32.アンサラー
黒い炎が迫る中、その場から一歩も動かない。
脅威を前にして、目を閉じる。
本来なら自殺行為だが、それでも僕は静かに待った。
僕が最も信じている人が、この場にやってくることがわかっていたから。
(来てくれた)
千歳さんが妖刀を鞘に納めた時点で、この場に大きな魔力を持った魔術師が近付いていることに気付いていた。
目を開けると――
「トーヤ君、遅れてごめんね」
「ティセ……」
上空から静かに地面に降り立ったのは、ティスタ・ラブラドライト。
周辺は真っ白に凍り付き、目の前は巨大な氷の壁で覆われていた。
黒い炎を防いだ氷壁は、夜空を覆い隠すほど大きい。
窮地に駆け付けてくれた敬愛する師匠を前にして、思わず目が潤む。
お礼を言おうとしたところで、ティセの表情が険しくなった。
「怪我……したんですか?」
血の滲む僕の服を見て、ティセが今にも泣き出してしまいそうな顔になる。
毎度のことだけど、心配をかけてしまったようだ。
「傷は塞いであるので大丈夫です。それより、あの仮面の――」
「…………」
見開かれた碧い瞳の瞳孔が開く。
同時に、身震いするほどの強烈な魔力が彼女の体から溢れた。
まるで全身を針で軽く突かれているように感じる。
「私の大事な弟子にケガをさせるなんて、良い度胸ですね」
巨大な氷壁が一瞬にして砕けて、氷剣に形を変える。
夜空に浮かぶ冷気を帯びた剣のすべてが、仮面の少女に切っ先を向けた。
『あなたの弟子に傷を負わせたのは、私ではありませんが』
言葉を遮るように、少女に向けて氷剣が降り注ぐ。
容赦ない猛攻に、僕と千歳さんは何も言えずに固まっていた。
「お、おいおい……いきなりかよ……」
さすがの千歳さんもドン引きの様子。
僕も苦笑いするしかなかった。
「途中で会った彼に話は聞いていますので」
夜の森を駆けてきたのは、灰色の巨狼。
シロー君がティセに状況説明してくれたらしい。
『皆さん、大丈夫っスか!』
「シロー君、無事でよかったよ……」
『はい……この状況を無事と言っていいのかわからないっスけど』
黒炎によって燃やされた人々。
溶解して原型を留めていない警察車両。
木々も焼け焦げ、周辺の景観そのものが変わってしまった。
(これだけの火力……まるでガーユスを相手にしているような……)
しかし、あの黒い炎は赫灼の魔術ではない。
黒炎を扱う魔術なんて存在しているのだろうか。
そもそも、使っているのは魔術ではないかもしれない。
『なるほど、噂通りの気性の荒さですね。銀杖のティスタ』
氷剣の雨を浴びたはずの仮面の少女は無傷。
あれほどの物量をどうやって捌いたのか、まったく見当もつかない。
間違いなく僕たちの知らない異能の力を使っている。
「他人の男を傷付けておいて、謝罪も無しですか……?」
「あ、あの……ティセ、落ち着いて……」
「落ち着いてますよ、私」
「…………」
絶対に嘘だ。
僕にはわかる。
今までに無いほどキレている。
静かな殺気を放つティセを見ても、仮面の少女がたじろぐ様子はない。
この時点で目の前の少女が手練れであることが予想できる。
少しの沈黙のあと、仮面の少女は両手をあげながら提案してくる。
『ここまでにしましょう。この場で本格的に戦うのは我々の本意ではありません』
「派手に暴れてから『戦いたくない』などよく言えたものですね。これだけ死人を出して、ただで帰れると思っているんですか?」
ティセが氷のような殺意を仮面の少女に向ける中、僕は周辺に気を配る。
我々、と少女は言った。
新手が現れる可能性を考慮しなくてはいけない。
『……トーヤさん。今のところ、新手の匂いはしないっス』
「ありがとう、シロー君。引き続き警戒よろしく」
僕のエルフの聴力に加えて、シロー君の狼魔の嗅覚もある。
