決意新たに
数日がかりで山を越えたあたりで、随分と寒さも和らいで感じた。多少は草花も生えるらしく、雪の覆う足元からは生命の匂いを感じた。
到着したときには、太陽が頭上を覆っていた。西で見た建物よりは簡素な造りのものが多いが、温かみが感じられてレナードには好ましく思えた。
デリクは定期的にこちらまで顔を出しているらしく、この辺りの事情を詳しく教えてくれた。
「東側なら秋には小麦が採れるし、芋もどうにか育つ。とはいえ魔導士皆が食べるには些か少なすぎるのでな。恥ずかしい話なのだが、西側に居る我々……直系一族のために相当量を運んできてくれているのだ」
ふんふん、とレナードは耳を傾けていた。
「どうして魔導士全員がこちらに来ないのか、と思うだろう?」
「いや、想像はつく。大方、年寄り連中が動きたがらないんだろう」
ギデオンやフェリシアの祖父の顔が脳裏に浮かぶ。彼らが大反対するだろうことは、容易に考えられた。
「そうなのだ。人間が容易に攻め込めないよう西側の山奥に集落を作ったのはいいのだが……。集落を形成した当時はもう少し穏やかな気候だったらしいから、仕方ないことなのかもしれんな」
デリクやその息子であるイアンは、流石と言うべきか、山を降りた後は少しも寒そうな素振りを見せていない。フェリシアもだ。――彼女に関しては、全く旅立てるような装いでは無く、見ているこちらが寒い程だった為に、コーデリアの「替えの」外套を身につけているとはいえ。レナードに言わせれば外套は二枚も必要ないのだが、結果的には役に立ったのだった。コーデリアが、夜逃げでもするのではないかと思うほど大荷物であった理由がよく理解できる。
「ぼく、疲れた」
多くの時間をデリクに負ぶさって過ごしながらもここまで言いつけを守って付いてきたイアンは、こちらが舌を巻くほどだった。大人でさえ過酷な行程だったが、ここまでよく弱音を吐かなかったものだと思う。
「もう少しだ、イアン。いつも通りだから、我慢してくれ」
「息子さんもよくここまで?」
セオドアが、デリクに思わず聞いた。
「数ヶ月に一度は。この子には積極的に外を見せたいと思ったが……どうしても山越えは必要だ。冬に越えることは珍しいのだがな」
レナードも思わずその逞しさに感心するが、フェリシアも同じくらいの年齢の頃から山を越えて連れ回されたと言うのだから、そういうものなのかもしれない。
「さて。俺はちょっとそこの奴に用があるんだわ。お前らはその辺ぶらぶらしててくれや」
あっちに行けと言わんばかりに、デイモンが手を振った。
「うーん。隊長、せめてイアン君が休める場所くらい教えてくれても良いだろうに。僕達はこの辺詳しくないのにさあ」
セオドアが、諦め混じりのため息を吐いた。
「一応、来客が泊まるための設備があってな。私たち親子も、普段はそこにお世話になっている。そこでいいだろう」
穀物などを運んでくる人間が主に使うのだと、デリクは説明してくれた。あちらだと指で差されるまま、レナード達はその建物まで向かった。
デリクは躊躇なく戸を叩く。軋む音と共に開いた扉の奥からは、黒髪の女性が現れた。口元にきっちりと引かれた紅が印象的で、華やかだ。デリクの姿を認めて、女性は目を丸くした。
「はい。あら……デリク様」
そして後ろに注がれる視線。注目しているのは、勿論――
「フェ、フェリシア様! どうしてこのような場所に」
「来ちゃった。貴女がこちらに居るとは思わなかったわ、グロリアさん」
片瞬きと共に笑みを向けられて、グロリアと呼ばれた女性は「はあ……」と呆気にとられたような声を漏らす。
「少しお世話になりたいのよ。良いわよね?」
「当然です。ですが、主は」
「じゃ、問題ないわね。上がらせてもらうわ」
