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21:旅立ちの朝


 あれからオレは、すぐにベッドに倒れ込んで、知らない間に眠っていた。ものすごく内容の濃い夜を過ごしたので、疲れが限界に達していたようだ。

 いつの間にか辺りは真っ白に少しだけ水色が入ったような光が降り注いでいる。カーテンを空け、朝の空気を吸い込む。まだまだ冷たい空気が喉を刺す。向かいの梓の部屋の窓はもうすでに開いていて、淡い色のカーテンが風でときどきひらひらと波を立てている。植木の上にはちょこんと朝露が座っていて、虫が草を蹴るたびに柔らかい地面へとダイブする。

 いつもどおりの朝だが、今日はなんだか柄にもなくしんみりしてくる。いつもの日常が特別な風景に見えてくる。3月1日。卒業の日。


 暖冬の影響で、本州に今年最初の桜が咲いたとニュースでやっている。とてもじゃないがそんな暖かさなんてまだほとんど感じられないし、桜だってこんな寒い中起きたくもないだろうに。そして俺も。布団が恋人である。あと五分だけ寝ていたいなぁなんて思って、ついつい二度寝をしてしまった。そんなだから朝起きたら時計は八時半を指していた。思い切り寝坊である。


 カーテンがひらひらと春の風で揺れている。その隙間から、朝日が煌きらびやかに降り注ぎ、オレの体を優しく照らしている。優しい朝日に包まれながら、寝不足で頭がぐわんぐわんしているオレは、いつもの何倍もの早さで制服を着た。カバンの中には何も入れなくていいのに、なぜか大量に教科書を詰め込んで部屋を飛び出そうとし、それに気付いて部屋の前に中身を全部出して、空のカバンで部屋を出た。


 もつれる足で必死に階段を降り、下の階につくと、いつもは置いてあるはずの朝ごはんが今日は置いていなかった。というか、食卓の上になんにもない。もしかして昨日のことで作ってもらえなかったのかもしれない。


「母さん! なんで起こしてくれんかったんや! しかも朝ごはんも無いし!」


 台所で食器洗いをしていた母さんも寝不足のようで、いっそう老けて見えた。見えただけである。これを本人の目の前で言ってしまうとあとで大変な事になるので、あえて心の中で呟いておく。


「えっ!? あんたまだ家にいたの!? もうとっくに学校に行ってるのかと思ってた!」


 母さんは持っていた皿をアニメみたいに床に落としかけたが、なんとかナイスキャッチしてひとつため息をついた。ていうか、さすがに起こしに来るとか様子見に来るとかするでしょう普通は。しかも自分はしっかり化粧してスーツまで着てるし。張り切っちゃってメインの俺を忘れていたのだろうか。


「もう……何か作らないと……あんたって子はぁ」


 母さんがタオルで手を拭きながら、冷蔵庫をごそごそと探った。何のんきなことを言ってるんだとツッコみたくなりそうになったが、ぐっとこらえて軽く答えた。


「あ、いいよ。いいよ。あと10分で学校に着かないと行けないから!」

「10分? もう、あんたって子は!」


 昨日から何回聞いたんだこの台詞。言わせてしまっているのは俺だけど。


「うん。だから、帰ってからなんか適当につまんどくよ」

「そう……じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい」

「おぅ」


 俺は短く朝の挨拶を済ませると玄関まで走って、お気に入りのスニーカーのかかとを潰すようにして履いた。意外と高かったんだけど、この際仕方がない。勢いよくドアを開けると、その勢いのまま、自転車置き場まで走った。自転車置き場につくと、自転車の籠に目がいった。


 あ、忘れてた。


 綺麗なオレンジ色の花弁が、朝露に濡れてキラキラしていた。このカリフォルニア・ポピーをこのまま学校まで持っていくのは流石にちょっと恥ずかしい。そのままで行くわけにはいかないと思い、鉢を抱えて玄関まで引き返した。


「母さん! これっ!」

「えっ、何? 忘れ物?」

「違うよ、これ」


 鉢を無理やり母さんに差し出すが、何が起こっているのか理解できていない母さんはキョトンとした顔でとりあえず受け取ってくれた。


「これ何? どうしたの?」

「まぁ……細かい事はいいから! とりあえず、どっか置いといて!!」

「……分かった」

「んじゃ!」

「行ってらっしゃい……」


 自転車置き場まで帰ってきた俺は、とにかく急いで自転車にまたがり、ばっちり充電した携帯電話で、残り時間を確認した。あと……四分二十七秒か。今までの最高が四分一六秒だから、まぁ大丈夫だろう。死ぬ気で漕げばなんとかなりそうだ。なんだかよくわからない希望で胸をいっぱいにし、学校に向かう。いつも通る道。昨日も梓と通った道。昨日通ったこの道は梓と何度も一緒に通ったことがある。でもそれを堪能するほどの余裕は今はない。


 駅、踏切、公園、見慣れた標識に見慣れた看板。それらがいつもの3倍速でぐんぐん流れていく。太ももが徐々に重たくなり始めた。それと同時に心臓の方もどんどん鼓動が早くなっていく。頬を優しく触るようないつもの風は、今日に限ってひっぱたきに来ている。ひどい、俺が何をしたというのだ。……遅刻をしたというのだ。はい、反省します。CD屋さんの前を通り抜ける。


 あっ、ウォークマン忘れた。引っ越し屋のトラックとすれ違いながらそれを思い出すと、なんだか少し気分が落ちた。それにさっき、母さんにプレゼントだとかそんな風にして渡しておけばよかったかなと一瞬考えたが、俺のキャラじゃないのでやっぱ良いかと開き直った。そんな事を考えながら、それはそれは必死で自転車をこぐと、目の前に見慣れた校舎が見えてきた。いつもの道を踏みしめるように思い出に浸っている時間はたったの4分間だけだった。


「よっしゃ、ラストスパート!!」


 オレは今まで出した事ないくらいのスピードで校門をくぐり抜けた。校門前の体育教師もびっくりしたようだ。遠くの方で怒鳴り声が聞こえてきたような気がするが何を言っているのかわからないまま自転車置き場に突っ込んだ。


 ……よっ、しゃ、……ギリ、ギリ……セー、フ……。


 心臓がバクバクと言うか、張り裂けそうと言うか、なんというか死ぬかと思った。この時ばかりは本当に死ぬかと思った。冷たい風が心臓に直接ダメージを食らわせてきた。変なところからヒュウヒュウ音がしている。喉の渇きを癒そうとして無限に湧き出てくる唾液を必死で飲み込みながら靴箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替える。と同時に、正面にある時計で時間を調べた。


「始業のチャイムまであと……一分切った!? やばっ!!」


 とにかく急ごうと靴箱の前にカバンを置き去りにし、腕をしっかり振って必死で階段を上った。三年A組と書かれたプレートを見つけ、悲鳴を上げている足の筋肉に最後の力を振り絞らせ、野球部並のスライディングで教室まで突入した。


「よっしゃ!! セーフ!! ……って、あれ??」

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