四半期報告書(伝書バト)
株主募集の大成功に沸くアクアフォール。港では、最後の仕上げが進む巨大な帆船「アルゴス号」の姿に、市民たちが期待の眼差しを向けていた。出航の日が、刻一刻と近づいている。
しかし、俺の仕事はまだ終わらない。むしろ、ここからが本当の始まりだった。俺は今、一つの非常に困難な課題と格闘していた。それは、「航海事業の定期報告」の仕組みを、どうにかして盛り込むことだった。
「船長、航海の途中で、何度か寄港地に立ち寄りますよね? その際に、伝書鳥でも何でもいい、アクアフォールに簡単な進捗報告を送ることはできませんか?」
準備室で、俺はドレイク船長に詰め寄っていた。
前世で関わったインフラ事業でも、投資家への定期的な進捗報告は、信頼を維持するための生命線だった。ましてや、今回の航海は、数ヶ月、もしかしたら一年以上かかるかもしれない、先の見えない旅だ。その間、何の音沙汰もなければ、投資家たちの不安は募るばかりだろう。最悪の場合、船が沈んだという噂が流れ、会社がパニックに陥る可能性すらある。
しかし、船長の反応は、にべもなかった。
「馬鹿を言え、タナカの旦那。こっちは、海の魔物と嵐で手一杯なんだ。いちいち手紙なんぞ、書いている暇があるか。それに、航路は企業の最高機密だ。途中で誰かに情報を盗まれたらどうする」
「そこをなんとか……。簡単なものでいいんです。『現在、南緯三十度。船員一同、健康』とか、それだけで、投資家の安心感は全く違います」
「無理なもんは無理だ!」
ドレイク船長は、典型的な現場主義の職人肌だ。航海そのものに集中したい彼にとって、後方にいる投資家への報告など、余計な雑務でしかない。この意識の差を埋めるのは、想像以上に難しかった。
俺は、ゴードンや、他の出資者の代表たちも巻き込み、粘り強く交渉を続けた。
「定期報告は、あなた方投資家自身のためでもあるのです。万が一、船にトラブルが起きた場合、早期にそれを察知し、救援の準備を始めることができる」
「船長の負担にならないよう、報告は定型文のチェックシート形式にしましょう。天候、船体の状況、船員の健康状態。それに丸をつけるだけでいい」
数日間にわたる議論の末、ようやく「可能な範囲で、寄港の際に伝書鳥ギルドを通じて、定型の状況報告を送る努力をする」という、極めて玉虫色の妥協案が、約款の付属覚書に盛り込まれた。完璧とは言えないが、ゼロよりは遥かにマシだ。俺は、この「小さな一歩」を勝ち取ったことに、安堵のため息をついた。
そんな多忙な日々の中、ふと、俺の頭にある言葉がよぎった。
『壊血病』。
前世の歴史の授業で習った、大航海時代の船乗りたちを苦しめた、恐ろしい病気だ。長期の航海で、新鮮な野菜や果物が不足し、ビタミンCが欠乏することで発症する。
(この世界でも、同じことが起きるんだろうか……?)
医学の知識はないが、人間である以上、同じような栄養失調に陥る可能性は高いはずだ。念には念を入れるに越したことはない。
俺はすぐさま行動に移した。街の食料品店や漬物屋を駆け回り、大量のキャベツを買い占めた。そして、それを細かく刻み、塩と香辛料で揉み込み、大きな樽にぎゅうぎゅうに詰め込んでいった。目指すは、長期保存可能な塩漬けキャベツ――ザワークラウトだ。
「……タナカ顧問、それは一体、何を?」
俺の奇行を見て、会計担当のマーティンさんが、不思議そうに尋ねてきた。
「これは、船乗りたちの健康を守る、特別なお守りです」
完成したザワークラウトの樽を、俺はアルゴス号の食料庫へと運び込んだ。ドレイク船長は、樽の中身を見て、首を傾げた。
「なんだ、こりゃ? キャベツの塩漬けか?」
「ええ。航海の途中で、毎日少しずつ、これを食べてください。保存食ばかりでは、体に良くない。きっと、皆の健康維持に役立つはずです」
俺の真剣な説明に、船長はきょとんとしていたが、やがてニヤリと笑った。
「なんだ、酒のつまみか? ははあ、旦那も気が利くじゃねえか。まあ、もらえるもんは、もらっておくぜ」
どうやら、彼はただの酒の肴くらいにしか思っていないらしい。まあ、それでもいい。食べてくれさえすれば、結果は同じだ。俺は、その樽が、ただの「つまみ」以上の価値を持つことを、今は黙っておくことにした。
そして、いよいよ出航の前日。
最後の積み荷が運び込まれ、船員たちが家族との別れを惜しんでいる。俺は、港の突端に立ち、夕日に照らされるアルゴス号の雄大な姿を眺めていた。
定期報告の仕組み、そして、ザワークラウトの樽。
どちらも、この壮大な冒険物語の中では、些細なことかもしれない。
だが、俺は知っている。巨大なプロジェクトの成否は、しばしば、こういう地味で、目立たない「細部」への配慮にかかっているということを。
「……やれるだけのことは、やった。あとは、信じて待つだけだ」
隣には、いつものようにリリアナが立っていた。
「本当に、行っちゃうのね」
「ああ。俺たちの夢を乗せてな」
明日、この船は、未知なる大海原へと旅立つ。
それは、この街の、そして俺自身の、新たな歴史の始まりだった。
俺は、静かな興奮と、一抹の不安を胸に、船乗りたちの未来に幸多からんことを、ただただ祈っていた。




