第八十七話:師の引き継ぎ
パカパカパカパカ、ガラガラガラ……。初めは蹄、続いて車輪。背後で馬車が去っていく。
目の前にそびえる我が家は、はっきり言って辛気臭い。
赤茶けた屋根に、古びた壁面、囲いにはろくすっぽ手入れされてないツタが絡み、近くに街頭が無いため薄暗い。
外装を一言で言い表すなら古臭い、ここからは見えないが実は内装も外見相応。
その古さ、一時代前と言って差し支えない、さすがに内装は最低限の改修はしているが。
サイズは貴族のものとしてはかなり小さく、平民のものしては少し大きい。
首都の中にあって小高い丘となっているここを、口さがないものは時死ヶ丘と呼ぶ。
もっとも、丘の頂上にポツリとある、この家以外は林に覆われ、都市の中にあって未開拓。正直、言われてもしょうがないだろう。
時間が夜なこともあり、ここらの林は子供の頃はもちろん、今でも少し恐い。時が止まった、ではなく時が死んでいると呼ばれる所以の一つは間違いなく、この鬱蒼とした林だ。
ここは、代々死刑囚が追いやられる、都市の中にある流刑地だ。
かつて、黒き獣の首輪が無かった頃には、屋敷の外にでることも許されなかったらしい。
丘にあるのは万が一暴走した時の被害を抑えるため、都市にあるのは軍が即座に対処出来るようにだ。
まぁ、どんな曰くがあろうと、ここは愛する我が家。複雑な気分ではあるが、この家に帰って来れるとほっとする。
なんとも言えない感慨を抱きつつ、ビュウと吹いた寒風に身を竦めつつ、ドアノブに手をかける。
ノブを右に回して後ろに引く、ガッと鈍い手応え、どうやら義父さんが手を回して鍵を掛けてくれたようだ。
刺された時のことを思い出して、微妙に肝を冷やして鍵を回し、今度こそ家の扉を開く。
『ただいま』
十七年間欠かしていない挨拶。十六年以上、返ってこなかった挨拶。半年だけ返って来た挨拶。
我ながらグチグチと女々しいことだ、けれどここは自分の家、少しぐらい感傷や後悔に浸っても――。
『おう、お帰り』
『――は?』
返ってくることすら予想してなかった応えに、警戒すら出来ず、間の抜けた声をあげてしまう。
我に返って、二階へと目を向けた瞬間、僕は心臓が止まったような錯覚を受ける。
月光だけが窓から差し込んだ、薄暗い闇の中に溶け込む男。
影としてしか目には映っていないはずなのに、気付いてしまえばその存在感、圧力はまるで兵隊を前にしたよう。
何故、気付くことが出来なかったのか、不思議でならない。あの夜は結界を抜けるまで、何をしようとその恐怖は抜けなかったのに。
迂闊などと思うことすら出来ない、何をしようと気づけなかったという情けない確信がある。
暗闇に浮かぶ外套はボロボロ、白い歯を見せる口元はニヤついてる。
手すりに腰掛け、紫煙を燻らせるさまは、不遜の二文字。例え目の前に神が居ようと動じないことだろう。
あいつは、否、"あれ"は――!
