(いつかのひと欠片)
マーロが風の町で過ごし始めて、すでに十年近い歳月がすぎた。
すっかりこの山の気候にも慣れ、町の人々にも受け入れられて、変わらずあの明るい笑みでフィンネルを癒している。
神殿の宿木たちの世話をして回っていると、昼を告げる鐘が響いて頃合いを告げた。
「おとうさん!」
栗色のやわらかな髪を躍らせて、木々の合間を駆けてくる声にフィンネルは振り返る。同時に、飛び込んできた小さな体を難なく受け止めた。
そのまま慣れたもので腕に抱き上げて顔を覗き込む。
「リンデル、茶葉の支度は終えたのか?」
「うん! うまくいったよ」
「それはよかった」
金の目を輝かせて得意げに胸を張るのに、フィンネルは笑って頷いた。
腕に乗せたまま神殿の回廊へ出て、祭壇を後にし、白い石段を下りていく。昼には一度家に戻ってマーロの手料理を味わうのが日課である。
それはマーロが宿屋の手伝いに行き始めても、リンデルが産まれてからも変わっていない。
竜人は長寿であり生存能力も強い。だから子供ができにくいという特徴があった。それなのに、マーロは出会ったあの日の言葉を守るかのようにリンデルを身ごもり、今こうして三人で暮らす日々を与えてくれた。
「ゆうがたにおいのりをしたら、のめるようになるんだって。いのりのまで、おきよめ」
「老師によく教わっているな」
かつてフィンネルも若芽を摘み取り、茶葉となる支度をし、祈りを捧げていたことを思い出す。その懐かしさと、リンデルが同じことを受け継いでいることに目元が和らぐ。
フィンネルの血を濃く受け継いでいるリンデルは、魔力も高く、まだ小さいが基本的にフィンネルについて神殿へと通っていた。魔力の使いかたや精霊たちへの祈りも身につけることが必要だろうと、フィンネルとマーロで相談して決めたのである。手始めに、茶葉を作る工程にかかわっているところだ。
階段を下りたところでぴょんとリンデルが腕からとんだ。ぐらつくことなく地面に降りると、早くと急かしながら家のほうへと駆けていく。
遅れまいと足を速めると、家の扉を開けて飛び込んでいく小さな背中が見えた。
「おかあさん!」
「おかえ――おわっ!?」
走った勢いは少しもゆるまないまま、リンデルがマーロの胸目がけて地を蹴る。
家へと入ったフィンネルが急いで手を伸ばしたが、リンデルはマーロに飛び込んで皿を並べていたマーロが受け止め切れずに床に倒れる。
「マーロ!」
皿の割れる音、倒れる音、ぶつかる音。
リンデルを抱えた格好で床に倒れているマーロを助け起こすと、いたたたと顔をしかめて笑ってみせた。
「びっくりした。おかえりなさい」
「切れている。リンデル、大丈夫だ。どいていなさい」
目を丸くして固まっているリンデルを起こし、マーロを抱えて魔法を使う。精霊の助けを借りて傷をふさぎ、打ち付けた腰と腕を癒した。
「リンデル――」
身を強張らせて立っているリンデルにマーロが声をかけたけれど、フィンネルはそれを遮って彼女を寝室へと運んだ。傷が癒えても急激な変化に体がまだ追いついていない。少し休むことが必要だった。
眉を寄せると、横になったマーロに眉間を突かれる。おかしそうに笑っている彼女に、フィンネルは憮然とした表情で休むように言い含めた。
「……おとうさん、おかあさんはだいじょうぶ?」
扉の向こうに、小さな体がもっと小さくなっていた。
フィンネルは膝をついて身をかがめる。栗色の髪をぐしゃりと混ぜて頷いた。
「ああ。もう治っている」
「いたくない?」
「マーロに聞いてごらん」
うつむいているのに、尖った唇と潤んだ瞳がそこにあるとフィンネルにはわかった。
ぎゅっと服の裾を握って、リンデルが小さな声をこぼす。
「……どうしておかあさんは、けがばっかりなの?」
まだ、生を受けて四年。
父にしても大丈夫なのに母は大丈夫でない違いなど、小さなリンデルにはよくわからないのだろう。これまでにもこうしたことは度々あった。力加減や感覚は自分で覚えていくしかない。
やわらかな髪から腕を下し、フィンネルはリンデルをまっすぐと見下ろす。
「リンデルとは違って竜の血はもっていないからだ」
「りゅうのち」
「獣人、エルフ、人間、いろんな人が暮らしている。みんなそれぞれ強いところと弱いところがあって、竜は体が丈夫で力も強い。でも、マーロは人間だ。心の強さはあっても、体と力は弱い。だから、お互いにうまく暮らせるように合わせることも必要だ」
瑞々しい琥珀色の目が一心に見上げてくるのに、ゆっくりと首を振る。
「抱きつくことが駄目ではない。やりすぎなければ、マーロも怪我なんてしないということだ」
転んだだけで彼女が死ぬと、いつでもどこでも心配ばかりしていた自分の言葉とは思えないが、少なくとも沈み込んでいたリンデルの希望になったらしい。
大きく頷いたのに合わせて、後ろにある寝室の扉を開けるとリンデルが急いで枕元に駆け寄った。
「おかあさん、いたくない?」
ぴたりと立ち止まって、そっと見上げるリンデルへマーロが満面の笑みを浮かべて頷く。
「ぜんぜん。お父さんが治してくれたよ。リンデルは痛いところはない?」
「うん」
「本当に強いんだねえ」
感心したようにそうこぼして、マーロはリンデルの頭をわしわし撫でた。