グロリアの返答を待たず、フェリシアはレナードの手首を掴んで屋内へ勢いよく上がり込んだ。慌ててついてくるコーデリア達は、グロリアに申し訳なさそうに礼をした。
「お、おい、いいのか?」
されるがままに建物の中に入って、レナードは思わず焦り混じりの声になる。廊下を、高い足音と共に進んでいくフェリシアには、少しも遠慮が見られない。
「良いの良いの。ここ、別に彼女のおうちじゃないし」
ひとまずの宿泊施設なだけであって、特段誰かの持ち物という訳でもないらしいのだが、そういう問題ではないのではなかろうか。
「フェリシア様。こちらの方々は」
背後から、グロリアの困惑の声が届く。
「レジスタンスの……仲間! ふふ」
本当に心から嬉しそうに、フェリシアが言った。思わず、レナードは自身の頬が緩むのを感じる。
「ねえ、グロリアさん。ルーク君も此処にいるのよね?」
「え、ええ。居間で遊んでいるかと」
「最近会ってなかったから、きっともう私なんて覚えてないか」
「……そ、その、フェリシア様がいらっしゃっるとは予想していなかったもので、失礼が無いと良いのですがっ」
グロリアは、フェリシアのくるくると変わる話題や表情に始終振り回されている。レナードは、会ったばかりの彼女を少し哀れに思った。恐らく、他の仲間も同じことを考えているだろう。
「別に気にしないわ。子供は元気な方が可愛いもの」
そう言って、フェリシアは扉を思い切り開く。暖かさを一気に感じて、レナードはほっと息を吐いた。
予想していたよりも広い室内は、簡易な椅子や寝台が幾つも並べられた、機能重視という印象の場所だった。西側の集落で見たような、目の眩むような調度品で満たされた屋敷より、余程レナードには居心地が良く思える。
質素な生成りの絨毯の上に、少年が一人寝転んでいる。本を読み耽りながら、こちらには全く気付いていないようだった。年の頃は七、八歳だろうか。それなりに整った顔立ちは、どこか子供離れしたかのように引き締まっている。
「ルークさん、ルークさん。フェリシア様がいらっしゃいましたよ」
慌てて駆け寄ったグロリアと横並びになって、二人がかなり似ていることに気付く。少年は本から顔を離してフェリシアの存在を認識すると、慌てたように服の皺を気にしながら立ち上がった。そして、レナードは気がつく。――この子も、かなり痩せているのである。
「お、お久し振りです、フェリシア様」
丁寧に頭を下げた少年に、フェリシアは膝を床について目線を合わせる。
「久しぶりだね。背も伸びたし、大人っぽくなったわ」
フェリシアの言葉に、少年は年相応に破顔する。
「いっぱい勉強して、いっぱい強くなって、早くもっと大きくなりたいです」
フェリシアは、子犬にするように少年の頭を撫でてみせる。
「ご本ばっかり読んでて、退屈じゃない? ここに強おいお兄さんがいるから、遊んでもらっても楽しいと思うわ」
雑に紹介されて、レナードは苦笑いする。
「レナード・エンケラドスだ。よろしくな」
「ルークです。ルーク・ズベン・エル・ゲヌビ」
淀みなく自己紹介をしてみせる少年は、どこか高貴さすら感じさせる。だが、それだけ言うと、ルークはレナードの頭からつま先までを見定めるように眺めた。
「……レナードさんは、フェリシア様の何なのですか」
ルークの言葉に、レナードはこの少年がどうしようもなく可愛らしく感じた。フェリシアのことが大好きなのだな、と思う。
「私のお友達なの。仲良くしてね、ルーク」
フェリシアに言われてしまえば、どうしようもないのだろう。ルークは、不満の色を隠さずに、
「……はい」
と言った。
それからは、グロリアが淹れてくれた紅茶を楽しみながら、皆で卓を囲んで雑談に花を咲かせた。疲れ果てて眠るデリクの息子――イアンの寝息が、心地よく部屋に響いている。