『無貌の――』
『違ーう! んな、無粋な名前で呼ばないでくれるかなーユスティ君。
俺の名前は、ルフト=ゼーレ。そう言っただろ? ったく、元学生として心配になるぜ、お前暗記科目大丈夫か?』
『え、あっはい、そこそこの点数は取ってますけど』
『おー! それは良かった、めでたい、良きかな良きかな。
学生は勉強が本分だからねー、俺がお前みたいな年の頃はその事をこれっぽっちも理解してなかったけど。
だけどなぁ、ぶっちゃけ先生方にぃ? 大人になったら後悔するぞ! だなんて言われて、勉強をするようになる学生が居るのかねぇ。
自分が出来てねぇことを人にヤラせるなよ! なんて、不良ぶったことを言いはしないし、どっちかって言うとが腹が立つけだけどさぁ。
そんな後悔、大人にならないと分からないよなぁ。ま、先生方も分かっちゃいるんだろうけどね。
だから俺は思うのさ、一欠片でもこの言葉、ユスティ君の胸に届いて欲しいってね。そ~言うわけで、祝福ついでに酒を呑もう、酒』
パイプを吹かせながら、無貌の者……もとい、ルフト=ゼーレは言葉の弾幕を浴びせてくる。
イメージの真反対を突き抜けるようでいて、常に精神がハイになっているようなさまは、どことなく嫌悪感が湧く。言葉の一つ一つが、空々しければなおさらだ。
結論も超論理的飛躍してるし、何がそ~言うわけなのだろうか。
っていうか、人様の家で何を呑気にこの男はぷかぷか煙を吐いているのだろう、家主がパイプの煙が嫌いだというのに。
その事を知らないにしても、この態度無礼にもほどがある。いやいや、不法侵入していることこそ問題だろう。
あと、手すりに座るな、手すりが壊れる! ただでさえ、僕自身が何度も補修して……。
混乱する頭が、益体もないことを次々に処理して行く。
時間にして、五秒ほど、その間もルフト=ゼーレは一人で勝手にペラペラと口を回していた。
そうして、ようやく、場を進展させる言葉を捻り出す。
『何の用で来た、ルフト=ゼーレ……!』
威嚇するように唸り、腰を落として身構える。奴との力量差は考えるのも馬鹿らしいほど、戦闘しようなどとは考えない。
狙いは逃走。あんなの軍隊でも警察でも、とにかく国に任せるに限る。
幸い、敵意を感じられない所為か、不思議とあの時と違い恐怖はあまり無い。足が動かない、などと言うことはないだろう。
それでも、相手が本気で……否、遊び半分でも、まず間違いなく追いつかれて殺されるだろう。
とは言え、諦める訳にはいかない、最悪、黒き獣の首輪を解くことも考えなければ。
ゆっくりと手を手袋に掛けつつ、退路である背後の扉にほんの少しだけ気をやった――瞬間、ゼーレの気配が揺れる。
『それ答える前にさぁ、明かりつけてくんない?』
ガクリと気が抜けそうになるのを抑えつつ、身構えたままゼーレを睨む。その視線にゼーレが、参ったなぁ、とでもいうように頭をかく。
参ったなぁ、はこっちだ! 危うく、扉に飛び込むところだったよ!その都度、こちらの神経を逆なでてくる、ゼーレに内心で怒鳴る。
クソ、冷静になれ、逃げるタイミングを見図るんだ。自分に言い聞かせるが、沸々とした感情は定まらない。
この男が、レウスさんを――そんな気持ちもあったのかもしれない。まるで彼の命を吸い取って蘇ったようだったから。
暗い怒りを宿し始める僕とは裏腹に、ゼーレが軽い調子で話し始める。
『俺は見えるけど、お前は俺の顔見えないだろう?
話をすることをさぁ、面と向かい合うって言うだろ。俺はこれ大事なことだと思うのよねー、大体話をするだけなら手紙でいいわけで』
長い――いちいち長い。何だかもう嫌になって来たが、足からは力を抜かずに、話に耳を傾ける。
ゼーレといえば気楽なもので、話してる間もパイプの中に葉っぱを詰めなおしている。
今度、雑貨店で芳香剤を買ってこよう……。心に決めて、今度があってほしいと願う。
遠い目をしそうになった僕の前で、ゼーレがマッチに火を吐け、パイプの中の草を炙る。暗闇唯一の光源は、男の顔から受ける印象を一層不気味なものにする
そうしてまた、煙をふかし、まるで長年の友人にでも頼むように、僕に語りかけてくる。
『な? だから、ライトアップ頼むよユスティ君。お前が動けよ、と思うかもしれないけどさ――』
その話し方に辟易しつつ、自分がかなり図々しいことを言ってることに自覚していたことに驚く。
頭があさっての方向に飛んでるタイプという評価は、改めたほうが良いかもしれない。
煙をぷかぷかと辺りに浮かべ、ゼーレが再び火で草を炙る。
その煙が消えるか否か、というところで、初めて少し弱気な顔で口を開く。
『――俺が動くと、お前、逃げるだろ? って待って待って待って!』
聞く耳持たない。踵を中心に体を反転、脱兎のごとく跳ぶような一歩で、すぐさま扉を開いて外へ――などと、動いたのは脳内だけで。
気づけば視界を黒が覆い、徐々に赤みを帯びていき――顔面から強かに床に倒れこむ。
どろり、と鼻奥から熱い液体が降りてくるのを感じた所で、ようやく自分の身に何があったかを悟る。
足を引っ掛けられたたんだ。
あの距離から一瞬で? 嘘でしょう――!?
