10
店を出るフリッツの背を見送ったベティーナは、静かに食事を再開した。何事もなかったかのように涼しい顔で。
けれど、すぐにその手は止まり、そっと顔をあげこちらを見た。
「……ヴィルマー」
「どうした、姫? 嫌いなものでも入ってたか?」
そんなわけがないと分かっていながら茶化すような声をかけた。返ってきたのは、沈んだ声。
「わたくし……余計なことを言ったかしら」
彼女は、我儘で傲慢な王女に不似合いな、自信のない少女の顔をしていた。
どれだけ外見が変わろうと、振る舞いが変わろうと、ベティーナのこういう不器用なところは変わらない。
「……まあ、余計と言えば余計だな」
「う、やっぱり……?」
ヴィルマーとベティーナは、フリッツとエミリアのことに関して、完全に部外者だ。当事者である彼らがどんな気持ちを抱き、行動しているのか、何も知らない。彼らに起きた出来事も、抱える問題も、完全に理解しているとは言い難い。だからこそ何だって好き勝手言える。それが、部外者だ。
「だが、まあ、良いんじゃないか。変化を迎えるきっかけにはなる。どう転ぶかはそいつら次第だ。……姫は、エミリアの味方になりたかっただけだろ?」
味方の居なかった幼い頃の自分に手を差しのばすように。
悪意があってフリッツに冷たい言葉をかけたのではないと、分かっている。きっと、フリッツも。
小さく頷きながら、俯くベティーナは考えているに違いない。何がエミリアのためになるのか。どうしたら傷つけてしまったフリッツへの詫びになるのか。
――だが、そう俯いていては何も見えないだろうに。
ヴィルマーは小さく息を吐き出して席を立つ。
「――姫。少し、フリッツの様子を見てくる。こっちは頼んだ」
「へ? こっち、って――エミリア!? あなた随分静かに泣くのね!?」
顔を上げ、ヴィルマーの視線を追って隣を見たベティーナはぎょっとして、あたふたとハンカチを取り出す。
フリッツが出て行ってから、エミリアはずっと涙をこぼしていた。隣にいるベティーナが気づかないほど、とても、静かに。
それは、泣いて叫くことが無駄だと知っている子供の泣き方だった。
***
――涙は、嫌いだ。
泣けば泣くほどに、自分が弱く脆くなっていく気がした。
泣きたくない。強くありたい。
そう思うのに、エミリアの目は辛いことがあるたびに雫を生み出す。ぼろぼろと際限なく瞳からこぼれ落ちていく。
父に温度のない表情を向けられるたび。
母の死を思い返すたび。
義母や義姉の意地悪に疲れるたび。
エミリアの瞳は、涙でいっぱいになった。
泣くことが無意味であると知っているのに、エミリアは涙を落とす。
まるで、それしか表現を知らない赤子のようだ。
赤子と違うのは、その涙をすくってくれる手がないこと。
泣いても父はこちらを見ない。
母のぬくもりは戻って来ない。
義母や義姉たちは怒るだけ。
分かっている。
涙など、流すだけ無駄なものだということは。
母のようにありたかった。
父に顧みられずとも、泰然と微笑んでいた母のように、強く。
そうであれればきっと、大切な幼馴染に心配をかけることもないのに。
あんなふうに傷つけてしまうことも、ないのに。
「――もう、ちょっと、いつまで泣くのよあなた!? ここに新たな湖でもつくる気!?」
慌てるような、困り果てたような、そんな声を聞いて、エミリアは我に返った。
涙で歪む視界には、柳眉を下げた美しい王女様の姿が見えた。その手には白絹の上等なハンカチが握られていて、こするようにエミリアの目元に当てられる。
「王女、様……?」
ベティーナ・ブルメンタール第二王女。雲上人であるはずのその人は、エミリアの涙を必死に、不慣れな手つきで拭っていた。
その事実に一瞬、意識がまた遠くへ行きかけ、エミリアは慌てて引き戻した。
「も――申し訳ございません!」
慌てて頭を下げる。
お姫様の前で泣き、あまつさえその涙を拭ってもらうなど、不敬、無礼というものだ。そもそもこうして一緒に食事の席に着くことからして、褒められたことではない。
「ちょっと、またそれ? 泣きやんだんなら何でもいいけれど、わたくしあんまり卑屈に謝られるのって好きではないのよね。暗くて」
ほら、顔を上げなさい。王女様はその美しい顔に似合いの美しい声で、エミリアに促す。
エミリアは彼女の言葉に素直に従い、顔を上げた。断るのもまた不敬だと恐れたからだ。
目があった王女様は、ふっと不敵に魅力的に笑う。
「謝るよりも、感謝なさい。このわたくしに涙をすくいとられたことを、有難き幸せと感謝し、涙にむせ――ぶのはいいわ。泣かれると困るもの。とにかく、ほら、わたくしが慰めて差し上げるのだから、喜びなさい。笑えない者に、幸福は訪れないわ」
高飛車な物言いは、けれど、相手を蔑むものではない。
ずっと、そうだ。
彼女は物言いこそ不遜でも、そこに冷たい感情は見られない。見えるのは、思いやりと呼ぶような温かな優しさだ。
一体、誰が彼女のことを我儘で自分勝手な王女だと言ったのか。
ベティーナ第二王女の評判はエミリアも知っていた。
彼女の癇に触れてちょっとしたことで使用人が大量にやめさせられただとか、贅を尽くした宝飾品を買い集め国庫を圧迫しているだとか、常に他人を見下す性悪だとか、とにかく悪評ばかりが彼女にはつきまとう。
だが、実際にこうして王女と話をすれば、その評判がいかに当てにならないかがよく分かる。
彼女はきっと強い人だ。
母と同じように強い人。周囲の言葉や態度になんて、惑わされない。涙よりも笑顔を見せることのできる強さを持つ人だ。
とても、眩しいと思った。