「お母様が言ってました。フェリシア様のお子様が、僕のお嫁さんだって」
ルークも、大人の中で会話に参加している。聡明で、時に健気な少年の話は、聞いていて微笑ましく感じる。
「ふふ、そうねえ……でも私は、自分の結婚相手くらい自分で選びたいと思うわ」
フェリシアの返事はルークに答えるようで、答えていない。だがルークには理解できなかったようで、レナードは雑にあしらうフェリシアに苦笑した。
「フェリシア嬢はまず婿殿を探すところからだな」
デリクは、その大きな身体の印象からはかけ離れた穏やかな動作で、紅茶に口を付ける。
「あら、意外ね。生まれてもいない子供の婚約者は決まっているのに、本人はそうでもないの?」
コーデリアは、窺うようにフェリシアを見た。
「縁談、全部断っちゃったのよ。お爺様も頭を抱えていたわ」
「目に浮かぶようね……」
「目に浮かぶようだな……」
レナードとコーデリアが、異口同音に言った。セオドアが、そんな様子に少し笑う。フェリシアは少し羨ましそうに、
「ふふ。コーデリアとレナードは仲が良いのねえ」
「幼馴染なのよ。小さい頃は、よく遊んであげたわ」
コーデリアに、レナードは非難の目を向ける。
「遊んでもらったというより、遊ばれていたと思うんだが……」
勝ち誇った笑みのコーデリアに、レナードは大人しく目を逸らして退いた。
「二人は恋人なの?」
「……まさか!」
コーデリアが、ひときわ大きな声を上げて、手をぶんぶんと振ってみせる。レナードも「違う」と答えた。
「ふうん。てっきりそうなんだと思ってたわ」
にやにやと厭な顔をするフェリシアに、レナードは少し考え込むと、
「兄弟みたいなものだから。考えたことも無かったな」
「…………。その辺、義兄さんはうまいことやったわよねえ。私、姉さんをとられちゃったわ」
少しの沈黙のあと、フェリシアが小さく笑いながら言った。セオドアは、コーデリアに何とも言えない顔を向けた。
「惚れちゃったものは仕方ないさ。早く帰って妻に会いたいよ」
それからは、セオドアの惚気話にひたすら付き合わされる時間がやってきたのだった。
グロリアのもてなしのお陰もあり、数日間の疲れが飛ぶように楽しい時間を過ごした。
固辞したが、グロリアは全員分の夕食を用意してくれた。温かい食事は有り難かったが、食べ盛りであろうルークが物足りない顔をしていたのが、レナードにはどうにも心に残ったのだった。礼儀が許すのなら自身の皿の食事を分けてやりたいと、強く思いながら食事を終えたのだ。
――子供が満足に食べられないなど、あってはならないことだ。
その日の晩。簡素な寝台に横たわり、窓の外を眺めていた。
カトレアに来て、まざまざと認識したこと。魔導士がただ生きるということに、何の罪があるというのだろう。何の咎があって、ルークやイアンのような子供が飢えなければならないというのだろう。ただ魔導士として生まれたなどという理由が、許されてなるものか。
ならば、自身は。
――どんなことがあろうとも、魔導士を見殺しにするような王を、許しはしない。
燻る怒りとともに、静かに目を閉じた。
結局、デイモンは何故カトレアのこちら側に来たのか、最後まで黙っていた。頑固者の父に口を割らせるのは不可能だと頭で一旦諦めてはみても、釈然とはしなかった。
隠れ家へと向かう道。再びの山越えだが、最早慣れたものである。とうに語ることもなくなって、しばしの沈黙が場を支配していたとき。
――不意に、大きな遠吠えが聞こえた。獣だ。
「ちょっと、嫌な予感がするわ」
寒さではなく、ぶるりと震えてみせるコーデリアに、
「コーデリアちゃん。予感じゃねえよ。周りを見ろ」