あれが常識外の存在だと、知っていたのにもかかわらず、声にならない叫びをあげる。
そんな僕に、申し訳なさ気な声が体の上から投げ掛けられる。
『ありゃりゃ、鼻血まで出てら。ゴメンな、だけどさぁ、言い訳させて貰うけど、話もせず逃げようとするお前も悪いんだぜ』
惚けた声から受ける印象は、喜劇に出てくるキザな三枚目。
謝ってはいるが、悪気を感じていないのが見え見えで、それなら謝るなとイライラする。本当に、腹立たしい。
大体、言ってることこそ正しいが、それは自分が、大量殺戮者だと言うことを忘れた発言だ。
殺戮者の前にして、逃げない奴は居ない。先ほどまで、警戒しながらとは言え、話を呑気に聞いていた、僕のほうこそおかしいのだ。
――殺戮者? その言葉に、ドクン、と心臓が一つ大きく脈を打った。
混乱と恐怖が覆い隠していた、事実が死刑囚の目に留まる。
これ以上無い罪人を前にして、征そうと願った異能の悪意が牙を剥く。
今までに無い強制力で、右手が手袋に掛けられる。脂汗が滝のように流れ落ち、カーペットに染みを作る。
不味い、やめろ……やめろ……! やめろ! やめろやめろやめろやめろやめろ!!
『おっと、まだ眠ンなよ、ユスティ。死刑囚なんざ、押し込めとけよ。なにせ、お前には言いたいことが山ほどある。
ついこの間まで眠ってたもんでね、元来話すのは嫌いじゃないんな。そう嫌がるなよ、聞きたいことが山程あるんだろう?』
僕の右手を掴み、未だ凄まじい力で拘束を解こうとしているのに、一切腕が動かない。
八重歯が尖り牙と化し、臂力は普段の数倍、今なら鬼と互する自信がある。
薄闇に包まれた部屋は、今では真昼間のように明るい。
間違いない、吸血鬼の片鱗が、封印越えて現れている……!
暴走の一歩手前だ、いよいよ封印でも抑えられないほど、異能が強大になってるのか?
いや、違うこれは僕自身が――間違いない、私が救ってきた中でも、最大級の罪人。
しかし、救済せぬ道理はない! 正義の執行において壁はなし、この者また救おう……! 死すことだけが罪から逃れる術なのだから。
『おォォォォ!!』
『おいおい、ちょっとは粘ってくれよ。ったく……いいや、しょうがねぇ』
『があぁぁぁぁ……』
『全く、五月蝿い、面倒くさい。が、お前に死刑囚を殺せるようにしてくれと、頼まれたんでな。
だから、起きろよ、テオドール。レウス=フリートの真実、俺が教えてやるからよ』
『な、に……?』
真剣味を帯びた声が、塗りつぶされた意識を叩き起こす。耳を疑うようなことを、腕をつかむ男は言ったような気がする。
レウス=フリートの真実? 何だそれは、僕を庇って死んだそれが真実じゃないのか?
だがよく思いだせ、レウス=フリートが見る見るうちに"変化"して、上に乗っかる男になったことを。
レウス=フリートのことを、僕は皆目知らない。名前以外のものを、記憶喪失の彼は、持っていなかったから。
何も、何も、僕は知らない。
『レウス=フリートとは一体何だったのか、知りたいだろう?
今なら追加料金貰えりゃ、おまけで、お前の異能の殺し方、教えてやるよ。
何せ、俺は稀代の殺戮者、殺す範疇は人だけじゃねーんだ。ほれ、ついでだ、手っ取り早くここでレクチャーワンだ。
キレろ。お前にいるのは、レウス=フリートの仇の一人だ。意味がわからないだろうが、本当のことさ。
良い子ぶんなよ! 自分の手でゼルフを殺せなくて、ホントは悔しくて悔しくて堪らないんだろ! ほらほら、ここにいい首置いてんぞぉ?』
視界一面が朱に染まる。体内を駆け巡る僕の真っ赤な血が、暴れ回り幾つもの血管を引き裂いているのだ。
力の根源は怒り、無尽の怒り。相手が誰であろうと、関係ない。上の奴ら? そんなの今は関係ない!
貴様の血を寄越せ、お前の血、全てをこの世に残しはしない。
所詮、我が身は畜生、十字架の元、蘇生の奇跡など願うことなど出来ないのだから。
なれば力を! 力を! 力を! 今この時動かない身体なんて、意味が無いだろう!
