9 俺はおまえの二十倍の速度で生きている
K市は漁港と食品化工場があるだけの寂れた街だ。ただっぴろい道路が四方に延びているが建物はまばらで、しかも空き家ばかりだ。観光資源に乏しく、活気も華やかさもない。
「んああ、エリミネーターの姉ちゃん、また来たんか」
バイク屋の男はくるみの顔をみるなりそう言った。四十代、浅黒い肌、油で固めた変な髪形。一緒に酒を飲んだら、ヤンチャしてたころの武勇伝を死ぬほど聞かされそうだ。私の軽トラの塗装に興味をしめしたが、それはまた別の話。
「エリミネーター?」
なんのこっちゃ、と私がつぶやくと、くるみが芝居がかった口調で言う。
「そう、排除するもの、エリミネーター。それはこのマシンの名前、そして私の兄の名前」
「あ、また何かはじまった」
「私の兄はバイク好きの平凡な若者でした。努力を重ねて出場の機会をつかんだ鈴鹿での初めてのレース。しかし不幸にも事故に巻き込まれた兄は、病院に搬送された後、そのまま消息を絶ってしまったのです」
「それで改造されてエリミネーター一号になるんだろ」
「いや、古いバイクでさ、国内じゃ販売も生産もしてないのよ。今は北米とベトナムだけ。だから部品届くまでにけっこうかかるんだわ。大事に使ってくれって言ってるんだけど、聞かなくてねえ」
「そうなんですか、ところでこっちのクレーンなんですけどね……」
「しずくちゃん冷たいー、話聞いてよー」
「うるさいよ、せめてもうちょっとリアリティのある話をしろ」
そんな話をしていたときだった。私の尻ポケットで携帯が鳴った。国際電話だ。
「なんだ、ちゃんとつながるじゃねえか」
新大陸から電話してきた男は、開口一番そうのたまった。
「……ハル、ハラ先輩、すか?」
「おう、ハルハラ先輩すよ。行き先も告げずに旅に出て、そのまま消息を絶ったっていう月島しずくさんですか?」
「うええ、誰がそんな」
「誰がじゃねえよ、足立とか御坂とか、おまえの同期やつらみんなだよ。グループ展やろうって、前から誘いがかかってたんじゃないのかよ」
「え、ああ、いや、それはそうなんすけど……いや、ご心配おかけしました。すいませんス」
晴原仁、というこの二年上(年齢はもっと上)の先輩が私は苦手だった。面倒見のいい頼りになる良い男なのだが、会話するたびに確実に何かを削られる。
「てか、今モントレーですよね。大丈夫なんですか、国際電話とか」
この人は春から長期レジデントとしてカナダに滞在中だったはずだ。
「ああ、問題ない。俺んちの電話じゃないから」
こういう人である。
「それに、モントレーじゃない。ぐあだらはらだ」
「え、何て?」
「グアダラハラだよ、メキシコの。ちょっとワークショップやるってんで連れてこられたんだけどよ、凄いのよ。光とか空気とか人とか街の感じとか何もかも。すげえおもしれえからさ、こっちに住んじまうことにした。メモれ、今から新しい住所言うから」
こういう人である。
成功した芸術家に共通する資質はエゴの強さだ、そういう持論を持っている。直感を、少しも躊躇することなく行動に移す。何でも捨てる。作ったものをどんどん壊す。単なるわがままではない。精神の瞬発力を、意図して鍛えぬいた人だ。
「ふん、おまえは今、国立公園の中に住んでるのな。スゲエな、番外地なんてほんとにあるんだ。足立とかにも連絡しとけよ。心配してるから。で、グループ展にも参加しろ。美術運送の業者紹介してやるから」
「私の作るものと足立や御坂のとじゃ合いませんよ」
「それがいいんだよ。おまえのがあると、周りが引き立つ」
こういうことを、まったく悪気なく言う人である。
「おまえのは異質なんだよ。どこに置いてもな。何が違うかわかるか」
「何が違うんですか」
「本人にわからんことが俺にわかるもんか」
「はあ」
「だがそれがおまえの個性だ。なんだかわからんが確かにあるものだ。とりあえず二十年、考え続け、作り続けろ。どんどん人に見せて、どんどん恥をかけ。二十年続けたら、ものになるかどうかわかるかもしれん」
「晴原先輩に言われても」
この人は十代のころから資質を認められていた人だ。この人の(カナダへの)渡航費用、(モントレーでの)滞在費用は文化庁が出している。もともとのレベルが、私とは違う。
「俺とおまえとは違うんだよ」
晴原仁はこう言った。
「俺はおまえの、二十倍の速度で生きている」
その後彼はメキシコの感想やら新しいアイデアやらをひとしきりまくしたて、じゃあ寝るから、といきなり電話を切った。