第十八話:焦り
最初に感じたのは、紙で切った時みたいな身の竦む鋭い痛み。
一刻に及ぶ追走の果てに、熱だけが残った体から、その熱が見る見る間に、首から吹き出る血液とともに、流れだしていく。
糸を切られた人形のように、何の抵抗も見せず崩れ落ちる体を、丈の短い草むらが受け止める。
血を吸って重くなった服は、体にピタリと貼り付き酷く不快だ。地面から伝わってくる熱は、予想よりも冷たく身震いしそうになる。
チクチクと草むらが意地悪く肌を刺し、夜風がそんな草むらを柔らかく揺らす。
「け、見掛け倒しかよ、化物」
そんな俺に掛けられる微妙に高い男声。つまらねぇ、と言葉尻につぶやく代わりに声の主は、ぺっと生暖かい痰を俺の体に吐き捨てる。
コキコキと二度骨を鳴らしたかと思うと、鼻歌とともに男の気配と足音が遠ざかっていく。
お前の顔、覚えてるからな。ありがたく思え、箔が付くようにその中途半端な顔、ボッコボコの強面に仕込んでやるからよ……!
……ま、とは言え、冷静に行かないとな。事は俺以外の身にも及んでる。サササッとこっそり動き、チャラっと解決してしまおう。
気を抜けば覗く不安と恐怖に呑まれないよう、なるべく明るく気軽に内心で唱える。
そうしている間にも体を作り変化ていく。生々しい断面を世間様に見せてるであろう首の血管を塞ぎ、根と目を組み合わせて、死体を演じたまま(と言うか、肉体的には実際に死体だ)、周囲を見渡す。
視界は夜なりに良好、猫の瞳があってこそだが。敵影は無し、想像していたチョッピリ非合法チックな黒服さんは、どうやら想像の中だけだったらしい。代わりという訳ではないが、屋敷の陰にハネた泥に汚れた憎き魔操車。
魔操車を追いかけるために姿を変えて、当たり前だが途中でバレて、魔術を避けながら此処まで辿り着き、その挙句、先の男に足止めされてる内にまんまと二人を屋敷に連れ込まれ、人質にされないためまわざと殺される羽目になったかと思うと、いくら物とはいえ恨みつらみを言いたくもなる。
などと、此処に到るまでの経緯を思い返してる間に、斬り飛ばされ溶けた頭の代わりを生やして立ち上がる。
「ま、急造にしては良い出来か」
首を曲げて、表情を変えて、声を放つ。具合を確かめるための一連の動作を終えて、草むらに下半身を埋めながら屋敷へと近づく。
雲が月を隠してるせいで、辺りに降り注ぐ月光は薄く、夜闇は濃厚。
夜の帳、だなんて表現するのもよく分かる。未知への恐怖に踏み込む抵抗感、覆うようなその印象、ともに帳というに相応しい。
町外れだから当たり前だが、辺りは森閑としていた。鳥虫の鳴き声すら無く、風が草葉を揺らす音の他には、かすかな俺の呼吸音と足音だけ。
特に何の障害もなく、呆気無く屋敷の扉へと辿り着く。見張りが居ない事といい、不用心過ぎる。
何か裏があるのだろうか、そう思いはするがよくよく考えればこの屋敷は街から離れた(驚くべきことに、彼らには門番のお友達も居るらしい、羨ましいことだ)、しかも公道から脇にそれた場所にある。
下手に見張りを立てるよりも、打ち捨てられた別荘か何かとでも装うほうが良いのかもしれないな。
そんな理屈の蓋で、恐怖を閉じ込め、そっと屋敷の扉を押す。
それでもキィ、と軋む扉に口の中だけで悪態を吐き、わずかに除いた隙間からするりと中に進入する。
ブルリ、と肌が泡立つ。何時までたってもこういう雰囲気にはなれない、ましてや相手の本拠地となればなおさら、助けなければいけない人のことを考えると、焦りとプレッシャーから吐きそうになる。
外から覗いた印象とは違い、素の目でも足元を確認できるぐらいの暗さだった。と言うのも、足元に薄暗い魔術光の照明が設置されているからである。
