幕開け
その日は、酷い雨だった。厚く黒い雲からは、呆れるほどの粒が降り注いでいた。寒さの厳しい中で、体力も奪われてゆく。レナードは、事前に決めた合図で仲間を呼び寄せた。
此処は、王都の外れにある森。作戦開始までこの場所で待機することになっているが、この雨ではデイモン達も動きづらいだろう、とレナードは見積もった。
「今は大丈夫そうだ。少し休もう。気を張り続けるのも、余計な体力を使う」
騎士団の大半は、国王の護衛のために街中に配置されている。たとえこの場所に気付かれたとしても、少数の騎士などは大した脅威ではないという判断の上だった。
「……緊張するな。隊長たちは、うまくやっているだろうか」
こう言ったのは、ブライアンである。セオドアが真面目な顔で、
「既にやられちゃってたりね……」
「洒落にならないことを言うのは止めてくれ。作戦以前の問題じゃないか」
レナードはセオドアを少し咎めると、広場の方角を見た。警戒が厳しくなるであろうと考えられる半月ほど前から、デイモンは数人の魔導士と共に王都に潜伏していた。王が民衆の前に姿を現した瞬間、宣戦布告する手筈だ。一番危険な役割と言っていい。
そして騎士を集中させたところを、裏から直接国王を叩く。大きすぎる戦力差を埋めるための苦肉の策だった。
レナード達の使命は、戦力を最大限こちらに引きつけ、可能な限りを斃すこと。内部で孤立しているデイモン達の脱出を助ける班を補助し、退路を切り拓くこと。
端的に言えば、陽動が目的だ。機会を窺って派手な行動を起こせばいい。いざとなっても戦線の離脱は容易い。――若い者の命を優先する、というデイモンの方針がそうさせたのだった。
「……はあ。とうとう、レナードにまで先を越されてしまったんだよな」
小さく呟いたブライアンに、デリクが「何がだ」と尋ねる。
「嫁さんさ」
場が少し和む。皆で小さく笑うと、セオドアがレナードを茶化した。
「しかし、隊長と君のあの大喧嘩。見ているこっちがひやひやしたよ」
怒り心頭でフェリシアと引き剥がそうとするデイモンを制止したのは、予想外にも周りの魔導士達だった。レジスタンスの発足当時からの仲間達は、当然レナードの素性を知っていた。知った上で、レナードを擁護してくれていたのだ。
――それも、その気になればリブラも替えの子供を用意するだろう、という話ありきではあったのだが。
「あんなに、親父に拒まれるとは思わなかったけどな」
それ以降、必要以上にデイモンと会話していなかった。作戦の話し合いでさえ、デイモンは極めて事務的な態度をし続けていたのだ。
寂しげに笑うと、デリクが苦い顔をする。
「デイモンは意地を張ってるだけだ。終わったら、仲直りするといい」
違うな、とレナードは思った。唯一の家族に認められないと言うことが、これ程までに苦しいことだとは――軽蔑するようなデイモンの顔が浮かんで、レナードは俯く。
「お前は、リブラの力が消えても良いと思っているんだな。その身勝手さは、流石人間様だ」
デイモンがそういったときは、全身の血が頭に上る感覚に陥った。
だが、それ以上何も言い返せなかった。そして、理解した。
レナードは、魔導士が人間と同じ場所で、何の差別も無く生きられることを望んでいたし、デイモンの望みもそうだと信じて疑っていなかった。
だが、違ったのだ。デイモンは、飽くまでも、魔導士の幸せを願っているのだと、気付いてしまったのだ。
それが途方もなく大きな壁に感じて、レナードからも話しかけることが減っていった。
「皆には感謝してるんだ。俺が人間だったと知っても、仲間として扱ってくれて」
一件以来、レナードの素性はレジスタンスの中で周知の事実となった。古株の魔導士達へ完璧に箝口令を敷いていたデイモンも、流石に隠し通せなくなったと判断したらしかった。
「なに。魔導士の為に戦ってくれているお前さんを疎む理由は無いさ」
