第七十五話:開戦は閉ざされた世界により
溶けたバターが染み込んだトースト、カリカリに焼かれたベーコン、ほんのりと甘い香りを漂わせる紅茶。
そんな普段通りの朝食が今日はひどく味気なく、もそもそと口に運び飲み下すだけの作業になっている。
『不味そうに食べるなテオドール、恋でもしたのか?』
『頭の中が一人の女性の事でいっぱいいっぱいなのは間違いないですね』
人の悪い笑みをレウスさんに対して自分の頭を軽く叩きながら答える。
『昨日の女性がまさかティアナ=バッハシュタイン……かのバッハシュタイン卿のお嬢様だったとは』
鬼人族には鬼族としては珍しく王族や貴族などのいわゆる上流階級と呼ばれるものが存在する。
だがしかし、これは無理もない事だ。鬼人族にとって血とは即ち魔力であり、血統とはその証明である。
実力主義に基づく血統主義。性質が悪い事この上ないが、鬼人族が力を保つためにはそうする他無かったことも事実。
過去に上流階級と俗に平民と呼ばれる下流階級の婚姻が無かった訳ではない、が概ねそうした一族は没落している。
バッハシュタイン家はそんな中で数少ない成功を収めた家系である。
かの一族は政治に軍に経済に密接に関わっておりその影響力は一目置かれている。それでいて下々の民に優しく人気もあり、お抱えの私兵からは絶対の忠誠を誓われ、同じ上流階級の人間とも概ね良好な人間関係を築けている……我ながらどんな妄想だと頭を振りたくなるが事実の為そういう訳にも行かない。
これは余談だがアルニム家の庭師であったベンヤミン=アルニムが、その当時の戦争で夫をなくし未亡人となったクラウディア=バッハシュタインの心を射止め、二人が数々の障害を乗り越えて無事周囲に結婚を認めせたと言う話は多少の脚色を含めつつ今でも本、舞台、魔液晶……年代とともに媒体を変えつつもお茶の間を楽しませている。
ともかくそんなバッハシュタイン家の一人娘を僕は助けてしまっていた。
『だが家系ことはどうでも良いだろう、テオドール。君は同級生を助けたにすぎないのだから』
『その同級生ってフレーズが何よりも僕の頭を悩ましてるんですけどねぇ……!』
心底楽しげに励ますしてくれる心優しい同居人にひくひくと表情筋が痙攣する。
『何を悩む必要があるのだ? あぁ、もしや淑女を待たせたことが紳士として許せないのか? それは仕方がないだろう、ほらよく言うじゃないか、ヒーローは遅れてやってくると』
『誰が許せないって同級生相手に淑女だの、紳士として~だの。言ってしまった昨日の自分がこの上なく許せませんよ! ああ……学内ですれ違う時どんな顔をすればいいのやら、そうじゃなくとも正体がバレたら……!』
食事をしていた事も忘れて頭を抱え、手についたバターが髪に着くので慌てて両手を離す。
そんな僕を見てクククと声を漏らてレウスさんが一口コーヒーを啜る、滑稽なほど狼狽える僕とは対照的な冷静で動じない態度からは頼り甲斐のある印象を僕に与えた、左手の疼きとともに。
『よく考えろテオドール。私には見慣れ聞き過ぎた軽口だが恐らく学校の皆々はそもそも君の声すら覚えていない、だろう?軽口を叩き格好をつける左手目隠しの男と寡黙なテオドールを結びつけて考える者など居やしない』
『ま、まぁ言われてみればそうですけど』
侮辱罪に対する手頃な刑罰を思い返していた所に突然もっともらしい発言を突っ込んでくる、狙ってやってるとしたらこの人に口で勝てるようになるのは十年は掛かりそうだ。
『注意するとしたら、それこそ君が今見たく狼狽えないことだな……クク』
振り上げそうになった拳を下ろした途端にこれだ、どうもこの人は性根が腐っているようだ。
『君の悩みもさぞ重大なことではあるのだろうが、今はこちらの方が重大だな』
そう言いレウスさんが笑みを消して食卓の中央に新聞を放る、見出しには"月攫い、正体は人間だった!?"と書かれている。
『昨夜の私たちは随分とお手柄だったらしい』
ふん、と鼻で笑う様からは到底そう思ってるようには見えない。