取り付けられた場所は、窓の真下、床と壁の境目だ。これなら確かによほど近づくかない限り、明かりの存在に気付かなかろう。
ま、それもそのはずだよな。真っ昼間からこの屋敷と出入りする訳にはだろうし、事故を防ぐためにもこれぐらいの設備は取り付けてあるわな。
だけど、ここまでするならもう少し気がまわらないかねぇ、お陰で、どこに行ったかも丸わかりだ。
目だけで辺りを見回すと、ほとんどの通路に埃の絨毯が敷き詰められている中、道標のように埃が隅にだけ残った通路がある。
露骨な足跡はさすがに残っちゃいないが、それでも十分すぎるくらいの痕跡だ。
先からあまりに楽すぎて、どうにも引っかかる。いや、連れ添い二人をさらわれてる時点で後手には回っているのだが。
そうだよ、何を気にしてる。気を掛けるべきは、イレーナ達の身の安全だ。可能な限り素早く、かつこっそりとそう入る前に確認したはずだ。
スムーズに行けてるのはその結果だ。そうじゃなかったとしても、いまは進むより他はない。
足を止める、逃げる理由を探すな。いまはこの間抜け共が残した道を追えばいい、そして"遺した"にしてやるんだ。
口元を引き締めて、ずんずん先を急ぐ。自分の呼気が白く残るのを鬱陶しい、焦りは些細なことでも苛立つようにさせられる。
冷静に、冷静に、繰り返し頭のなかで呟く言葉は、いまでは舌を打ちたくなる衝動を沸き立たせるだけだった。
ならば止めろ、と言われるだろうが、結果的にこうして苛立ちを自覚させられることで、戒めとなっていたので止める訳にも行かない。
そうして、都合十何度目かと言う白い吐息が漏れた時、俺は一つの部屋の前に立っていた。
幾度か通路を曲がり、途中で床の照明が無くなりながらも、埃なき道を追い続け着いたその場所の名は、入り口に張られた札にかかれていた。
"酒蔵室"、どうもここは本当に金持ちの別荘だったらしい。
そして、
「悪党の隠れ家にはピッタシだ。お約束すぎて、笑えもしないな」
ため息を共に呟き、俺は一直線に一つの樽の前に立つ。
ご丁寧にもここにある樽には全て南京錠がついており、埃も払われているのだが、こいつだけ鍵口の部分が錆びてないのだ。
普段から、鍵を抜き差ししてるから当然なのだが、やはりいま一歩頭が足りない。
大体、なんで廃屋にある樽の全部に鍵がかかって、おまけに錆なしのピカピカなんだよ、おかしいだろうが。
なんで、こう読み物のお約束を守ってるんだ? この下の悪党どもは。もしこれでインテリ気取ってるなら、下の奴らは馬鹿共ばっかりだ。
だったら、そんな奴らに手をこまねいてる俺は間抜けの国の王子様か? 糞ったれ!
毒づきながら、鍵に半固体状にした右手を差し込み、中の形に合わせて固体化。
何度か形の微調整を行い、準備は完了。軽く捻って、
「アブラカタブラ、開けゴマってな」
ビンゴ。薄明かりが樽の隙間から漏れだしてる。音をたてぬように、そっと樽の底をスライド。
案の定、そこには金属製のはしごが設けられ、底には魔力燈の明かりに照らされた石畳。
薄い影が見えるから、恐らく近くに見張りが居るのだろう。
やれやれ、地下に潜むは四十人の盗賊ってか、さっさと盗られたものを取り返して閉じろゴマしてやりたいところだ。
……頼むから、まだ手を出していてくれるな。別にカッツェやイレーナがどうなろうが俺はちっとも気にしないが、殺人罪に問われるのは困る。
いくら悪党とはいえ、ここに居るの全員をさらし首にすれば、俺の首も危ういからな。
しかし、さてさてどうしたものやら。森や山などの屋外での隠形なら少しは自信があるが、あいにく屋内の隠形には自信がない。
こんな金属製のはしご、鳴らさずに降りるのはまず不可能だ。
