44 くちづけ
彼の腕の下に肩を押し込み、無理やり立たせて近くのベンチまで運んで、そのまま隣に座った。
「ヨン・レック、あんたすごいよ。たいした奴だよ」
ヨハンセンはにやりと笑ってみせる。右腕を少し持ち上げてまたもどした。私に殴られた肩をさすろうとして、あきらめたのではないかと思う。
「ダンサーってのは、自分の身体一つで何でも表現してしまうんだね。どうやってるの。初めて見たあんたのパフォーマンスもすごかった。身体のつくりが根本的に違うみたいに見えた」
「同じだよ。特別なことなんてない」
「待って。今は答えなくていい。黙って休んでればいいから」
彼は苦しげに呼吸しながら首を横に振る。あくまで私に逆らうつもりだ。
「生物っていうのは皮一枚のもんだ。膜を通して外界のものを取り込み、いらないものを排出する。それが生命現象で、膜をはさんで存在するのは同じ物質の世界だ。意識にしても同じだ。見たこと、感じたこと、想像力が産み出すものも含めて、すべて外の世界から入り込んでくる。だから、なんだって再現できるのさ。宇宙と自分は同じ材料でできてるんだから」
実際には、こんなふうに一息に喋ったわけではない。呼吸を整えながら、一言一言を喉の奥で成形しているみたいにゆっくりだった。
「やっとわかったよ。初めて会ったときに言ってたことの意味」
世界と自分の境界が溶け合って消えること、それは死を超越すること、ニルヴァーナとでも呼ぶべきものだ。
「気に入ったよ、この場所。スェーデンにだってこんな風景はない。雄大で無慈悲で、ひたすら空虚だ。いかにも神様がいそうな場所だ」
「馬鹿なこと言ってないで、立ってくれ。頼むから。いつまでもこんなとこにいたらほんとに死ぬ。いや、私が死ぬ」
「どこにいたって人は死ぬんだよ。だから俺はしずくに会いにきたんだ」
「……やめてくれ、ヨン・レック。すぐに死にたいわけじゃないんだろ」
「さあ、どうだろうな。早く楽になりたいとはよく考える。だが、まあ死にたいわけではないな。納得はしてるが、望んではいない」
ヨハンセンの冷静すぎる言葉は私の胸をひどくかき乱した。すぐ一歩先に口を開けた闇黒を、この男はどれほどの間見つめてきたのだろう。
私は腕を伸ばし彼の肩を抱き、身体を寄せた。お互いの間には分厚い防寒衣があって、身体のぬくもりはとどかない。それでも伝えたかった。それが何の救いにもならないとしても、私がここに、おおまえのそばで、おまえを思っているぞ、と。
「俺も何か、カタチのあるものを残せればよかった。例えば安田侃みたいにでかい大理石でさ。ああいうのはステキだと思う。でも、スタジオで最高にノッてるとき、自分の中の思いや力が、身体から腕を突き抜けてどこまでも伸びていくような、宇宙の果てに触ってるみたいな、そんな感じ、わかるか、確かに感じるんだ」
「まさに私がやろうとしてることだ。あの作品を作ることで、そのゾーンに近づけないかと思ってる。でも、まだ触れてもいない」
「それはおまえの命だ、とどくもとどかないもない。ただ、気がつくだけのことなんだ」
強い確信のこもった声でヨハンセンは言った。私は彼の言葉と声を胸に刻みつけていた。永遠に忘れぬように。でも、
「あんたは私を置いて、ずいぶん遠くまで行ってしまったんだな」
ヨハンセンは沈黙し私を見た。私は正面を見つめたまま視線を動かせなくなった。横顔に痛いほどに彼のまなざしを感じる。
「ヨン・レック、あんたがいなくなるのはつらい。親しい人が自分の世界から一人ずつ消えていく、そんなことの繰り返しが生きることだというなら、私だって早く楽になりたいと思う。世界に自分ひとりだけが取り残されるようで、たまらない気持ちになる」
ヨハンセンのグローブが私の頬に触れた。
「しずく、『今』はここにある」
冷たいグローブ。
唇も冷たかった。