『普通の誘拐犯って可能性も一応ありますけど』
半眼で紅茶を啜りながら言う。
『お前の子供は預かった、とでも? 子供の声を聞かせて! などと返せるのは人語学者ぐらいのものだろう』
『何が目的なんでしょうね』
『さぁな、本当にそうだったらろくでもない目的なのは確かだ』
『……人間が月攫いだったとしたら今まで捕まらなかったのも納得ですけどね』
『何せ人間は――』
『――魔界には無い小型の"重層結界"を使うからなぁ、授業変更して再講義及び実習 つー訳だ』
『うぇーだっる』、『なんで今更』などゼルフ教師の気怠げな声に同調して教室のあちこちから不満の声が上がる。
『はぁー……俺だって面倒なんだから勘弁してくれ、ったくなんでこんな時に授業入ってなよなー』
ブツブツと愚痴を零しながらも赤のチョークを手に持ちやや潰れた文字を黒板に刻んでいく。
『っー訳で今日の講義は"重層結界"生物専門の俺からしたら埒外もいい所なんだけどなぁ』
だが、と不愉快げに口を歪めつつ教師が話を続ける。
『重層結界、このタイプの結界は一言で言ってしまえば模して重ねる。四本以上の楔型術具を地面に刺し、四つめが刺さった時点での囲われた空間を二重化する事が出来る。図に表すと……』
まずは白のチョークを取り出して立方体を作図、そこと全く同じ位置に赤の点線で同じく立方体を描く。
『こんな感じだ。通常俺達がいる空間が白の立方体、赤で書かれた方は重層結界で作られた空間であり結界に対応した"調整鍵"が無ければ入ることが出来ない』
大雑把な鍵を黒板に描き、その上に調整鍵との文字が書かれる。
『要はあれだ、無線とかラジオとかと一緒な。波数合わせねーと入れない空間を作るのが重層結界。
そして、二年前から人間共がこいつを使い始めたせいで戦争が激化、"第二次人魔大戦"の勃発と相成ったわけだ
で、何でこいつが使われた所為で戦争が激化したのか、そうだな……バッハシュタイン、説明』
『はい』
肩甲骨辺りで切りそろえた明るめの金髪をたなびかせ、僕が悩ってやまない女性――ティアナ=バッハシュタインが立ち上がる。
改めて陽の下で見ると目鼻立ちが整っていることがよく分かる、纏う雰囲気もこの年特有(同い年だが)のすれたものを感じない、子供っぽいとも言えるのかもしれないが。
しかし、昨日あんな目に合ったというのに朝の質問攻めにも笑顔で答えていたし、いまも至って普通に授業を受けているどうにも芯の強さは先祖代々受け継がれているらしい。
素直に感嘆しつつ穏やかな声に耳を傾ける。
『今までの人魔大戦は大戦などという名前を付けられているにも関わらず、戦争の規模にしては被害が異常に少なく、五十年たっても勢力図が殆ど変わらないという奇妙な戦争でした』
五年ほどの前の記録では魔王が現れる前、六大種族間で勃発した戦争よりも月平均被害が少なくなっていたなと教科書の知識が引っ張り上げられる。
『何故この様な戦争になったのか、原因は一つ"境の大山脈"の所為です。あの山脈があるために"門"が不安定な魔界側は物資の輸送がままならず、人界側は"結界"が不安定な為に拠点を作ることが出来なかった。
図らずも互いの技術を求めるような形になり、結果として戦力が均衡していたわけです。当然、早期の内に互いに相手側の技術を盗むことを考えました。しかし……』
宗教がそれを邪魔した、と言葉を内心で続ける。魔王教の教えに"弱者の言語、学ぶに当たらず。学ぶ者、これまた弱者"というものがある。口語訳すれば"人間なんて弱い種族の言語学ぶな、学んだらそいつも弱者な"となる。
経典には弱者イコール人間の様な書かれた方しているため、これを破ることは人間扱いされる事と同意義だ。
まぁ人界にも同じような教えが合ったことはつい近年の研究で分ったのだが。
『……という訳で両界とも互いの技術を盗むのは不可能でした。――二年前までは』
ピタリ、と音が止む。意図的に作った間だ、つい先程の不満の声を上げた同級生たちもこの時ばかりは口をへの字に曲げ、屈辱に耐え忍ぶような素振りを見せる。