別の誰かがこの場にやってきたときに備えて、警戒を怠らない。
怠っていなかった……はずだった。
「……っ……!?……みんな、避けてっ!!」
ティセの叫びが夜空に響く。
同時に、足元から黒い植物が伸びてきた。
半分無意識でその場から飛び退き、仮面の少女から距離を取った。
「これは、自然魔術……?」
地面から生えたのは、夜の闇に溶け込むほど黒い茨の蔦。
黒炎に続いて、今度は黒い植物の異能。
突然のことで理解が追い付かないが、本能で感じることがひとつだけあった。
「みんな、あの茨に絶対に触れないでくださいっ!」
あれに触れるのは危険だと、自分の中の何かが警告を発している。
僕の言葉を聞いて、千歳さんが妖刀で黒い茨を切り払い、ティセが氷の魔術で仮面の少女へ反撃を仕掛ける。ティセが放った無数の氷の礫は、仮面の少女の足元から生えてきた黒い茨に阻まれた。
『完全に不意を突いたつもりでしたが、さすがですね』
仮面の少女の横にもうひとり、仮面を着けた者が立っていた。
声には少しノイズが掛かっていて聞き取りづらいが、男性であることはわかる。
仮面の男が何か脇に抱えて持っているのが見えた。
「お、おいっ! もう少し丁寧に扱えっ!」
それは、護送されていたはずの藤堂 悟道の生首。
仮面の男たちは、彼を取り返しにやってきたらしい。
『こんな者でも我々の同志ですので、取り返させてもらいました。今日はこれで退散します』
仮面の男は生首を持ったまま僕たちに背を向け、仮面の少女もその後ろに続いて撤退をはじめる。
相手は背中を見せている。
しかし、なぜか手を出せない。
躱しようのない反撃がくることが頭に浮かんでしまうからだ。
僕だけでなく、シロー君や千歳さん、ティセまでも動けずにいた。
1秒が永遠に感じられるような緊張の中、仮面の男が立ち止まった。
『名乗っておきます。我々は「アンサラー」です』
「アン、サラー……?」
『できることなら、もう会わないことを願っています。無益な殺生は避けたいですから』
その気になれば僕らをこの場で殺せると言っているようなものだった。
挑発にも似た言葉を聞いても、ティセと千歳さんは何も言い返さない。
『……特に、あなたとは戦いたくない』
そう言って、ティセのほうに顔を向ける仮面の男。
表情は伺えないはずなのに、なぜか笑っているように思える。
(なん、だ……?)
説明し難い違和感。
仮面の男の所作を見ていると湧き上がっている不快感。
この感情の正体がわからない。
『それでは、さようなら』
ノイズが掛かった別れの挨拶と同時に、仮面の男と少女が完全に消えた。
魔力の痕跡も残さず、音もなく、完全にその場からいなくなったのだ。
「……時空間転移……」
その一部始終を見ていたティセが小さく呟き、千歳さんは頭を抱えていた。
「……ぶはっ……はっ……はぁ……」
そして、シロー君が狼化を解いて膝をついた。
全身に汗を浮かべて、荒い呼吸を繰り返している。
「シロー君、大丈夫……!?」
「すみ、ません……呼吸、忘れてました……あの仮面の男、ヤバいっス……」
「…………」
狼魔族は戦いにおいて優れた能力を持っている。
そんな彼が呼吸を忘れるほどの緊張に襲われていたということ。
あの仮面の男は、僕らよりも遥かに強く、得体が知れない。
「……トーヤ君」
ティセが疲れ切った表情を浮かべながら僕に近付いてくる。
「助けに来てくれて本当にありがとう、ティセ」
「間に合って本当に良かった……」
今にも泣き出してしまいそうな表情をしながら抱き着いてくるティセ。
彼女の口振りからして、こうなることがわかっていたかのようだった。
「まずは休んで、それから話をしましょう。これからのことについて」
「はい……」
長い夜がようやく終わる。
消えない爪跡を残して……。