窓から差し込む月光が、地べたを舐める吸血鬼に降り注ぐ。
ああ、この月の光こそ我を彩る照明灯。端役が主役の上に乗っかるなよぉ!
腕を力任せに振り払う。右手の筋肉が引き剥がれるのとともに、内壁の全てを打ち砕き、庭にゼーレが放り出される。
魂が一気に目減りしたのを感じる。立とうとするのすら億劫で、気を抜けばあっという間に寝てしまうだろう。
もっとも、この烈火の如き怒りの前じゃ、眠気など微塵も湧くはずがないが。
両の手を口元に持って行き、黒き獣の首輪を外す。
『断頭台の記憶……!』
歴代死刑囚との魂で繋がる。かつて生きていた、彼ら彼女らの歴史が、僕の脳内に注ぎ込まれる。
疲労が消し飛び、代わりに力が溢れてくる。溢れる力はしかし、代償に飢えを僕に知らせる。
ますます尖った牙が、唇の皮を破り、にじみ出た血が口元に流れ込む。
腹が減った、そんな動物的欲求が理性のタガをたやすく外す。
『シィィィィアァァァァ!!』
やることはシンプル。畜生に高尚な戦術など不要なのだから。
煙に映る人影へ、全速力で突っ込み、全身全霊で――殴り抜ける!
――会心の手応え。肉や骨とは手応えが違ったが、拳から伝わってくる感触は間違いなく、命中した時のそれ。
本能に任せるまま、己が牙を打ち込もうと口を開いた、その時、風が僕を撫ぜる。
『万変流格闘術:柳に――』
刹那の間、強化された感覚が、つまらなそうな声を捉える。期待はずれ、そんな思いが透けて見えた。
だが同時に、期待してるんだから気張れ、と叱咤しているように思えた。
唸るような風が、土煙を吹き飛ばすと、そこには、回る風の主が居た。
僕の拳を受けて――!
衝撃を回転力に変換したのか、そう気付いた時にはもう、目の前には拳が――
『渦風』
――当たる寸前、急に拳が解かれ、僕の襟首を掴んだ。と、同時凄まじい速度が叩きこまれる。
渦が人を巻き込むがごとく、僕は自分が生み出した遠心力に振り回され、視界の中ではあらゆる物の形が無くなる。
徐々に浮いていく体、速度は一向に落ちず、むしろ増しているようにすら感じる。
渦に巻き込んだのがゼーレならば、それを終わらせるのまたゼーレ。
温度を感じさせない声が、豪風に支配された耳に、なぜか聞き届く。
『――颪』
まだ、加速するのか――!? 僕の驚愕をよそに、体を叩く風の勢いは、留まることを知らない。
ついに体の角度はほぼ垂直に、だがまだ一切の減速は無く、加速加速加速。
そして――衝撃。全身から血風が吹き上がり、激痛が体を駆け巡る。
すぐに再生は始まるものの、あまりの損傷に、欠片も体が動かせない。
怒りは依然消えていないものの、物理的に動けなければどうしようもない。
そうして僕が呻いている間に、ゼーレは大きく一歩飛び退き、胸元からパイプを取り出し、吹かす。
普段なら、何とも思わない、その見下した態度が、吸血鬼の僕には我慢ならない。
血が煮え立つような熱量が、身体の中心から湧き出、ズタズタになった僕をあっという間に再生する。
一瞬で五体満足となったこちらを見てなお、ゼーレの態度は変わらず、煙と戯れ悦に入っている。
地べたから見るその光景は、八つ裂きにしてやりたいほど屈辱的。
憤怒によって、血管が破裂しそうなほどの血量が脳髄に送り込まれ、その血を喰らい神経電流が電圧を上昇させる。
引き起こすのは知覚の延長、肉体の反射速度上昇。
煙は口元で塊となったまま広がろとはせず、奥の林は一向に風に揺れる気配がない。
代わりに、筋力は鬼と同程度に成り下がり、再生速度は常より劣る。
身を起こす体が笑いたくなるほど重い、内臓の痛みは中々薄らいでくれない。
だが――問題はない。体から抜けた血は、目の前の男から吸えばいいのだから!
いまの己の最速で、憎き仇へと突撃する。ノロノロと進む世界で、ゼーレの右拳が無造作に振るわれる。
遅い、遅い遅い遅いぞ――! 僕の体もかなり鈍いが、お前は僕に輪をかけて遅い!