ような、は余計か。間違いなく彼らは耐えているのだ、一部とはいえ初めて魔界が恒久的な支配を受けた土地が鬼族の領土であったと言う屈辱に。
まぁ妖精族からしたら『お前たちの領土じゃない、自惚れるな!』とでも言われるだろうが。
『あの事件を切っ掛けに魔王教を"門"の時以来の戒律の一部緩和を通達、捕えた虜囚への尋問が可となりました。
結果、屈辱的ではありますが魔界の技術力が飛躍的に上昇、再び戦況を拮抗状態に戻すことができました』
日常的なもので言えば街灯も戒律緩和のお陰だ、最も誰もそのようなことを分かってはいても口に出したりはしないが。
『が、それは互いに戦線を伸ばす事が可能となった事を同意義。魔界において鬼族の国土はかつての二割減、人界の領土を合わせれば元々の領土とほぼ等しいですが、人界の領土は資源に恵まれておらず国力は低下したと言わざるを得ない状況です』
『……おおう、まー随分と丁寧な説明だったな、ありがとう』
思いの外詳しかった説明にゼルフ教師が目を白黒させたまま軽く頭を下げる。
教師がそう簡単に頭を下げていいのかとも思うし、彼女の説明には一つ問題がある。
『けど、俺が尋ねたのは戦争が激化した原因だ。もう少しそこだけを抽出して説明してくれてると、一層良かったな。あと、国力が低下したなんて他の先生方の前では言わないように』
ゼルフ教師以外に今の説明をしていたら厳重注意を食らっていたところだ、この学校は軍部とのかかわり合いが深い迂闊なことを言えば何をされるやらだ、そうじゃくとも教室の雰囲気は若干険悪になっている。
軍人の家族がいる同級生からしてみたら、家族を馬鹿にされたのと同じように感じるのかもしれない。
『す、すいません』
教師の指摘にばつが悪い顔で頭を下げてティアナが着席する。
『あ……』
その態度にら忘れていた記憶が甦り思わず声が漏れる。
僕が小学生の頃、彼女は僕は声を掛けられた事がある、罵られるでもなく殴られるわけでもなく怯えられるでもなくだ。
まだ小父さんや小母さんにすら心を開いて無かった頃の話だ、ポッと出てきた女の子が信用できるはずもなく酷く手荒に追い払ったような覚えがある。
中学生の頃もだ。彼女は声を掛けてきた、僅かに怯えつつも懸命な笑顔で。その時もやはり僕は追い払った、小父さんや小母さんを馬鹿にされ怒っていたような記憶がある、そいつらの仲間かと罵った記憶も。
今の学校に入ってからは……苛められ始めた辺りに心配して声を掛けられたような気が……。
なんかいつも間が悪い時に話を掛けてくるなぁ、僕が全面的に悪いのは間違いないのだがもう関わるのをよそうとは思わないのだろうか? そもそも殆どの同級生は無関心を決め込んでいるのだし。
『――テオドール!』
『うわっ?! な、なんですか?』
『なんですか、じゃあねぇ! 説明が終わった後は戦闘訓練だからさっさと着替えろ』
言われて辺りを見回してみれば大方の同級生は皆もう着替え終わり教室から出て行こうとしていた。彼女もこれぐらいしてくれれば乗り遅れることもなかったんだけどな、と内心で軽口を叩く。
『またぼーっとしてやがるなぁ? ったく、お前が来ないと説明できないんだからな急げよ!』
そう言い残して戦闘館へと走っていくゼルフ教師の背をぼやっと眺め僕は戦闘服の袋から取り出した。
『そんじゃ、お前らひとまず調整鍵を置いてくれ』
肌に吸い付く様な戦闘服に身を包んだゼルフ教師が整列した学生の前で告げる。
声はドーム状の建物内に響き渡り、緩々と消えていく。ここは戦闘館、行事や授業に合わせ大小様々の重層結界を展開する事ができる場所だ。
『今から重層結界を張る、各自自分が最も集中出来る構えをとれ。行くぞー』
呑気な声を合図に教師がカチリとスイッチが硬い音を鳴らした瞬間――ぞわりと拭いがたい違和感に肌が粟立つ、知らずの内に禁忌を犯してしまったようなこの感触は何時まで経ってもなれる気がしない。