ブライアンの言葉に、レナードは温かな気持ちになった。無二の親友にそう言ってもらえるのが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。雨が濡らした額を強く拭うと、レナードは改めて決意する。
「頑張ろうな。魔導士が不自由なく暮らせる国を、俺達で作るんだ」
全員で、力強く頷いた。
全ては、魔導士の未来のため。
――魔導士と人間が、当然のように共存できる未来を。
異変は、突如として訪れる。大粒の雨のなかで立ち上る煙が、行動開始の契機となった。
雄叫びと共に、セオドアやデリクの魔法が発動する。轟音に対し、続々と騎士達の集団がやってくるのが見えた。
――そう、それでいい。
セオドアの放った氷の柱が次々に敵を貫いてゆく。デリクは次々に形を変える金属の塊を、時には刃、時には槌のように操り敵を蹂躙していった。二人の人智を超える能力を以て、一切の追撃を許さない。
魔力を有しないレナードとブライアンは、剣を片手に敵陣に飛び込んでいた。数十人に囲まれようと、一人ずつ冷静に対処してゆけばいい。背中を合わせた二人は、互いの背中を頼りに、如何に自身が優れた戦士であるかを誇示するように剣を振るい続けた。殲滅力ではセオドアやデリクに数倍は劣るものの、その刀身は着実に敵の血を吸ってゆく。
徐々に減る騎士達の数に、やれるという確信を強めていた。周りを見渡して、大通りの方角を向いた。と、背中に違和感を覚えて、思わず振り返った。
「――レナード!」
セオドアの声と共に、一瞬で全ての温度を失い倒れた騎士の姿が目に映った。
「助かった!」
すかさず飛びかかってくる騎士を蹴り上げ、身体ごと剣を一回転。それが、最後だった。
僅かに上がる息を整えながら、レナードは正面を見た。折り重なる騎士達の骸の奥に、大通りへ続く道がある。
やれる、と確信した。必ず成し遂げられる。それだけの力が我々にはある。そう確信を強めながら、デイモン達の退路を切り拓くため走った。
仲間達の位置はすぐに把握できた。激しい戦闘の痕が、少し前まで起こった出来事を克明に語っているのだ。家々が建ち並ぶ街は複雑な構造で、普段であれば迷いそうなものだが、狭い路地を難なく進むことができた。
「オズワルド」
デイモンと年齢の近い、歴戦の男の背中。近寄って声を掛けると、男は魔導を放たんと手をレナードに向けながら振り向いた。
「物騒だな」
レナードは、反射的に身を捩っていた。そんな様子が可笑しかったのか、オズワルドはふっと片頬で笑って見せた。
「……お前達か。全員無事、順調のようだ」
オズワルドは、レナード達に手招きをした。発見され辛い路地裏に入って、建物に身を隠しながら元の道を見張る。
「主導者が優秀なのさ」
ブライアンが、からかうように言った。ふと、レナードはオズワルドの他に行動している仲間がいないことに気がついた。
「他の連中はどうした?」
「斥候だ。当初の想定より、合流に些か時間が掛かりすぎている。それぞれに、デイモン達の様子を偵察に行ってもらった」
厚い雲と雨で分かりづらいが、既に夕日が沈もうとしている頃だろう。圧倒的に兵力に差がある魔導士達にとって、長引けば長引くほど不利になる。魔導士は圧倒的な力を振るうと言っても、体力が尽きれば万策も尽きる。そのときこそ、大きな兵力の差を以て叩き潰されることだろう。それ故、短期で事を終えるつもりだったのである。
――しかし、実際はどうだ。国王の首を取ったのなら、守るべき主を失った騎士団の指揮に綻びが見られて良いはずなのだ。だが、不気味なほど変化が感じられない。そして、それが失敗に終わったとしても、深追いはしないと決めていた。次の機会を待つと。最悪でも、騎士団を疲弊させるという目的さえ果たせれば良いはずだ。
「オ、ズ」
不意に、掠れるような声が聞こえる。仲間の魔導士が戻ってきたのだ。ずる、と身体を引きずるような歩き方で、路地裏の壁にもたれ掛かるようにこちらへとやってくる。血が、太股から止めどなく流れていた。
「……この怪我は」
駆け寄ったオズワルドは、傷口を確認する。矢だ。それも、一本や二本では無い。