ちょうど顔面を狙った掌底を悠々潜り抜け、鋭く尖った爪先をゼーレの首へと突き出す。
殺った――!
『残念――掌底破城撃ッ!』
体内を駆け巡る衝撃は、決して外へ逃げようとはせず、あらゆる内臓に爪痕を残す。
思わず、体をくの字に向けると、すぅと引いていく左手が見える。
右はフェイント、本命は左だったのか、クソッ!
経験、技術、思慮、不足してるものは多い、だがそれらを退いて上回る耐久力が僕にはあるはずだ! 前もそうしてどうにかしただろう!
再生も半ばに、愉しそうに不愉快な笑みでパイプを吹かすゼーレへと殴りかかる。
『あっはっは、恐い恐い。いちいち風唸らせて殴りかかってくるの止めてくれないかなー。
俺ってそんなに戦闘って言うのが得意じゃないのよ、そりゃお前みたいな学生さんに負けるほどじゃないけどさー。
おっと、うるさいって顔してるね。分かった分かった、さっさと本題に進みましょう、そーしましょう』
僕の拳打、手刀、蹴撃、全て一つ残らず捌き、躱し、いなしてゼーレはパイプを加えたまま、場に不似合いな明るい声で話しはじめる。
『ユスティくんは今、俺に首ったけな訳だが、それは俺が悪い人だからか、それともお前にとっての仇だからなのか。
自分自身では分かっているつもりなのかもしれないが、それが真実とは限らない。
だって、そうだろう? 物事は客観的に見つめる必要がある、お前の状態をお前が理解したと主張してもダメなのさ。
この例えが分かればいいんだけど、ほら、自分の体は自分がいちばんわかってる! なんて言う人に限って倒れるじゃん? そんな感じさ』
言わんとすることは分かる、今の僕を見たら誰しもが暴走状態にあると判断するだろう、例えティアナ嬢であろうとも。
容疑者がやっていないと言おうが、信じられないのと一緒だ。
囚人の無実を訴えるには、それを証明できる第三者、ないし物証がいる。
だが、そんな話をいきなり始めた理由が分からないし、
『お前に言われる筋合いも――ないッ!』
砂塵を巻いた蹴撃はあっさりと胸を反らして躱され、続く左後ろ蹴りも右手に逸らされ、右の拳打、左の肘打ちと全て防がれる。
反撃は、してこない。だからなお、イラ立ちを増して襲いかかる。
拳を開いて獣のごとく薙ぎ払い、牙を見せつけ威嚇、時には本当に喰らいつこうと飛びかかる。
全ては、無駄だった。爪は服さえかすらず、牙は絶妙な角度で放たれる手刀に折られる。
牙はなくとも、とそのまま喰らいつこうとするが、手首のスナップだけで放たれる裏拳に口内をかち上げられて、たまらず三歩下がる。
『ま、そりゃお前からしたらそうだろうけどさ。俺だって慈善事業でやってる訳じゃない、依頼人が居る以上、退く訳に……』
ゼーレの戯言を、下に喰らいつくような突進で打ち切る。
煙混じりのため息を吐き、ゼーレが慣れた素振りで足を浮かせる。
蹴りで打ち上げる気か? なら問題なし、いまの僕なら一直線の打ち上げならば躱せる!
加速のため地面を蹴りつけると、庭の芝をめくり上がる。その甲斐あって、地面から返って来た力は、強く僕の体を前に押した。
しかし、ここで蹴り上げるにしては、浮きと角度が小さいことに気付く。あの軌道では地面に――ッ、くそ!
案の定、巻き上げられる土砂。僕の体を前に押した味方はいま、全身を阻む弾幕となって立ち塞がる。
『大体、この話はお前の損になるわけじゃない、どころか為になるくらいさ――"万変流格闘術:柳に通風"』
巻き上がる土砂を抜けかけた所で、後頭部を鋭い蹴撃が襲う。
結果、僕は前へ行く勢いそのままに、ゼーレの背後へと自ら地べたを転がる様となる。
地混じりの砂を味わいながらも、どういう動きで何をされたのかを確認する。
土砂で視界を潰して、前へ一歩、砂を蹴りあげた足の踵で打ち流す――大した、技量だな、えぇ!?