その手に元気をもらったのだろうリンデルが、きゅっと引き結んだ唇をゆるめて上目にマーロへ抱えていた疑問を口にする。
「おかあさんにとって、ぼくのぎゅーっは、いたいのになっちゃうの?」
リンデルなりに先ほどの言葉を受け止めていて、ふたりの様子を扉のところから見守っているフィンネルはかすかに笑みをこぼした。
ちらりとマーロの視線が向けられたのにも肩をすくめる。
「そうだねえ。でも、力いっぱいじゃなければ痛くはならないよ。――リンデル、お父さんから教わったの?」
「うん」
「そっか、たくさん考えてくれたんだねえ。ありがとう」
小さな角のある額を撫でられて、リンデルはくすぐったそうに目を閉じた。
まだリンデルは家と、宿屋と市場と、神殿を行き来するくらいしかできていない。これからもっと町を歩き回り、人々と接する機会が増えていけば世界が広がっていくことになる。
そのときに、自分と相手が違うことが当たり前であると思えるようになってほしい。人間であるマーロを母に持つのだから、否応なしにでも種族の違いをリンデルも目の当たりにすることになる。
小さな手が、マーロの手をきゅっと握った。
「……けがしないで?」
おそらく、あの手にはほとんど力は込められていない。
マーロがやわらかに目を細める。
「うん、気をつける。だから、リンデルも一緒に知っていこうね。お母さんだけじゃなくて、町にも世界にもいろんな人がたくさんいるよ。みんなと無理に仲良くならなくてもいいけれど、上手にお付き合いするにはどんな違いがあるのか、どんな人たちなのか、自分で知っていくといいよ」
金の目がマーロを見つめて、向けられた言葉へ一心に耳を傾けている。
「なにか間違えちゃったらごめんなさいすればいいし、知らなかったら覚えればいいんだよ」
「それでぜんぶうまくいく?」
「うーん、全部はもしかしたら無理かも。だって、相手がどう思うかはまた別だから」
「きらわれちゃったら、それでおしまいなの?」
「おしまいにしたくないって思うときは、歩み寄れるように頑張るかなあ。でもね、それってリンデルだけじゃなくて相手の気持ちもあるから。気持ちを変えるって、うーんと大変」
マーロも、リンデルに言いたいことや伝えたいことが多いようだ。
彼女は置いていく身。
普段そんなことを気にした様子を微塵も見せないが、彼女も彼女なりに思うことがあるのだろう。いつでも明るく胸をあたたかくするマーロの言葉が、リンデルの心に少しでも残ったらいいとフィンネルは思う。
「全部一度にやらなくていいよ。一個ずつでもいいんだよ。そして、困ったときは助けてって言ってね。お母さんもお父さんも、ほかにもたくさん、リンデルのこと大好きな人がいるからね」
大きく頷いたリンデルは、マーロを見て、それから後ろに佇むフィンネルのことも振り返ってから、もう一度自分で頷いてなにかを決めた。
瞬きをするマーロにリンデルが口を開く。
「ぼく、たくさんがんばって、おとうさんみたいにまほうをおぼえるね。そうすれば、おかあさんがけがしちゃってもなおせるし、ほかのひとも、ちょっとでもたすかる?」
「うわあ、リンデルはやさしいねえ。ありがとう、いろんな人がきっとあなたを頼りにするよ」
そのときの、リンデルの満足そうで輝いた顔といったら。
フィンネルはマーロと目を合わせて、どちらともなく微笑んだ。
「それじゃあ、遅くなっちゃったけどお昼にしよう」
「ぼくみずをくんでくる!」
マーロがベッドからゆっくりと立ち上がると、それを待たずにリンデルが一直線に扉へ駆ける。
フィンネルのことも追い越して、廊下へ出て玄関が開く音まで続く。
部屋の中に唐突に静けさがやってきた。しばらくの沈黙を破ったのは隣に立ったマーロだ。
「竜ってみんな賢いの? わたし、あんな小さいときにこんなこと言われてもわかった自信ないんですけど」
半ば呆れたような、それでも感心しているような不思議な表情でマーロが言うのにフィンネルはまた肩をすくめる。自分のときがどうだったのか思い出そうとしたが、記憶が薄れて定かではない。
マーロの腕を取り、居間へと向かう。リンデルが戻ってくるまでに割れた食器を片付けておかねば。
「おとうさーん! はやく、ごはんにしよ!」
はやくたべて、まほうおしえて!
家の外に回っているリンデルの声が窓から届いて、マーロが楽しげに声を上げて笑った。
「フィンネルさん、これは忙しくなりますね」
「そうだな」
リンデルがこの先をどうやって歩んでいくのか、わからないけれど。
道を示す者になれるよう、フィンネルも気を抜くことはできない。
茶葉を作る流れのほかに魔力と魔法をどう教えようか。司祭や老師にも相談しよう。まだ早いと思っていたが、どうやら知らぬ間に機は熟していたようだ。
マーロの料理を腹に収め、リンデルがしっかり汲んできた水で茶をいれて、今日もまだ励まねばなるまい。
片付けを終えて、宿屋へ行くマーロと家の前で別れた。
夕食を囲むころには、昨日にはなかった話題で食卓が賑わうのだろう。弾む足取りで神殿を目指す小さな姿に目を細める。
やわらかな風に、栗色の髪が撫でられているのを眺めながら、フィンネルは似ているようでまたとない一日を噛み締めるのだった。
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