『分ったなー。戦闘場の結界は規模が大きいから分り易いが実際に使われている結界はもっと小規模だ。もし今の似た感触を味わったら即刻その場を立ち去り衛兵に報告する事』
ゼルフ教師がどんな大根役者よりも白々しく注意事項を述べて早々に次に移ろうとする。
が、そうはならず今となっては懐かしの三人組のリーダー格アドルフに口を挟まれてしまう。
『そうは言うがよゼルフせんせー、当事者曰く人間共を捕まえたのは左手目隠しの男とか言うヒーロー気取りらしいじゃねぇか? 声とかも俺たちと同世代っぽかった見たいだしよぉ』
逃げなくても俺なら叩きのめしてやれるぜ、そう直接言えばいいものを左手目隠しの男を引き合いに出すのは止めて貰いたい。
大体襲われてのはつい昨日の事だと言うのに無神経にもほどがある、最もそれに関しては朝っぱらから席に集まってた他のクラスメイトも同罪だ。
『アドルフ、あまり相手を甘く見るな。仮にお前らと同い年の子供にやられていたとしても、やられた人間が弱いとは言えないだろ?』
表に出せない怒りに左手を忙しく動かしていると滅多に見ない真剣な表情で教師はアドルフを諭そうとしていた。
『……何でだよ』
教師の態度に気をされたのだろうゴクリと一つつばを飲み込みアドルフが何とか言葉を絞り出す。
『世の中にはお前らみたいな生活が送れねぇで、小っせー時から自分の手を汚すような事してきた奴も居るって事だよ』
目を伏せて『分かるな?』と沈んだ声で語りかける。さすがに空気を読んだのかすごすごと頷きアドルフが肩身狭くその場で体を小さくした。
『よーし、それぞれ四人ずつに分かれたな!』
広い戦闘場でもよく響く声に散ったクラスメイトが皆が声を揃えて肯定の意を返す。
『では、調整鍵を各結界の値に合わせて結界内に侵入せよ!』
『『『了解!』』』
再び場内を意気に満ちた声が轟き、チャキチャキとつまみをいじる音で忙しくなる。
『よし』
先ほど確認した値にダイアルを合わせて調整鍵の起動、拳をニ度三度と鳴らしてからシールで引かれた"境界線"を跨ごうとする。
足先から伝わる風船の様な危うい弾力的な抵抗を無視して一歩結界へと踏み入れる。
瞬間、目の前でフラッシュを焚かれた様な錯覚を感じ反射的に体が硬直する。
眩しくもないのに何度もまばたきを繰り返し、肉体と精神から緊張を溶かし落ち着きを取り戻させていく。
落ちついてみれば自分が立っているのは地面の上で、間違いなく境界を一歩超えた予想地点の上だ。
けれど本能的に分かるここは違うのだと、本来居るべき場ではないのだと。
何となしに不気味、何も動いていない気がする、何もかもが死んでいるような気もする。
『け、まさかお前と当たることになるとはよぉ』
言いようのない乾きを見せる景観の中に一滴泥水のような潤いが与えられる。嘲りを含んだ笑みは不快ではあったが、こんな空間ではそれがまた生き物らしくて取り残されたわけではないとほっとする。
『僕に当たった訳じゃないでしょう、他にもティアナ嬢もいる』
夜の時とは違う冷めた声色を意識してやや遠くにいる女性を手の平で示す。
いじめっ子に元いじめられっ子の似非ヒーロー、側には左手目隠しの男が助けた女性。
唯一の三人班に加え狙いすましたかのようなこのチョイス、どうにも神様は囚人がよほど嫌いらしい。
『ま、誰だって囚人は嫌いか……』
空を仰ぎたくなる気持ちをため息で吐き出し、不愉快そうにこちらを見るアドルフを真正面から見つめる。
『んだよ?』
『な行の発音をやり直してきたらどうだい?』とでも言ってやりたい所だが、
『そろそろ始めよう。結界に入る前の指示通りまずは武術戦で次に魔術戦、そして最後に総合戦。ここは三人だからローテションでやって、余る一人は審判をしよう』
『ふん、ズィンダーの癖に偉そうに……』
『アドルフ君、とりあえず今は戦闘訓練しよう、ね?』
気品に満ちた一級品の作り笑い。危うく惚れてしまいそうだ、いやあまりの見事さに惚れぼれとしてしまったから手遅れか?