脇目もふらず、立ち上がってすぐ突撃。まるで愚犬のようだと自嘲する自分がいるが、体は構わず右の拳を掲げる。
捻じりながら放たれた拳撃は当然、ゼーレの巧みな手さばきに寄って空へと誘わられる。
そして、ここでゼーレが一服。間近で吐かれた煙が目を刺し、鼻を麻痺させ、肺を蹂躙する。
『だから、ま、殴りかかってきてもいいけど、耳は傾けておいてくれよ。
話を戻すけど、さっき言ったように、異能を扱いこなせてるかどうか云々は、お前の判断することじゃない、第三者だ。
とりあえずいまは俺だな。そして、段々お前の身近な人から順に認めてもらい、本番はそれこそ上流貴族。
お前が公認で、その黒き獣の首輪とやらを解けるようになり、なんだったら常に外してても無問題。
そうなったら、最高だ! お前は長年繋がれてきた首輪を外され、自由にこの世を謳歌できる! ビバ現世! ビバ自由! ってな。
その為に必要なのは、重ねて言うが証明だ。お前の所為じゃないが、今までの歴史がある以上、信用を得るのは大変だ。
だから、まずは俺。お国への報告義務もなけりゃ、学生服着てるような吸血鬼如きに負けることもない。
そして何より、証明が容易く、第一ステップが踏み出しやすい。怒りが大事なんだよ、ユスティ君。怒りそのものではないが、怒りがね』
『ゴチャゴチャとうるさい……!』
『よしよし、その調子だ。怒れよ、怒れ。一撃一撃に全力を注げ、必死、無我夢中、全身全霊、そういうのを俺はお前に求めてる。
お前が異能に組み伏せられて、俺に殴りかかっているなんざ、思ってないさ。
どうせ気づいていないだろうが、"変化"はすでに起きている。お前に気付かせる時が楽しみだよ、せいぜい間の抜けた顔をしてくれ』
愉快愉快と笑い、ゼーレが舞うように僕の拳を受け流す。袖にされる、とはまさにこの事、僕の全力が巧みに躱される。
いや、それはそうだろう。袖に利あるは拳ではなく、爪。
打てどふよふよひらひらと避けるなら、いっその事切り刻めばいい――!
消えぬ怒りのまま、目の前に爪を縦横無尽に振り回す。風が斬られて叫びを上げ、煙が叫びに巻かれて消えていく。
チリ、チリっここに来て徐々につめ先が服や髪へとかすり出す。
――今までのこと、無為に非ず、怒りに曇った眼に光明が差す。
あと少し、あと少し――一歩一歩踏み込み、爪を僕は振り下ろす。
◆◇◆◇◆◇
『ハァッ……ハァッ……!』
『うーん、いい感じてバテてんなー。滝のような汗、必死な顔つき、いやーこれこそ青春だねー』
そして――一時間後。僕は未だ、ゼーレに一つも傷を負わせることが出来ないでいた。
むしろ、ここ十数分はまたもや服や髪にすら掠らなくなってきた。
いくら、吸血鬼とはいえ体力には限りがあり、常識外の力を出している以上、普段よりその減りは早い。
だが普段なら、こんなのは問題にもならない筈だ……!
いまは底を突いて入るが体力の高さも常識外、それに加えて吸血に寄る体力補給もあるのだ、まず体力がなくなるという事態はない。
が、その非常事態が今の僕を襲っていた。未だ沸々の燃えたぎる怒りも、もはや虚しく映る。
だが、憤怒の炎は消さない、消さない。まだ、自分の体の奥をずっと黒い何かに鷲掴みにされている気がするのだ。
戦ってる間、何度か意識が消えかけた――あれは、おそらく……異能に体を支配されかけていた。
奴の言葉を鵜呑みにするのは癪だが、怒りはどうやら本当に必要らしい。
だから、いくら疲弊しようと、怒りを絶やすな……! 目の前の男は、自分の手で仕留めなきゃ意味が無いんだ!
