19:ダンボール
自転車でゆっくりと、時には蛇行運転しながら梓の家へと向かっていく。誰もいない商店街に、自転車が緩い風を吹かせる。帰り道にある散髪屋の時計は、二時五十六分を指していた。
自転車の籠には、梓がさっきもらったカリフォルニア・ポピーが乗せてある。そして背中には、疲れたせいか、俺の背中にすがるようにして眠る、梓がいる。ついに寝てしまったか。落としたら大惨事になる。蛇行運転を辞めて、スピードも多少上げて、安全に送り届けよう。一瞬も気が抜けない状況が、ここにはある。
あと数分で梓の家に着くであろうと言う時に、自転車が石につまずいてしまい、ガタッと言う音と共に、自転車はほんの一瞬、宙に浮いた。俺の顔はきっとジェットコースターで急降下する時くらい青ざめていたことだろう。そしてある異変に気付いた。二人乗りの最中に眠ってしまって力の入ってないはずの梓の腕が、さっきの反動のせいか、俺の胴に巻きついている。しだいに力の入ってないはずの腕に力が入りだし、梓の意識が戻ったのだとすぐに分かると、さらに気が抜けないなと、ペダルを漕ぐ脚にも力が入る。
「……くない……」
「ごめんごめん。起こしちゃったな」
寝ぼけているのだろう。なんて言ったのかわからないくらい小さな声で何かを口にした。変な夢でも見ていなければ良いのだが。
「もうすぐだからな。もうちょっと寝てても大丈夫だから」
「うん……」
しだいに梓の家の近くのあの銀杏の公園が見えてきた。巨大岩が存在感を示している。あの巨大岩から始まったんだな、昨日から今日にかけての大冒険。いや、大冒険と言うには規模が小さすぎるが、まあ良しとしよう。
「ほら、あそこに公園あるから。もうちょっとだからな」
遠くの方でバイクが走っている。その爆音は静かな住宅街を激しく走り抜ける。こんな夜中に走らなくても。とは思うものの、今の俺も同じようなことをしていることに気付く。
「あのさ……」
梓が何か言ったのは分かったが、バイクの爆音のせいで、何を言ったのかは全く分からなかった。
「ん? どした?」
「やっぱなんでもない」
「そっか」
なんとなく聞かない方がいい気がして、軽く下唇を噛むようにして聞くのをやめておいた。沈黙が続いてしまうのは分かっていたが、梓の家が徐々に見えてきたので、そこは我慢する事にした。相変わらず梓は俺の背中に抱きついてるし、籠の中にはカリフォルニア・ポピーの鉢が揺れでカタカタ言っている。そのまままっすぐ梓の家までたどり着いた。夜中の二人きりの自転車ドライブがここで終わってしまった。終わってしまったんだ。
「なんか色々とわがまま言ってごめんね。あ、これ……ありがとね!」
梓が羽織っていた学ランを俺に返してくれた。やっと寒いという感覚に気付いた。カッターシャツでは三月の夜中の冷たい風は根本的に防げないのだ。ぶるっと一瞬だけ震え、急いで学ランを着直した。
「いやいや、いいよいいよ。早く寝ないと、明日起きれんよ!」
家の明かりはとっくに消えて、静まりかえっている。こんな時間に帰ってきても誰も出ないと思ったが、しばらくすると玄関の明かりがつき、中から梓の母さんが飛び出てきた。
「遅すぎっ! どこ行ってたの! 心配したんだから! 明日卒業式だよ!? それにーー」
梓の母さんは、心配と安心を合わせたような言い方で叱った。
「ごめんなさい……」
「メールとか電話とかしたのに、なんで出ないの?」
「えっ……あ、ホントだ。ごめん。気づかなかった……」
「本当にもう……まぁ、生きてて良かったわ。お母さんこれでやっと安心して寝られる。潤くん、ありがとうね、わざわざ見つけてくれたんだよね。本当にありがとう。助かりました。ほら、梓も早く謝りなさい」
あまりにも梓の母さんが安堵していたので、ちょっと誇らしげに胸を張った。こんな事別に偉くもなんともないけど、単に格好つけたかったんだ。
「いえいえ。僕なんかただ探しに行っただけで、何もしてないですから」
ちょっとニヤけながら梓と梓のお母さんによる会話を聞いていると、なんだか分からないが、さっき駅前に行くときに梓の家に寄った時と何かが変わっているのを感じた。梓のお母さんの顔の横から玄関先を見てみる。それで異変に気付いた。玄関の奥には、段ボール箱が大量に積み上げられていたのだ。
「あの、その段ボール箱は……」
「あぁこれ? これね、実は――」
その時、梓が間髪入れずに話に割り込んできた。
「あーあーえーあのさぁ、そろそろ寝ないと! ねっ! ねっ! お母さん!」
梓は大袈裟に言いながら家の中に入っていった。梓のお母さんとオレは、ただただポカーンとして、立ちすくんだ。明らかに反応がおかしい。何か隠しているのだろう。中身は俺に見せられないものだろうか。だったらなんでわざわざ玄関先に出してくるのか。しかもひとつやふたつではない。梓のリアクションの大きさに怪しさが増す。
「もう、本当に……あ、潤くんごめんねこんな遅くまで。お母さんによろしく言っておいてね!」
「あっ、はい。それじゃあ……おやすみなさい」
扉が静かに閉まった。今置かれた状況にしっくりこなかったが、もう帰ることしか選択肢がないため、ひとまず自転車に乗って帰ることにした。 門の前で止められている自転車に股がると、目の前にオレンジ色が広がった。表札の明かりで照らされた、カリフォルニア・ポピーだ。梓を家に返すことに集中していて忘れてた。
「ちょっとこれ、早く返さないと!」
急いで梓の家のベルを押した。押して気付いたが、これけっこう近所迷惑だったかもしれない。しまったと思った。静寂の住宅街に、単純な音色だがよく響く音が伝わっていく。
「潤! 帰ったんじゃなかったの?」
「梓、これ忘れてる」
自転車の籠にずっと乗っていたカリフォルニア・ポピーの鉢を、わざと強調するように差し出した。花も若干疲れたように頭を垂れている。
「あっ、ごめんごめん。すっかり忘れてたよ。そこに置いておいてくれたら良いから! ごめん、よろしく!」
俺がその鉢を玄関の横に置こうと腰を屈かがめたその時。
「あっ、ちょっとまってちょっとまって! やっぱりそれ、潤にあげるよ。ほら、潤のお母さんが庭にたくさん花育ててるじゃん! その中に入れてあげてよ!」
「いや、でも……」
さすがにあんなに思いを込められた他人から他人へのプレゼントをいきなり自分が受け取る訳にはいかない。なんだかこの先ずっとこの花を見る目が変わってしまいそうだ。
「いいからいいから! それに……持っててもらいたいから」
持っててもらいたい? どう言う事だ?
「……なんで?」
しかし梓は何も言わなかった。