『ティアナ嬢に言われちゃあしょうがねぇなぁ、おいズィンダーさっさと始めるぞ。相手してやるからさっさと来いよ』
自分に向けられた笑顔にニヤついた顔でちょいちょいと指を動かし挑発を重ねる。
なんというか、哀れというか呆れたというか……ともかくイライラしないのはありがたいことだ。昨日は随分と左手を使ったお陰で感情が動きやすいからなぁ。
『分かりました』
無駄に力んだ拳を作り今だけは師匠の教えを忘れ、適当に作ったチグハグな構えを取る。
『ぷっ、なんだお前その構え、前よりもひどくなったんじゃねぇの?』
あからさまな侮蔑を無視してアドルフの方へと一直線に駆ける。
何の戦術も練っていない愚直な突進。レウスさんに会うずっと前から繰り返してきた事、今でこそこれは実力を隠すためなどと格好付けれるが、会う前までは拗ねた子供の駄々っ子だった。
毎朝走りこみをした、体を鍛えた、木偶と本を師に技を磨いた。
それでも勝てなかった今と同じ武術戦ですら惜敗とすら行かず、魔術戦は論外な上総合戦は惨敗という文字すら可愛く思える程。
何より、こと僕に限っては戦闘訓練は訓練ではない。
刃を潰しているはずの訓練用剣は新品その物の様に鋭く、放たれる魔術からは手加減の痕跡は欠片も見当たらない。
普通ならこんな事をすれば学校の不祥事なんてレベルでは済まされない、衛兵沙汰も充分にあり得る。
相手が僕でなければ、と付け加えるとどうにも自意識過剰な被害妄想のようで小恥ずかしい。
だが事実だ、僕に対して危害を加えることは暗黙の了解でおおむね許可されている、お陰でいまのような郊外の丘の上に家を移したぐらいには。
多分――父親を殺した僕が許せないのだろう国民の殆どが。
あの人は公正だった、屈しなかった、善良だった――英雄だった。
公正だったあの人はただ一つ善と悪だけに区別を付けた。
それがいかに自分勝手な価値観であると分かっていても、悩んでいても決してその区別を変えようとはしなかった。
小父さんや小母さんすらも含めたあらゆる人があの人の事を強いと思っていた、僕があの人の妻を殺した時もあの人は懸命に動揺を抑え、殺人者を愛そうとしたと。
だけど僕だけは知っている、あの人はどこまでも唯の人でその中でも特に弱い人だったのだと。
あの時のことを今でも後悔しない日はなく、あの時ほどの恐怖と嫌悪感を覚えたことは今までにない。
『スゥゥ――』
深みに入り掛けた意識を息吹にて払い、視界を懐古的なセピア色から現実のフルカラーへと戻す。
思い馳せていた時間は体感よりもずっと短かったようで僕はまだ剣の範囲にも入っていなかった。
とは言っても、残りは一歩二歩程度。後はいかに上手く斬られるか、出来れば一発退場の木っ端役者でありたい。
『おらぁ!』
乱雑な手つきで剣が引きぬかれ、そのまま水平な斬撃へと移行する。
対するこちらの反応はバックステップによる回避、本来ならスライディングで抜けたいところだがそうアクロバティックな真似をする訳にも行かない。
かと言って胴体真っ二つは色々な意味で歓迎できないので後退せざるを得ない。
『ふふん、さすがにこの程度は避けるか』
剣の握りを固くしてアドルフが鼻で嗤い、僕がわざとらしく悔しげに眉根を寄せる。