デイモンが剣を抜く。促されるまま、レナードも同じく剣を構えた。
囲まれているのだ。無数の血走った目が、レナード達を全方位から捉えている。
厄介なことになった、とレナードは唾を飲んだ。こんな形で、剣を手に取ることになろうとは。
「……残念だが、向こうは穏便にって感じじゃねえな。デリクはイアンを守るのに集中してろ。お前ら……全員初陣か。頼りねえな、くそ。……フェリシアの嬢ちゃんは戦えるのか?」
「……え、ええ。やるだけやってみるわ」
デイモンが邪魔だと言わんばかりに鞘を捨てると、それに触発されたように一匹、獅子が飛びかかってくる。その牙がデイモンに襲うと思われた瞬間、男は喉笛を静かに刺した。――音も無く、獅子は地面に散る。
仲間が倒れたことに腹を立てたか。次々に向かってくる獅子の群れに、レナードは歯を食い縛った。正面に構えて、力強く刀身を叩きつける。初めて経験する手応えと共に、呆気なく獣は倒れた。
そこからは慣れたものだった。向かってくる順に、一、二匹。周りを見る余裕すら生まれた。コーデリアは槍でどうにか応戦している。彼女の能力は防御に優れるが、攻撃は武器に頼らざるを得ない。一方のセオドアは、彼の「氷を操る」という能力を最大限に生かし存分に振るっていた。彼なら大丈夫そうだ、と剣を振りながら目を逸らす。
「――フェリシア!」
考えるより先に身体が動いた。旋風を巻き起こし応戦していたフェリシアだったが、後ろが見えていない。
――間に合わない。レナードは、思い切りフェリシアの身体を突き飛ばした。と、次の衝撃の予感に目を閉じた。腕で牙を受け止め、思わず呻き声が漏れる。だが、この程度の怪我に構うことはできない。剣を振り下ろして一匹、振り向きざまに二匹。正面に飛びかかってくる三匹目の目玉に向かって迷わず突くと、そのまま力尽くで頭を裂いた。
「……平気か、フェリシア」
気がつけば、一匹たりとも残っていなかった。腕に負った傷を抑えながら、レナードは尋ねる。
「うん。ありがとう、レナード」
フェリシアは、レナードの傷口を覗き込んで顔を顰めた。不意にデイモンから何かを投げられて、レナードは受け取る。包帯と、水筒だった。
「……ありがとう」
もう一度礼を言うと、フェリシアはレナードの傷口を洗い流し包帯を縛り付けた。応急的な止血だが、気分が違う。
「ああ。助かる」
多少包帯に血が滲んでいるものの、直ぐにそれも止まりそうだ。レナードはべったりと剣に付着した血を拭き取ると、腰の鞘にそれを戻した。デイモンに治療道具を返すと、彼は真剣な顔をしていた。
「……正直、お前がそこまで戦えるとは思わなかった。お前、本当にこれが初めてか」
「何言ってるんだ、親父。当たり前だろう」
デイモンは、レナードが斬り伏せた一匹を拾い上げると、傷口を見た。
「普通のやつは、あの状況でここを真っ直ぐ突けねえよ」
目玉を刺した一体だ。奥にある脳天を貫かれ、一瞬で絶命させた。できると思ったから、したまでだった。
「周りの様子だって見えねえ。……俺は少しばかり、お前を見くびってたみてえだわ。次の作戦では、役に立ってもらう」
レナードは黙って頷く。何よりも、大切な人を自分の力で守ることができたという満足感があった。
「しかし、こんなところで獣に出くわすのも珍しい。こいつらも、飢えてたのかもなあ……。可哀想なことをしちまったか」
デイモンの呟きが、レナードを現実に引き戻す。害するから切り捨てたのだ、と自分を正当化するような気持ちになる。そして、ある考えが頭を過った。
――人間にとっての魔導士とは、これなのか?
生命を脅かすから、身を守るために斃したのだ。
否。レナードは、その思いつきを振り払うように深呼吸をした。