鉄琴よろしく一曲奏でながら降りてゆけば、きっと大いに歓迎してくれるだろう。
刃に矢尻、魔術光に皆の笑顔、遅れてきた馬鹿への持て成しはバッチリだ。
従って、目の前の障害を超える、もとい、降るには変化をする必要がある。
音なく降り立ち、かつ近くにいるであろう見張りを打ち倒せる体に。それも、なるべく素早く変化れる奴に、だ。
頭のなかで、自分の知っている生物の形をモンタージュ写真の如く組み合わせる。
幾つか候補を絞り、今度は粘土のイメージでこね合わせて、最後の一つを採択。
とびっきりの仮装で決めて、パーティに参加するとしよう。ビッグサプライズだ、精々驚いてくれ――気を失うぐらいにな。
「変化――溶人」
結局、上半身は人と下半身は溶種。三年と十七年連れ添った体を組み合わせ、垂れるようにして穴を降りていく。
前半は粘度を落としてグッと早く、明かりが近づくに連れて減速。指先から蔦を生やし、小さな目の芽を付けて(洒落だ)下を覗く。
視界に映るのは欠伸した間抜け面の髭に、顔をこわばらせた青瓢箪。
目元にうっすら涙を浮かべた青瓢箪を、髭面が馬鹿にしながら笑い飛ばす。いつもの事なのだろう、互いに不愉快そうな様子はない。
話してる内容は……ふん、俺のことか。まー、ずいぶんとゴツイ格好で追いかけたから無理もない。
やれやれ、仕事が人さらいでなければ好感を持てそうなんだがな。職業のせいで、お前らの好感度は下の下だ。
だがまぁ、ひとまず殺しはしない。眠いなら寝とけ、恐いなら寝とけ。前者はいい夢を、後者は悪くても夢だ我慢しろ。
両手の人差し指を蛇の牙に変え、目と同じように蔦を使って天井を這うようにこっそり移動。
目を盗み、首筋に牙を一刺し。刺したと同時に麻痺毒と睡眠毒をミックスした、麻酔毒を注入。
「ほへっ」だの「ぐへっ」だのマヌケな声をあげて崩れ落ちる二人を、音が立たぬよう蔦で支えてゆっくりと床に横たわらせる。
そうして、ようやく床にスタリっと。……表現の偽装はよそう、実際にはベチョリだ。
溶種の着地などこんなものだ。上が人間じゃなかったら、核が砕けて御陀仏してる。
さて、とりあえず、この二人組は脇に避けておくとして……目の先にはいきなり分岐路だ、どうしよう。
一人は起こしておけばよかったと今更思うが後の祭りだ、後ろを振り返らず目の前の祭りの会場に進むとしよう。
下半身を元に戻し、靴を履かずにかわりに足裏を肉球に変化える。
男の汚い足裏が肉球になっても可愛くもなんともなく、気持ち悪いだけだが音を消すためだ止むを得ない。
ザラリとした砂の感覚に顔を歪めつつ、膝を使って跳ねるような走りで俺は分岐路を左に曲がった。
◆◇◆◇◆◇
当ても無く、途中途中にある部屋を探索しながら前へと進むこと、感覚にして十数分。
もう何度目か分からない曲がり角を、俺は失意と苛立ちがこもったため息をつつつ、右に曲がる。
――と、目の前に唐突に現れる、二人組。目付きの悪い坊主頭と、煙草を咥えた汚い金髪。
町中で絡まれればザ・チンピラだの何だの言って、馬鹿にしたであろう二人組だ。
唐突に現れたのは向こうにとっても同じだったらしく、声や警報を鳴らすこと無く二人は手に持った獲物で襲い掛かってきた。
獲物は共に刃渡りが微妙に長い短剣、部屋で使うにはちょうどいい長さの短剣だ。
その様子を見て俺は――ホッと息を吐き、頬を吊り上げ威嚇めいた笑顔を見せる。
危ない危ない、これでお友達の皆を呼ぼうとされたら、俺も思わずナイフを放っていた所だ。それはパーティーにしたって無礼講すぎる。
なにより、せっかくのパーティー、ビッグ・サプライズを届けたいんだ。一人ひとり、お前たちみたいにな!
