【間話】侍女アルマ・ドレスラー
過去のお話。本編より八年ぐらい前のできごと。
人は恐ろしく単純で、ただ一面を覗き見ただけで決めつける。
たとえばそれは、容姿。
たとえばそれは、家柄。
たとえばそれは、――噂。
表面だけで決めつける人間が、アルマ・ドレスラーは大嫌いだった。
*
くすくす、といやらしい笑い声が耳にまとわりつく。
毛先から滴がぽたりと垂れた。冷たい。
当然だ。今はまだ春には程遠い冬の盛り。
頭から水を被ったアルマに追い討ちをかけるように、身を切るような風が一筋通りすぎていった。
「ごめんなさい、花瓶の水を換えようと思っただけなの。人がいるだなんて思わなくて」
ほっそりとした一輪挿しの花瓶を手にした女が、蔑みに歪めた顔で醜く笑う。
女はマノンといい、アルマと同じ、ベティーナ・ブルメンタール第二王女に仕える同僚だった。ただし、彼女の方が家格は上。第二王女に仕える侍女たちは皆、マノンには逆らえなかった。
マノンは高飛車でプライドが高く、仕える王女すら見下した節のある傲慢な女だった。高貴な血を引く伯爵家の娘で、美しい容姿を持ち、甘やかされて育った箱入り娘。きっと何をしても誰を虐げても許されてきたのだろう。
マノンのいじめにあって辞めていく同僚は後を絶たない。
マノンの標的は決まって身分の低い家柄の娘だ。ちょうど、アルマのように。
「なあに、その目は? 言いたいことがあるのなら仰って?」
「――いえ、着替えて参りますので、失礼します」
さっと身を翻す。
反応をしたら相手を喜ばせるだけだ。無反応が一番。突然の雨にでも降られたと思ってアルマはすたすたと歩いていく。
庭だったのが幸いだ。
これが廊下や室内だったら濡れた床の掃除までするはめになってしまう。そしてその失態はアルマが被ることになるのだろう。マノンの手口はよく知っている。もう半年、何人もの少女が苦しめられているのをアルマは見ていたから。
侍女として働くことになったときに宮内に与えられた部屋に向かう途中、薄く扉の開いた部屋から賑やかな話し声が聞こえた。
「いいこと、ヴィルマー。絶対にわたくしのそばを離れるんじゃないわよ」
「いや、姫。俺は姫の従者でもなんでもないからな? そりゃ途中までなら一緒にいてやれるが、向こうは姫に会いに来るんだ。俺がつきまとってたら嫌がられると思うぞ」
「だって……、どうせ、わたくしに会いに来たところで……また……」
「どうせとか言うな。上手くいかないなら、それでもいいだろ。自分を振るなんて見る目がないぐらいに思っとけ」
「そりゃあね、ヴィルマー。あなたみたいな人だったらそうも思えるでしょうけど、わたくしは……」
「いや待て。俺だってそこまでは思えないからな? それぐらいの気持ちでいろって話だ。……まあ、俺個人としては、姫を選ばなかったあの王子は見る目がないなと思うが」
「身内贔屓は結構よ……それに、ヴィルマーはあまりあの子と話したことがないからそう言えるのよ。わたくしなんかと比べれば、誰だってあの子を選ぶわ……」
「姫の身内になった覚えはないし、人柄がわかる程度には第三王女とも話したことはある。ほら、俯くと損だぞ、姫。せっかくの美人を隠すなよ」
「美人……そ、そうよね、わたくしは美しいわよね! 少なくとも一年前よりは!」
アルマが仕える主であるベティーナ王女と、彼女と仲の良い公爵令息ヴィルマー・ハルデンベルクだ。
半年前から王城に上がったアルマは、一年前のベティーナのことをあまりよく知らない。が、噂に聞く限り、ずいぶん内気で目立たない少女であったらしい。
ベティーナ王女が婚約を解消され、以来、驚くほどの変化を遂げたことは城内では有名な話だった。まるでサナギが蝶に変化したというような。
昔を知らないアルマからすれば、あんな美少女であるベティーナが内気で日陰者だったなどと信じられない。女である自分も、堂々と振る舞っている王女様に思わず見惚れてしまうというのに。
ただ、人はいろんな面を持っている。
美しいものの心が美しいとは限らず、必ずしも立派な家柄の人間が人格者だとは言えず、噂で作り上げられた人格など最も当てにならない。
――ベティーナ王女は、傲慢になった。
そう言い出したのは、一体誰なのだろう。