「多分、毒だ……。身体が痺れて敵わん。他の二人は……斃れた」
オズワルドの顔が悲しみに歪む。振り払うように首を振ると、手巾を手渡し「歯、食い縛れ」と噛み込ませた。一気に仲間から矢を引き抜き、とりあえずの処置をする。未だ動ける状態であって欲しいが、本当に毒の類いが使われているのなら、果たしていつまで持つか。
弓兵が一番厄介だな、とレナードは内心で舌を打った。死角から攻撃されれば防ぎようがなく、市街地であるが故に高低差も付けやすい。より高い場所を奪えば、より有利になるのは戦争の法則ではないか。ここも何時見つかるか分からない。分かっていた事ではあるが、視界を遮るものが何も無い街の外とは勝手が違う。
「……デイモン達もやられている可能性があるな」
オズワルドが、残酷な言葉を呟いた。
「いや。それならば、もう少し騒ぎになるはずだ。俺達が親父の班のいる場所まで突破しようとしてくるのは向こうも予測しているだろう。こちらに負けを悟らせた方が被害は少ないはずだ」
言いながら、レナードは頭の中で計算する自分に嫌気が差していた。戦場で足が竦むかもしれないと見積もっていたが、そんな事は全くなかった。寧ろ、平常時以上に損得の勘定で頭がよく動く。
「俺達はこのまま行動を続けよう。どこかから屋根に登れば、少しは安全に動けるはずだ。親父達を探す」
直接挑んでくる騎士は切り捨てれば良い。敵よりも高い場所に居れば、矢を受けづらくなる。仮に狙われても、重力のお陰でその勢いは確実に落ちる。
レナードの指示で、ブライアン達は頷いた。
「――なあ、オズ。お前もレナード達と行けよ。行くにしろ退くにしろ、足手纏いがいるとお前達まで巻き込みかねない」
ルイスのような手当ができる者は、レナードが待機していた場所よりも更に後方で待機している。助けを呼ぶにも連れて行くにも苦しい状況だろう。
レナードの内では、迷うまでもなかった。自分でもぎょっとするほど、切り捨てるべきだという判断を躊躇なく下すことができていた。だが、この男――オズワルドは如何だろうか。
試すような視線を送っていたレナードの目には、力強く首を横に振る男がいた。
「そんなこと、できるはずないだろう。あいつらも、浮かばれねえよ……。戻ろう。レナード、頼んだぞ」
オズワルドの弱々しい言葉に、レナードは小さく頷いた。
体力に一番懸念があるのはセオドアだった。魔力は魔導士の中でも恵まれた方であったが、それを操る身体の方は然程強くもなかった。雨が体温も視界も、足元の感覚さえも奪う中、どこまでやれるだろうか。
屋根伝いに中央通りを目指しながら、セオドアが遅れずついてこられるか、足を滑らせないかに神経を張り巡らしていた。
「落ちるなよ」
「はは……ここで死ぬのはやだなあ」
踏み外せば待つのは死だ。この高さで落ちれば、先ず助かるまい。たとえ九死に一生を得たとしても、捕虜にされて拷問死が妥当なところだ。
「妻が。マリアが恋しいよ。レナードも、そろそろフェリシアに会いたいだろう」
敵に見つかることよりも、敵地の中心で気力が尽きることの方が怖いのだろう。努めて明るく振る舞うセオドアに、レナードも調子を合わせた。
「……今退いたら、絶対に怒られるな」
「お前達、惚気話も良いが」
デリクが会話を遮る。目を凝らすと、魔導士を探しているのであろう、頻りに頭を動かして何者も見落とさないという意思を感じた。
「――まだ仲間が居るはずだ! 確実に捕らえろ!」
まだ、という言葉に全員の顔が強ばった。身を屈めながら、情報を見落とすまいと全神経を集中させる。
「なあ、レナード。あっちの方角……」
かなり抑えた声のブライアンが指す方角を見れば、妙に騎士が多い地点が見えた。屈んだままの体勢でレナードが手で合図して、慎重に慎重に進んでゆく。やっとの事でたどり着いたとき、レナードは思わず目を疑った。
仲間の一人が剣を向けられたまま自由を奪われている。
――捕らえられているのだ。未知数の魔導士を恐れるように、一人を相手にしているとは思えないほどの数の弓兵が、弓に矢をつがえたままその一点を狙っていた。