壁に掛けていた右手の指先に力を込める。そうして強引に小さく曲がり、一気に敵二人へと近づく。
近くに居た金髪のナイフの出掛かりを潜って回避、後ろで身構えた坊主頭に急接近だ。
即座に防御態勢に移る坊主頭、ぞんがい反応がいい。とは言え俺は構わずに、一際尖らせた爪による左貫手を顔面に向けて放つ、放ち――寸でで動きを止め、振り向く動作で後ろに迫った金髪に裏拳。
壁と拳とでサンドイッチされた金髪は、白目をむいて崩れ落ちる。
慌てて逃げようとする坊主頭を、髪に隠れた俺の第三の眼が捉える。
むやみに襲いかかろうとせず、すぐさま逃げた姿勢は見事だったが、自分の身をもう少し気にかける必要があっただろう。
最初の牽制の時に放った、筋繊維混じりの蔦が男の手首には巻き付いてる。
どうせ掴むなら、涙を流して走り去ろうとする理想の女性が良かったんだけどな。
てきとーな軽口を内申でつぶやきつつ、坊主頭のナイフを枝分かれした蔦に弾き、同じように枝分かれした蔦で首を締める。
声と呼気を雑巾を絞って離す、絞って離す。生きるための呼吸で忙しいうちに近づき、今度は腕を首にかける。
先と違い、力は声がぎりぎり出せるほど。増やした蔦では力加減が難しいから、こうしてわざわざご足労だ。
右手にナイフを取り出し、坊主頭に問いを投げかける。
「なぁ、執事さん。パーティー会場に来たのはいいんだが、先に待ってるはずの俺の友人二人が見あたらないんだ。どこに居るのか、教えてくれればありがいんだが?」
「ば、化物め……!」
「そいつは何の冗談だ? とっても面白そうだが、あいにく俺の友人はどうにも気が短いんだ。端的に言って余裕が無い、分かるだろう? もう一度いう、教えてくれないか?」
「糞っ……たれ……! 手を、離せぇ……!」
「おいおい、耳が遠いのか? それとも頭のそいつはくす玉か何かか? かち割られたくなけりゃ、口を割れ。
良いか話さないなら、このナイフがお前のアソコを少しずつ切り落としていく、根本まで行けば、パンパカパーン! おめでとう、血と脳漿でお祝いだ。分かったな? 分かったら、さっさと教えろ、糞坊主」
「し、知らねぇ……!」
「よーし、バナナケーキに入刀だ。どれ位に入れたい? 先っぽだけ、先っぽだけ! なんて、童貞臭いみっともない事言うなよ? とりあえず、男らしく根本まで行くか? あ゛ぁ!?」
「クッヒぃ……わ、分かった、分かった! 赤色のは親分が持っていたから知らねぇが、もう一人ならそこの角を曲がった先の樽に入れてある!」
「その親分の部屋は?」
「下だ、ここの一番下にある!」
「オッケーいい子だ、ねんねしなッと」
左手に一際力を込めると、坊主頭は口からあぶくをあげながら白目をむいた。念のため行っておくが、死んでは居ない。
親切なおじさんに聞いたことを頭のなかで反復しつつ、二人のチンピラに麻酔毒を打ち込んでいく。
とりあえずはこいつで三十分は、グースカピーだ。イノシシで試した時はそうだった。
念のために武器を取り上げつつ、チンピラに言われた道順に進み、目的の部屋にたどり着く。
たどり着いた所で嘘を吐かれた可能性に気付くが、その時はあいつを叩き起こせばいいだけだ、とびきりの覚醒剤を注入してやる。
無作法にノックなしにするりと侵入、夜這いが如く、夜這いが如く。
樽の中身を覗いて一人ひとり品定めしていた下衆二人に対し、首筋にとびきり痛く牙を差し込み麻酔毒を注入。
一瞬、声を出させないよう筋肉だけ麻痺させて、叩きのめそうかとも思ったが、時間と労力の無駄なのでやめておいた。
真似するようでなんだが、俺も同じように樽の蓋を開けて回る。
皆が皆、服とも呼べぬただの布を着せられ、目隠しと口轡されている姿はひどく痛ましかった。
これらを解いて見目の良い女性から感謝感激されるのは悪くはないが、今はまだ静かに済ませたい俺としては不本意ながらこの状態のママのほうが助かる。
そうして、なんとも言えない思いを抱きつつ、樽を開けては閉める作業を続け、一番手前の左から二番目、空けた数にして丁度ラッキーセブンにしてようやく、見慣れた茶髪、見慣れた寝ぐせじみた横ハネの髪型が目に入る。
格好以外は特に何をされた様子もない事に安心しながら、樽から引き出して体を揺する。