ちりちりとした空気が流れる中、審判がおずおずとした声で水を差してきた。
『アドルフくん』
『んだぁ、ティアナ嬢』
『ごめん、もしかして何だけど……それって真剣?』
もしかして、などとは到底思っていない声色でティアナが尋ねる。ハッキリと反感を感じさせる声色と言い換えても良いかもしれない。
『んな、あったりめぇな事聞くなよ。こりゃ真剣だ』
声にこもっている敵意を感じ取ろうともせずにアドルフが答える。
嫌な予感がする。先ほどの教室での説明といい今までの僕に声を掛けた時といい、この淑女は決定的に、
『今すぐにその剣を置いてください、訓練での真剣使用は禁じられているのを知らないのですか?』
空気を読むのが苦手だ。間が悪いとも言える、大貴族の一人娘としてそれは問題があるんじゃないかなぁと一瞬考えると同時、さしあたって目の前で問題が生じるじゃないかなぁと現実逃避気味に思う。
『お、おいおい冗談キツイぜぇティアナ嬢ぉ。相手は死刑囚だぜ?』
遅れてティアナが本気で言ってることに気づいたアドルフがおどけた態度で応える
『だから? 規則は規則でしょう』
『よく考えてみろよ、こいつは斬ろうが焼こうが殺そうが元に戻るんだぜ?』
目を泳ががせながらペラペラペラペラと抗弁を重ねていく。
さもありなん僕に何をしてもいいというのは飽くまで暗黙の了解だ、実際に教師(或いは衛兵)に見られた場合は多少なりとも罰を受けることになる。
だけど、このタイプの人には口を重ねるとどんどん状況が悪化していくと思うんだけどなぁ。
『ほら! ちっせー頃教えてもらったじゃねぇか死刑囚は"死刑"以外では死――』
『もういいです、ゼルフ先生を呼んできますからそのつもりで居てください』
呆れた様子で声を遮りきびすを返して境界の外へと向かおうとする。
『レディそれは迂闊過ぎると思うんだけどな……』
案の定、アドルフは目を白黒、顔を青くしたり赤くしたりした後キッとティアナの背中を睨む。
『しょうがないなぁ……!』
言いつつも僕の顔は喜色ばんだ苦笑、踊った声も我ながら気色悪い。もちろん今からする事がいかに不味い事かは理解している。
『でも、僕はまだ子供だ』
たまには後先考えなくても良いだろ?
『フッ』
短く息を吐きだして姿勢を低くなるべく音を出さないように駆け出す。
視線の先では『おい』とアドルフらしい粗野な手つきでティアナを強引に振り向かせていた。
『いい加減にしろよ』と怒気を隠さないドスの利いた声で脅している様は同年代に見えないほど人相が悪い。
『おっと顔で人を判断しちゃいけないな』
こぼれ出る軽口はボランティア時のそれになっている、自重自重と笑いながら戒める。
『嫌です。それよりもこの肩の手を離してください、厳重注意じゃ済まなくなりますよ』
『この女ぁ……!』
自分の脅しに一切怯まない眼光が気に触ったのか肩に置いた手には目に見えて力が込められ、空いた左手はギリギリと固く握りしめられている。
互いに見つめ合う男女、双方に退く気配はなくかと言って近づく気配もない。あと一歩踏み込めばそんないじらしい距離の二人に――
『当事者抜きでの話は止めて貰いたいなぁマネージャー』
隣から無粋に割り込んだ。
一週間更新って難しいですね……(白目)