それが誰であるのかは分からないが、原因は知っていた。
マノンだ。
狡猾なマノンは、第二王女宮で次々と使用人が辞めていく事情を王女の我儘だと言いふらした。まるで、ベティーナ王女の癇に触れたがために辞めさせられたとでも言うように。
ベティーナ王女が何も言わないのをいいことに、日に日にその横暴な振る舞いはエスカレートしていった。
いつしか第二王女宮は、マノンを頂点にしたマノンのための城になっていた。
身分の低い者を蔑み、自分の取り巻き以外をベティーナのそばに近寄らせず、気に入らない者には嫌がらせと雑用を押し付ける。
もう、辞めてやろうかとアルマが思っていたときだった。
「あら、ねぇ、そこのあなた。湯浴みをしたいのだけど、手伝ってくれる?」
侍女と言うよりほとんど下女の仕事である窓拭きのために握っていた雑巾が、ぽろりと手から落ちた。
その日はベティーナ王女が婚約者候補と顔を合わせる日で、夕方まで部屋に戻ってこない予定だった。それが、どうしたことだろう。まだ昼を過ぎた頃だというのに、部屋の主が目の前に立っていた。いつかの自分のようにぽたり、と琥珀色の髪から水滴をしたたらせながら。
「な……何があったのですか!?」
「いえ、少し失敗してしまって……お父様に頭を冷やせと水をかけられてしまったの」
「は……陛下に……?」
いろいろと意味がわからなかった。
ベティーナ王女は今にも泣きそうな顔で必死に笑顔を取り繕っていた。こんなにも痛ましい表情の王女を見るのははじめてだ。
肩が小さく震えているのを見て、呆然としている場合ではないと我に返る。このままでは風邪を引いてしまう。
「湯浴みですね、殿下。かしこまりました」
普段、アルマや身分の低い侍女はベティーナに近づかなくてはならない仕事は回ってこない。湯浴みの手伝いや身支度の手伝い、話し相手。それらはすべてマノン派閥の侍女が担当していた。
だが、アルマは王城にあがる前から侍女の仕事をしている。湯浴みだろうと身支度の手伝いだろうと、何なら髪結いだって、一通りなんでもそつなくできた。
「ああ……温かいわ」
体を清め、なみなみと張った湯に浸かったベティーナはほうと息を吐く。
「ねえ、あなた、あまり見ない顔よね。なんという名前だったかしら」
「アルマ・ドレスラーと申します」
「そう、アルマ。今度から、あなたが湯の担当してくれないかしら。なんだかいつもより気持ちよかったわ」
「! 身に余るお言葉でございます」
「ええ、頼んだわよ、アルマ」
「はい。お任せください」
それからベティーナがアルマを湯浴み以外でも重用するようになるまでに、そう時間はかからなかった。
そして。
アルマがベティーナに侍ることが多くなった頃、マノンの城が崩れる事件が起きた。
「王女殿下! これは一体、どういうことですの!?」
床に押さえつけられたマノンが、激昂した声をあげる。そんなマノンをベティーナは冷たい目でひたと見据えていた。
「それは、わたくしの方が聞きたいわ。王女であるわたくしの髪飾りや首飾りがあなたの所持品から出て来たのは、一体どういうことなのかしら?」
完全に王女を見下していたマノンは、ベティーナの所持品を盗むことまでやっていたのだ。アルマがそれに気づいたのは、ベティーナのそばで世話をするようになってからだった。
ベティーナの装飾品が頻繁に紛失していたのだ。アルマはすぐに侍女の誰かが盗んでいる可能性があるとベティーナに知らせたが、ベティーナは困ったように微笑んで「大したものじゃないから、いいわ」と言うだけだった。
だが、今回盗まれたものは、王女にとって、笑って流せるものではなかった。
盗まれたのは、王女様の瞳とそっくり同じ色をしたブルーサファイアの首飾り。たまたまそのとき侍女としてそばにいたアルマは、それが誰から贈られたものであるか知っていた。
「ご、誤解ですわ、殿下! これは、誰かがわたくしを陥れようと――」
「誤解でも、いいわ。前からあなたのことは気に入らなかったの。ろくに仕事はしないし、お喋りはうるさいし。ちょうど良い機会だわ。さっさと辞めて、出て行ってくれる?」