『ハァ……ハァァァッ!』
『ほい、頂き』
こちらの気合とは裏腹に、ゼーレは攻撃するこちらが呆然とするほど、何ともなしに渾身の爪撃を受け止める。
であれば、慌てて放った左の拳打が効する筈もなく、こちらもまた右手に受け止められ、微動だにできなくさせられる。
足もまた、同じ足に踏みつけられて封じられ、押せども引けども抜けることが出来ない。
焦ってジタバタすれど、一回の力が分散して行くだけで何も起きない。
せめてもと、殺気を込めて、ゼーレの顔を睨むと、奴が僕の顔に煙を思い切り吹付け、当然の反応として涙目に咳き込む。
ふん、とそのさまを見て奴が鼻で笑う、ここに来て初めて感じる紛れも無い敵意と軽蔑に、僕の背筋に冷や汗が一滴垂れる。
表面の態度こそ飄々(ひょうひょう)としたまま、奴は嘲りを込められた言葉を放つ。
『もう良いわ、お前。もう飽きた。一時間もこんな寒みぃ夜に、こんなことしてるのが馬鹿らしくなってきたわ
かわし続けて挑発してりゃ、少しはムキになって強くなるかと思いきや、ワァワァ叫ぶだけで、大した攻撃もしてこないしよ。
何なの、お前? あいつから貰った折角の命、捨てるような真似してこれかよ――ざけんな、クソッタレが』
パイプを吐き捨て、ゼーレが今までにない殺気がこもった眼差しで僕の目を覗きこんでくる。
恐怖で舌の根が乾き、なにか言い返そうにも歯の根が合わず、カチカチとマヌケな音を鳴らすだけ。
燃え盛っていた怒りは、情けないほどにあっさりと吹き消え、怯えが顔を出す。
同時に、心に巣食う黒の腕が舐めるように僕の中心を触り、舌なめずりして入り込んでくる。
この恐怖に逃れられるなら、と捨てそうになる意識を必死で繋ぎとめようとするが無駄、視界が徐々に黒く染まっていき――。
『逃げんなよ、良いか、てめぇが暴走したと判断したら殺す。本気で、殺す。
拾った命を自分で捨て、自分すらも臆病風吹かせて捨てた、そんなバカの墓標がここに立てられる。良いのかよ、それで! あぁ!?
守りたい女が居るんだろうが! 報いたい恩人が居たんだろうが! 仇が何だ! 取れもしねぇのに、命安売りしてんじゃねぇぞ!!
生き残りたいなら、魂を燃やせ、気にすんな、燃えカスになろうと残っていりゃ幾らでも蘇るんだよ。
何度も何度も、それこそ田舎の店の閉店セール並みに気安く、燃料にくべてる俺が言うんだ、間違いね無い。
だからほら、この程度の拘束解けよ。じゃないと、俺があいつに怒られるだろうが――!』
怒涛の勢いで捲し立て、ゼーレが外套の中から這い出た、第三の手を僕の首にかける。
徐々に、などと生易しいものではなく、最初からフルパワー。
気道が潰れ、喉の骨がミシミシと悲鳴を上げる、声帯が傷ついたのか、ただでさえ苦しいのに血がせり上がって来る。
仇が何だと、当の仇が言うなよ。命の安売りすんなというなら、首かけた手を外せ! 僕の商品に傷をつけるな!
矛盾してるんだよ、やってることが! ここまで命見逃してくれたんだろうが! 最後まで責任持って見逃せよ! 説教できるような身分じゃないだろう!
意識が朦朧とし、自分でも何を思っているのか、何がいいたいのか、何をしたいのかが曖昧になって行く。
バキリ、喉仏が砕けた音が遠くで響く。ゴポリ、気泡とともに血反吐が自分の口から垂れるのを、他人事のように感じる。
曖昧に曖昧に、広がっていく、薄まっていく、消えていく……そして、残るのはもはや風前の灯と化した魂。
今にも吹き消えそうなそれを見て、曖昧だった"意志"が一つの形に成って行く。
ここでこの灯を消してなるものか、我が魂ここで果てるものじゃなし。
――やりたいことが山ほどあるんだ、全部とは言わないが半分くらいはやらせてくれよ。
燃えろよ、魂。僕の体に生命力を、生き繋ぐための力をくれ――!
『こっなくっそォォォォ――――!!』
意識が覚醒し、どこから湧き上がったのが今までで最大の臂力が、万力じみたゼーレの拘束を引き剥がす。
その勢いのまま、すぐさま喉に掛かった腕を握り砕き、たまった血反吐を顔に吐きつける。
怯んだ所を、全力の体当たりで弾き飛ばし――場からの逃走を図る。
体を反転し、速度よりも土砂を巻き上げ、砂煙をまき散らすことを優先して林の中へ。
暗いのであろう林の中を、木を蹴りつけて間を縫うように跳ぶ。
お陰でわさわさ、わさわさと騒々しい、ご近所さんが居なくて――。
バサバサバサバサ、ガァーガァー……鳥が悲鳴を上げて、遠い星空へと飛んでゆく……。
お休み中にどうも失礼、こんど何か奢るから許してくれ。
背後には未だ"あれ"の気配を感じる、我を見失っていたとはいえ"あれ"と向かい合えていた、どころか手を出した事実が信じられない。
あんな、一人怨霊軍団なんか相手にしていられるか! 仇? 取りたいけど、"あれ"の仰るとおりまずは僕の生命が優先だ!