幸いにも薬を盛られたりはしていなかったようで、特に苦もなく迷惑そうな声を上げながら、カッツェが目を覚ます。
「ん~……あ、は、え゛っ? 何でルフ……!」
「お前は囮になり、俺のヘマで捕まった。ここは人さらいの隠れ家で、騒がれちゃ不味い、分かったか? 分かったらな、まばたき二回だ」
カッツェの口を素早く塞ぎ、要点だけを一気に話す。カッツェもしばらくは事態を飲みこめず、キョロキョロと瞳を動かしていたが、やがてパチパチと二度瞬く。
俺がかすかに肩をすくめて手を離すと、案の定、カッツェがその大きな瞳を不満気に細めて、口を開いた。
「助けてくれてありがとうございます』
「嫌味は後にしろ。まだイレーナが捕まってる、この部屋じゃない何処かに、だ。そして、俺はそっちを助けに行きたい」
「だから、私にここの人たちを救助して欲しい、と。分かりました、戦闘系の魔術には自信はありませんが……なんとかします」
「地面の隅に印を付けてる、見逃さないように気をつけて進んでくれ。それじゃあ、またな」
「ええ、また」
再会を告げて、俺は振り返ることなく部屋を出た。
不思議と今なら、鼻歌交じりにでもイレーナを助けることができる気がした。
◆◇◆◇◆◇
「後ろ、後ろだよ! 後ろの道を真っ直ぐ言ったところ"遊戯室"って書かれてあるだろう!?」
血や涙でグズグズになった顔を歪めて、男はプルプルとまだ曲がっていない指の一つで俺の背後を指した。
素人判断ではあるが、嘘のようには感じ取れない。俺は「そうか」と一言だけ呟き、男の首元に牙を打ち込んだ。
眠たげに目蓋が落ちていき、やがて浅い寝息が聞こえたのを確認して、その場で踵を返す。
スゥ――小さく、深く息を吸い込み、ハァ――大きく息を吐く。
そうしてから、一歩前へと足を踏み込めば、ずんずんと勝手に体は前へと進んでいく。
手についた血を壁に擦り付け、具合を確かめるように指を折り、拳を作る。
拳へと落ちた目線を前へ戻せば、目の前にもう目的の部屋の扉がある。チラリと目を上に向ければ、確かにそこには"遊戯室"と書かれてあった。
遊戯室、か――反吐が出る、頭痛がする、手が痛い、奥歯が割れた、何かが切れたぞ、オイ。
息を震わせながら、作った拳で扉を軽く叩く、コンコン、質のいい木で出来た扉は耳障り良い音を経て――
「破城撃」
木っ端微塵となった。風船が割れたような破砕音が辺りに響き、追うようにして壁に叩きつけられた木片が耳障りな雑音を立てる。
たった一つの無機物が奏でる喧騒を無視し、木屑が舞う中を無言で進む。
靄がかった空間で辺りを一瞥する。壁には右と左、それぞれ五つずつ拘束具らしきものが備え付けられ、そのどれも今日はダラリと下げられ、誰かがその毒牙に掛かっている様子はない。
だが――奥にある、特等席らしき鉄格子に隔てられた場所に細身の人影が一つ。
そこを中心として、幾つものがっしりとした人影がゆらりと立っていた。無言の俺と、呆然とした様子の影達の間で、無為な時間が過ぎていく。
靄が晴れ、影は消え、姿形が明らかになる。影の性別は一人を除きみな男、そのどれもが一糸も纏っていない。
除かれた一人――――彼女と同じように。
彼女は着ていた衣服を乱雑に切り裂かれ、そこに居た。手首足首を鎖に繋がれ、体に無数の傷跡を刻まれて。
猛る炎の強さと暖かさを思わせる赤髪、優しさ含んだ涼やかな目元、一本筋の通った高い鼻に花弁のような唇、小振りながら形の整った胸、スラリとそれでいて女性特有の柔らかさを持った脚が――――白い体液で汚されている。
動揺はない、想像はしていた。ただ、痛い。ハリボテの心臓が狂ったように脈を打ち、偽物の血を全身に送る。
その死んでしまいそうなほどの痛みが、俺を無言で突き動かす。吠える気力など無い、足を止める道理など更に無い。
音が聞こえない。赤黒い絵の具で塗りつぶされた視界の中で男たちが慌てた様子で叫んでいるのが分かるが、その声は耳に届かない。
聞こえるのは、一つ自分の声だけ。それすら、実際に声を放っているのか、心の声なのか判別がつかない。
消えろ、クズ共。扉と同じく砕け散れ。不快なんだよ、その存在が。分かったか? 分かったならば、疾く死ねよ。
「死なないなら――俺が殺してやる」
声に反応したかのように、無音の世界に、新たな音が加わる――風切り音だ。