それは、デイモンが連れた、レジスタンスでも指折りの実力者。何故彼が。ブライアンの動揺が、声になって漏れ出した。
――つまり、騎士達が探しているのは、デイモン達で間違いない。手に汗がじんわりと滲んでいた。
父親であるあの男が一番冷静を欠くとき。それは、仲間に危害が及ぶときだった。まずいな、とレナードは唇を噛んだ。見境なく敵陣に飛び込まれれば、こちらもやりづらくなる。
「助けに行こう、レナード。僕達が暴れれば、隊長たちは多少動きやすくなる」
セオドアが言った。――正直なところ、嫌な予感がしている。だが、今は迷っている場合ではなかった。
デイモン達が動きやすくして、全員の脱出を容易にするしかない。
「――行こう」
剣を抜くと、決意と共に走り出した。
酷い乱闘が始まった。段々切れ味の鈍る剣が、その壮絶さをありありと語っていた。
「はあっ、はあ……」
斃しても斃しても、次はやってくる。ブライアンの顔にも疲れが見えた。一番神経を使うのは、如何に矢を掻い潜るかだった。一斉に伏せていた地点から放出される大量の矢は、セオドアやデリクが食い止めていた。そちらに手いっぱいで、中々決定打を与えられない。
――デイモン達は、どうなったのだろう。
そう思ったとき、怒声が響いた。
「レナード達、そこだな!」
デイモンだ。レナードは、大きな声を張り上げる。
「おおっ!」
声のする方向へ、じわじわと移動する。邪魔な敵は全て斬った。道の敵を全て倒しきれば、そこには仲間を背負ったまま剣を振るうデイモンの姿があった。他の仲間達も、圧倒的な魔導の力で押し退けると、レナード達の方へ駆け寄ってくる。
「――助かった。お前らだけか」
背中を合わせると、次の集団がレナード達へ、通路の両端から挟むように迫っていた。完全に包囲されている。
「……ああ。国王はどうなった」
「逃がした。どちらにせよ、今は退くぞ。……フェリシアちゃんが待ってるんだろ」
デイモンに頷くと、退路を開くため剣を構えた。
「孫の顔を見るまでは、死ねねえからよ」
レナードは、思わず耳を疑う。デイモンを見ると、少し恥ずかしそうに笑った。
「……俺が、リブラの血を汚すわけにはいかんのだろう?」
「まあ……その、そうだけどよ。けっ、忘れろ」
振ったのは親父だろう、と文句を言う気持ちを抑えた。疲れの溜まった身体に、少し暖かさを感じる。
――退路を、探さねば。
と、ここまで下るのに使った、建物の壁に沿う階段の存在を思い出す。
「上だ。このままここで戦っても、体力が切れてやられるのが先だ」
レナードは、仲間にだけ聞こえる声で右を見ろ、と言った。脱出にはあれを使うしかない。一度に数人しか登れないが、それは敵も同じ事。うまくやれば、撒けるだろう。
デイモンが抱えていた負傷者はデリクが引き継いだ。そのまま最後尾を買って出たデイモンに背後を任せながら、一人ずつ階段を駆け上がった。放たれる矢は全てセオドア任せで、あとはレナードを残すだけとなった。
駆け上がろうとしたとき、それは起こった。セオドアの魔力の氷達が、突然にして崩れ去ったのである。
「レナード!」
ブライアンの叫びに、レナードは振り返った。
――矢が、飛んでくる!
刺さる――そう思った瞬間、聞こえてきたのは。
デイモンの、くぐもった声だった。
焦りながら下を覗き込めば、肩に一本――あの、矢を受けていた。
一本受けて痛みに鈍る動きが、二本、三本目の命中を許す。その度に届く呻き声に、レナードは動揺した。
デイモンは絶対に階段を通さないというように仁王立ちすると、顔を上げた。
痺れが回っているのか。
震える唇で――
行け、と言った。
否。声は聞こえなかった。喉が空気を震わせる音だけが耳に届いた。だが、レナードには分かってしまった。
何もできない自分に激しい憤りを覚える。やるせなさが生む怒りが限界を超えて、吐き気すら感じるほどだった。
それでも、走るしかない。
「――ッ!」
目を逸らすと、階段を駆け上がった。