第16話 死しても、なお
ハンナ亭に戻ると、ソルブレアはまだカウンターの上で丸くなっていた。ハンナのショールをぎゅっと抱きしめて、小さな寝息を立てている。
「全然起きないわね。よっぽど疲れてたのかしら」
「……朝から動き回ってたからかな」
ライアがソルブレアの隣に座ると、ハンナが黙って温かいスープを出してくれた。一口飲むと、冷えた身体にじわりと染み渡る。
そういえば、宿を探さなければ。ギルドの近くに安い宿があるはずだ。ライアはソルブレアを起こそうと肩に手を伸ばしたが、小さな身体はぴくりとも動かない。
「ねえ、あなたたち、泊まるところは?」
ライアの心の中を読んだように、ハンナが聞いてきた。
「これから宿を探そうかと……」
「この子を抱えて?」
ハンナは呆れたように笑った。
「二階に空き部屋があるの。今夜はうちに泊まりなさい。この子、当分起きそうにないでしょう」
「いや、でも……」
「いいから。こんな時間に小さい子を連れて宿探しなんて、見てられないわ。二階の奥の部屋、押し入れに布団があるから。そっと運んであげて」
「……すみません。必ず宿代は払いますから」
ライアはソルブレアを抱え上げた。驚くほど軽かった。ソルブレアは腕の中でむにゃむにゃと何か呟いて、ライアの胸に顔を埋めた。煮込みハンバーグ、と聞こえた気がした。
ソルブレアを寝かせると、ライアは窓辺の椅子に腰を下ろした。
窓の外には、王都の夜景が広がっている。無数の灯りがちらちらと揺れている。コレア村とは比べものにならない、光の海だった。あの灯りの一つ一つの下に、誰かの暮らしがある。ハイゼンが命と引き換えに守った子供たちも、あの灯りのどこかにいる。
今日一日で知ったことを、頭の中で反芻する。
白紙の地図。途切れた記録。四年間変わらなかった≪白楼の花≫の記述。セレスティアの「死ぬわよ」という声。そして──ハイゼンの話。
怖い。
正直に言えば、怖い。魔界の入口ですら生きて帰れる保証はないとセレスティアは言った。あの目は嘘をついていなかった。あれはA級の冒険者として、何度も魔界の土を踏んできた人間の目だった。
魔法は使えない。火一つ起こせない。身体の奥に魔力がある感覚はあるのに、それを引き出す方法が分からない。A級の紋章だけがポケットに張り付いていて、中身は空っぽだ。このまま魔界に行けば、間違いなく死ぬ。
──でも。
ハイゼンは死んだ。でも、素材を仲間に託して、子供たちを救った。あの孤児院の子供たちは、今日も笑って、シチューを食べて、パンを分け合っていた。一人の冒険者の命が、七年後の今もあの子たちの中で生きている。
魔界に行くことは、ただ死ぬというだけじゃない。それは今日、確かに知った。
──だけど、俺は死にたくない。
リーナが目を覚ました時に、傍にいたい。「行ってくるよ」と言ったのだから、「ただいま」を言わなきゃいけない。母さんにこれ以上、泣きそうな顔で笑わせたくない。
だから、一人で行っちゃ駄目だ。
仲間。
自分に、そんなものが出来るだろうか。万年E級と笑われてきた自分に。魔法も使えない、戦い方も知らない自分に。一緒に魔界に行ってくれる人間なんて、いるだろうか。
──分からない。でも、探すしかない。
覚悟は決まらない。きっと明日になっても、明後日になっても決まらない。怖いものは怖いし、出来ないことは出来ない。でも、やれることを一つずつやるしかない。
布団の上で、ソルブレアが寝返りを打った。
「……ん……ハンバーグ、おかわり……」
ライアは小さく笑った。この子がいてくれるだけで、何とかなる気もするのだが──頼りきりでは駄目だ。ドラゴンの時のように、全部ソルブレアに任せて自分は何もしない──そんな自分が何より嫌だった。
窓の外を、もう一度見た。星はぼんやりとしか見えないけれど、確かにそこにある。コレア村で見上げた星と、同じ星だ。リーナの部屋の窓からも、見えているだろうか。
「……リーナ。もう少しだけ、待っててくれ」
返事などあるはずもない。でも、言わずにはいられなかった。
ライアは窓を閉めると、ソルブレアの隣に横になった。目を閉じる。明日やることを考える。
魔界の情報を集める。仲間を探す方法を考える。自分に出来ることを、一つずつ。
──眠りに落ちる直前、ライアの頭にあの蒼銀の髪がよぎった。あの大量の資料。切迫した横顔。彼女も魔界の向こう側に何かを求めていた。
自分と同じように未踏破地域を目指している人間が他にもいるという事実が、ライアには頼もしかった。