風切り音、何かが動き風をきる音、風の悲鳴。
悲鳴をあげさせているのは、でっぷりと肥えた傷だらけの男の拳。武器を使ってこない辺り、咄嗟のことで判断が鈍った間抜けか。
頭が弱ければ、力も弱い。拳に速度が乗っておらず、そもその速度が遅鈍極まる。
映した瞳は右側頭のか。順番を前後して、自分の持つどの瞳が拳を映したのかを理解する。
豚が、傷跡なんてこさえてないで解体作業に戻ってろ。
左手で右拳を受け、槍先が如く右の肘を尖らせる。
ほんの僅かに歩幅を縮めて一歩、目の前を豚のヒヅメが横切るのと同時、右の肘が豚の鼻面に突き刺さる。
地を蹴れば前へ進むように、必然、豚の図体に相応しい衝撃が体に反ってくる。が――
「"万変流格闘術:暖簾に腕押し"」
その一切を体内の半固体部分で受け止める。ズルズルと顔面をひしゃげさせた豚が、血を潤滑油にして地面へと崩れ落ちる。
ズシャリと、肉が崩れて擦れる音を最後に世界は再び静かになる。
お陰で壊れた耳でも、遠くでブツブツと呪いめいた声がかすかに聞こえた。
慣れた動作で無意味に腕を振り、体内に仕込んだ投げナイフを"圧縮"によって射出する。
殺人者の刺突剣と呼んでいるのに関わらず、突き刺さったのは心臓でも脳天でもなく、右肩。
ほんの少しだけ残った理性が、俺の照準をずらしているらしい。先の肘打ちも、先端を牙でも骨でも変化れていれば――本当に、この理性とやらは鬱陶しいことこの上ない。
フォンと、再び風があげた悲鳴に応え、左肩に付けた瞳の目蓋を開けば、軽鎧を雑に着た男が斬りかかってくるところだった。
剣未満、短剣以上と言った、室内用らしき剣で放たれるその斬撃を短剣の柄で受け止め、動きの止まった所で剣の腹に破城撃。
クルクルと円を描きながら、その剣は服を着ようとしていた別の男に当たって、地面に落ち甲高い金属音を鳴らす。
目を見開く男を無視して前へ進む。ただし、踵を必要以上に床に打ち付け、石の破片を男の体にめり込ませるのを忘れずに。
進む、進む、前へ進む。と、嫌な音が聞こえた気がする。ので、少し足早に次の一歩を踏む。
足裏が地面をついた途端、背中を熱が過ぎ去ったかと思えば、肩甲骨のあたりから血が吹き出す。
別に構うようなことでもないので、流したまま前へ進む。
進んでいると、また斬りかかってくる男が居たので、こちらに来た勢いのまま、背後に回っていた魔術光を放つ男に放り投げる。
いつの間にか、弩から放たれたらしい矢が体に幾つか突き刺さっているが、やはり構うことでもないので歩みは止めない。
こうして時に無視して、時に迎え撃ち、時に先手を打って、彼女の元へと進み――。
――やがて、鉄格子の前へと辿り着く。
近寄っても、彼女は彼女で、他のだれでもなく、見間違いでもなんでもなく、紛うごとなきイレーナ=ルートナイが目の前に囚われている。
押し寄せる絶望、怒り、虚無感、哀しみに崩れ落ちそうになる体を支え、鉄格子の中へと入る。
近くで見た彼女は、確かにボロボロで、猛る炎の強さと暖かさを思わせる赤髪を、優しさ含んだ涼やかな目元を、一本筋の通った高い鼻に花弁のような唇を、小振りながら形の整った胸を、スラリとそれでいて女性特有の柔らかさを持った脚を汚されていた。
――だが、その瞳はまだ死んでいない。確かな意志を持ってこちらを見つめていた。
その眼差しに、ようやく冷静さを取り戻していく。零れ落ちそうになる雫に赤黒い絵の具が灌がれ、世界は色を取り戻して行く。
ほっと笑みを浮かべるの抑えられないまま、彼女の瞳を見つめ返す。
瞳に映る色は――――――焦り。
よくよく見れば、彼女は懸命に俺に何かを訴えている。焦燥が俺の胸奥から沸き上がってくる。
彼女は何を見ている? 俺じゃない? 俺の――――――。
音がようやく世界に戻り、声がついに耳に入る。
「ルフト、聞こえないのか!? お前の後ろに、敵が――ッ!」
最後に感じたのは、紙で切った時みたいな身の竦む鋭い痛み。
一分にも満たない歩みの果てに、熱だけが残った体から、その熱が見る見る間に、首から吹き出る血液とともに、流れだしていく。
最後に見たのは、泣き歪む彼女の顔。
最後に聞いたのは、
「へぇ、見掛けによらねぇじゃねぇか、色男」
愉しかったぜ、とパチパチと気のない拍手の音だった。
2014年3/6 改稿完了