍い痛みに顔が歪めば、魔女の口元が愉悦の弧を描く。
「アハ……その顔、最高。もっと歪んで、もっと壊れて……ゾクゾクする」
魔女が快楽に震えた刹那、背後に断罪の閃光が奔った。ライアンの剣が魔女の首元に刻まれた紋様を寸分違わず貫いた。赤黒い霧は爆ぜるように飛散し、地を這っていた腐肉の腕も音もなく崩れ落ちた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!」
魔女は憎悪に顔を歪め、ライアンを振り返る。彼の手に握られた剣を見て、忌々しげに睨みつけた。
その剣は、白銀に輝く細身の刃。人を殺すにはあまりに繊細で、美しい装飾が施されていた。
「これは、セラティオーラに伝わる“魔を断つ剣”。俺はあの村へ赴き、長老から託された」
ライアンが告げた瞬間、魔女は最期の抵抗とばかりに影の槍を放った。黒く尖った先端が、一直線に僕に向かってくるのが見えた。
反射的に身を捻るも、躱しきれず、焼けるような痛みが両目を裂き胸を貫いた。視界は赤く染まり、世界が歪む。肺の奥まで冷たい感触が突き刺さり、呼吸が途切れる。
「かはっ……!」
膝が崩れ、地面に倒れ込む。血の味が喉に広がり、意識が遠のいていく。
「殿下っ!!」
ライアンの声が聞こえた。けれど、俺は首を振った。
「構うな……! ライアン、魔女を、討ってくれ!」
俺の命などどうでもいい。彼女の未来が大切だった。
「御意」
それを最後に、俺の視界は完全に闇に沈んだ。
——その闇の中で、微かな旋律が響いた。
幼い頃、彼女が俺に歌ってくれた唄。風のように優しくて、あたたかくて、俺の心を包んでくれた。
その声に導かれるように、俺は祈った。
どうか、彼女を守ってくれ。どうか、もう二度と、彼女があんな目に遭わないように。
ライアンの声が響いた。
「魂ごと消滅するがいい」
その宣告と共に、空気が軋み、重い圧がのしかかる。ライアンが地を蹴る音が伝わる。
「ぐがぁぁぁぁぁぁぁっ!」
魔女の断末魔。鼓膜を叩く叫びが頭蓋に響く。震える地面からは何かが砕けるような感触が伝わり、焦げた匂いと血のような熱が肌を撫でた。
世界の輪郭は書き換えられ、静けさの奥に希望の芽が息を吹き始めた。
——ゴォォォン、ゴォォォン
低く唸る音が風に乗る。これは青の塔の鐘の音。それは、処刑を告げる響き。
王国はその事実を公式に発表した。「聖女」と呼ばれた者は、神の名を騙り、民を惑わせた魔女であったと。その罪は重く、赦されることなく、魂ごと処されるに値すると。民衆の間にざわめきが走ったが、王国はそれ以上の説明を拒み、ただ、処刑の事実だけを記録に残した。
——ボォンボォン、ボォンボォン
深く重々しい音が空に広がる。これは黒の塔の鐘の音。それは、王族の死を告げる響き。
魔女との戦闘で死ぬはずだった。あの瞬間、何もかもが終わると思った。けれど、僕は奇跡のように生き延びた。
兵士たちも助かった。彼らは口々に語った。「癒しの歌が聞こえた」と。
一命はとりとめた。だが、光は戻らなかった。何も見えない僕は、王位には就けない。王族としての役目も果たせない。
だから、僕は死んだことにされた。公式には戦死。そして今、僕は死者として生きるための場所にいる。誰にも知られず、誰にも触れられず、ただ静かに息をしている。
君の瞳は、もう僕を映さない。
君の声は、もう僕を呼ばない。
君の手は、もう僕に触れない。
それでも、僕は君を愛してる。死ぬまで、ずっと。
それだけは、どうか許してほしい。
君に祈りを。
君の世界から消えた者として。
高台から望む海は、青というよりも鉛色だった。空と溶け合うようなその色は、どこまでも深く重い。冷たい潮風が吹き抜け、短くなった髪が頬を撫でる。
わたしの手に握られていたのは、長から託された箱。中に納められているのは、村に伝わる秘薬“真癒の雫”。すべてを癒やす、祈りの結晶。
箱を胸元に抱き、わたしは振り返る。遠く霞む王都の方角——かつて愛を誓い、痛みと憎しみを刻みつけられた場所。
「さよならリュシー」
わたしは箱を高く掲げ、海へと投じた。
赦しなき祈りに、報いなき復讐を。
——終——
多くの作品の中から、この物語を読んでいただき、ありがとうございました。