ベティーナが軽く手を振ると、マノンを押さえつけていた衛兵が引きずるようにしてマノンを連れて行く。マノンは青ざめながら、最後まで自分の無罪を主張していた。
その後、マノンは二度と王宮に現れなかった。
風の噂によると、辺鄙な土地の貴族のもとへ嫁いだらしい。
それは、王女の装飾品を盗んだ事実が明るみに出ることを恐れたマノンの両親による判断だった。
そう、彼女が犯した罪は隠蔽されたのだ。
マノンは、王女の癇に触れたために辞めさせられたことになっていた。
アルマはそのことに納得がいかなかったけれど、「王女の癇に触れ辞めさせられた」というのも完全な嘘とは言えなかった。ベティーナは確かに言ったのだから。気に入らないから辞めろと。
しかもそれからのベティーナは、ほんの些細な失敗を責め立て、多数の侍女を辞めさせた。辞めさせられた侍女は全て、マノンの派閥に属し、アルマや身分の低い侍女を見下しいじめていた侍女たちだった。
こうしてマノンの城は崩れ、後には身分は低いが働き者の侍女たちと、ベティーナ王女が大量に使用人を辞めさせた事実だけが残った。
*
「どうして、あのようなことをされたのですか」
侍女に限らず大量の使用人が辞めて、すっかり第二王女宮から人の気配が薄くなった頃。アルマは一度だけ、仕える主人に訊ねた。
「あのようなことって?」
本当に何のことか分かっていないのか、きょとんと首を傾げる王女様。普段堂々としている分、ふとした瞬間の表情は幼く無垢に映った。
「姫様に悪評を残す形で、使用人たちを辞めさせたことです」
「ああ、そのこと」
王女様はティーカップを揺らして、息を吐く。
「特に深い意図はないわよ。ただ、抱えきれないものを手放しただけ。……わたくしは本当に、だめな王女よね」
「いえ、そんなことは」
「あるのよ。……これがきっとお兄様だったら、全てを御しきっていたわ。マノンなんて掌で転がしたでしょう。お姉様だったら、早い段階で見極めて切り捨てていた。ハイデマリーは……仲良くなって味方につけてしまうのでしょうね」
言葉が揺れる。
泣いているのかと思ったが、ベティーナは寂しげに笑っていた。
「……アルマ、わたしはね」
声が、小さくなる。
「あなたを手放したくなかったの」
だから、あなたが辞めてしまうような要素を排除した。
働かない侍女を、使用人を、強引に辞めさせた。
「ただ……それだけよ。本当は全部抱き込んで、その上であなたを大切にできたら一番良かったけれど」
ティーカップを置いたベティーナは、自嘲を滲ませる。
「それをして、あなたを傷つけない自信が、わたくしにはなかったから」
アルマは、すぐには言葉を返せなかった。
今までアルマはそれなりの敬意をもって、ベティーナに仕えてきた。
……そう、それなりだ。王女という地位に払うべき最低限の敬意しか持ち合わせていなかった、というのが正直なところだ。
それは、この王女様がアルマに向ける気持ちとは比べるべくもないほど薄く軽いものだ。
だが。
「――身に余るお言葉でございます。姫様」
静かな空間で、アルマはそっと膝をついて、心から言った。
なんて不器用だろうかと、アルマは思う。
このお姫様は、なんて不器用に手を伸ばしてくるのかと。
その不器用でまっすぐな心が向けられることを嬉しく思ってしまったアルマに、その手は決して振り払えない。
「これからも」と、ベティーナの小さな手を、柔らかく握る。
「どうぞおそばに置いて下さいませ」
「……ええ」
王女殿下は、か細い声で一度頷き。
それからゆっくりと頭を持ち上げて、アルマの目をまっすぐ見た。
「そのつもりよ」
そこにあったのは、実に王女らしい、誇り高く美しい微笑だった。
*
――人々は、ベティーナ第二王女のことを、こう噂する。
傲慢で我儘で癇癪持ちの、お姫様。
あまりの性格の悪さに、婚約も破棄された。
自分勝手で贅沢好き、国のことなんて少しも考えていない。
王族失格――――。
人は、なんて単純なのだろう。
噂を疑いもせず、真実を見ようともしない。
だからアルマは、噂を鵜呑みにして決めつける人間が、大嫌いだ。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ストックがないので、一旦ここで更新ストップさせて頂きます。