やられたらやり返せも良いが、例え成しても――返ってくるものが少なすぎる。
だから、今は逃げて、逃げて――生きる!
悔しさに涙して、自分の情けなさに怒りを覚え、林の中を疾走する。
ズキリ、と手の平に鋭い痛みが走り、じくじくと鈍痛がにじみ出る。爪が手の平を裂く痛みは、胸の痛みの万分の一にも満たない。
そうして、闇雲に駆け抜けて林を抜け出た瞬間――絶望の帳が目の前で降りる。
『随分と汚い真似してくれたな、俺の長年愛用してる一張羅に血が染み付いただろうが』
『……それは元々でしょう。かの悪名高き"無貌の者"が今更人じみたことを言うのは止めていただきたい』
恐いはずなのに、逃げ出したくて堪らないはずなのに。
どうやら、死を前にすると感覚が麻痺するらしい。何しろ、奴と僕の距離は大股三歩無い、今までの交戦経験からしてまず逃げることは不可能。
となれば、お話するしか無いと、頼むから死刑囚、お前はすっこんでろよ。
まぁしかし良かった、生き延びることを無意識に諦めてる訳じゃなくて、あんなに生きたいと思ったのは何だったのかということになるからな。
『言うなぁ、お前も。殺されるとは、思わないのか? ――レウス=フリートのように』
『質問に答える前に言わせてもらいますが……見え透いた、挑発は止めて、いただきたい。
質問への答えは……媚びへつらって、命が助かるようならそうしてますが、そーいうタイプには見えませんので』
『ふむ、ま、とりあえずは合格だな……今後、ちょくちょく叩いておく必要はありそうだが……』
『何のことやら分かりませんけど、とりあえずお目こぼし頂いた、ということでよろしいので?』
『ああ、そうだ。俺だって何も、餓鬼を殺すのが趣味な訳じゃないからな』
そう言って懐から、珍しい紙巻たばこの箱を取り出し、時死ヶ丘の坂へと向かうゼーレに、止せばいいのに僕は思わず声をかけた。
或いはこれが、結局、今夜魂の奥から押しやられた、死刑囚の最後の抵抗だったのかもしれない。
『――妖精族の子供は何人も殺した癖に』
僕の言葉に、ゼーレは何も言わずに立ち止まり、紙巻たばこを口に加えてマッチを擦る。
闇夜にほのかに浮かんだ顔には、哀しみや憎悪、憤怒に喜悦、あらゆる感情をはらんだ、泣き笑いのような表情をしていた。
スゥー……ハァー……。ゼーレの息とともに、ヤニ臭い煙が月の下で燻る。
ゼーレが手にした煙草《シガレットから、先端の吸い殻が零れ落ちかけた時、ようやく奴が口を開いた。
『妖精族の卵を潰しただけさ、誰に何を謂われる筋合いはない』
煙を上げる煙草片手に、丘の上へと痩せぎすな背中が去っていく。
僕はそれを見て、どうしても一言訊きたいと、声を投げかける。
『どこに行くつもりですか?』
『あー? お前の家に決まってるだろ、異能を制御する手段は追加料金、ちゃんと聞いてなかったのか』
『そ、そういえば言っていた気もしますけど……』
『ならそういう事だ、習っておいて払えませんは通らない』
『そ、そんなことが……!』
あってたまるか、その声は出てこなかった。出した所で無駄だと悟ったこともあるが――異能を制御する――その一言が、僕を思いとどまらせた。
それに、レウスさんの真実とやらも聞いていない。どだい、退かせるのが不可能なのだ、ならば散々利用しつくし――――。
『途中で投げ出さないでくださいよ』
『それはこっちの台詞だ、ユスティ』
互いに憎まれ口をたたき、坂の両端から登っていく。
こうして、僕とルフト=ゼーレは奇妙な師弟関係を結ぶこととなった。
それが吉と出るか凶と出るか、いまの僕には分からない。
だが、確実に言えることは――
『あ、煙草切れたから金貸してくれ、ユスティ』
この男とは一生仲良くできそうにないということだ。