2. 言葉ウラハラ
ふわふわと浮かぶような心地よさに、イソラはこのままずっといられたいいのにと願ってしまう。しかし、そんな甘えが許されただろうかと一瞬考えて、布団から飛び起きた。
カーテンが開いたままの窓からは朝陽が差し込んできている。慌てて時計を見て、まだ家を出るには余裕があることにほっと胸を撫で下ろした。
「え、もう起きたの」
どこか面倒臭そうな声に、イソラは固まった。ぎこちなく声のした玄関の方をみて、頭が真っ白になった。
「……あ、えっと。え?」
「一晩で昨日の事を忘れたとか、ないよね」
燃えるような赤い髪が、部屋の奥に差し込んだ一筋の太陽の光を浴びて金色に輝いている。その瞳に秘められている熱い色が静かなのを見て、記憶が戻ってきた。
「お、おはようございます! ちゃんと覚えています、朝ご飯を用意しますねっ」
いきなり布団から立ち上がったが、掛け布団に足を取られ、顔から床に倒れてしまう。鈍い音と鼻に鈍痛が走り、目に涙が浮かんだ。
鼻を押さえながら顔を上げると、アロイスの端整な顔が冷たい視線を湛えてイソラを見下ろしていた。途端に恥ずかしくなり、頬が熱くなる。
誤魔化し笑いを浮かべながら、朝食の支度を始めた。同時に身支度も整える。朝の時間は手際よく家事を済ませなければ、学校に遅刻してしまう。
そこで、ふと洗い物が綺麗になくなっている事に気付いた。昨日、洗物をした記憶がない。
よくよく考えてみれば、布団を敷いて布団入った記憶もなければ、寝間着に着替えた覚えもない。
不思議に思いながら、二人分の簡単な朝食を並べる。すると、大人しくイソラの行動を眺めていたアロイスが食卓を眺めて、静かにスープを交換した。
「嫌いなものが入ってましたか?」
「君、昨日もそんなに食べてないよね。ぼーっとしてさ。こっちを食べなよ」
「ありがとうございます。実は洗い物をしなかったような気がしたんですが、綺麗になっていて……食事の後の事をよく覚えないんです」
イソラが考えながら言うと、アロイスはイソラの顔を覗きこんできた。綺麗な瞳が、長い睫に縁どられてキラキラと輝いている。その美しさにイソラは息を吞んだ。
「顔色、あんまりよくないみたいだけど。それよりも重大な事がある」
そう言ってアロイスはイソラに手を伸ばしてきた。頬に触れられるのかと体を強張らせて、緊張に目をきつく閉じたが、その手はイソラの頭を優しく撫でる。
「寝癖、酷いの気づかなかったの? 身なりはきちんとしてもらわないと、一緒に歩く俺の身にもなってよね」
「す……すみません……」
言葉には棘があるが、イソラの髪を撫でた手はとても優しい。
その行動に驚いたせいなのか、イソラの鼓動は早鐘を打っている。動揺を隠そうと、アロイス用に用意した具が多めのスープを慌てて飲もうとして、食卓にひっくり返してしまった。
零れたスープはたちまち食卓の上を侵食し、イソラの制服まで汚してしまう。慌てて立ち上がっても、もう遅い。
後には床に敷いたカーペットの上に沁みを残し、スープを入れていたお椀が転がっているだけだった。
「アロイスはかかりませんでしたか? すみません、今拭くものを持ってきますっ」
「いいよ。大丈夫」
慌てるイソラとは対照的に、淡々としているアロイスは立ち上がろうとしたイソラの腕を掴んで、指を鳴らした。すると零れたスープが、食卓に戻ってきたお椀の中へと戻っていく。
カーペットに広がっていた沁みも、制服を濡らしていたスープも綺麗になくなっている。鮮やかな魔法に唖然としながら座り込むと、またアロイスはスペルを使っていないことに気付いた。
アロイスはイソラのファミリア・スピリットだが、人型の精霊はSSランクにしか召喚出来ないと聞いている。とても自分がそんな高い能力を持っているとは信じがたい。
それどころか、やっとCランクで留まっている状態だ。そんな自分が喚び出したアロイスは、何者なのだろうと、イソラはアロイスを凝視していた。
だが、見れば見るほどアロイスの美しさに呑み込まれてしまう。イソラは頭を振って呑み込まれそうな思考を振り切った。
「そういえば、イソラは学生でしょ。俺の認識だと、ここから魔法学園までは結構時間がかかるんじゃない?」
「鉄道で一時間です」
「そう」
「はい……」
アロイスは何のことを言っているのだろうと、何気なく時計を見て声を上げた。家を出なくてはならない時間をとうに過ぎている。
「大変! 急がないと!」
食事もそこそこに、鞄を引っ掴み家を飛び出す。駅までは全力で走り切り、ギリギリで鉄道に飛び乗った。息切れのする背中で鉄道の扉が閉まる。
鉄道は満員で、イソラはそのまま身動きが取れなくなってしまった。それでもなんとか授業には間に合いそうで、ほっと息を付いた。
だが、その途端イソラはサッと青ざめた。片付けも洗濯もしていない。それどころか玄関の鍵をかけてきたか定かでない。そこまで思い立って一気に血の気が引いた。
慌てすぎて、アロイスを置いてきてしまった。契約者とファミリア・スピリットは常に一緒に行動をしなくては、契約の力が弱まり、折角喚び出しても契約が自然解消されてしまう。
扉の窓に張り付くと、すでに電車は走りだし、風景は後ろへと流れていく。
額を窓に貼り付けて見送っていると、荒んでどこか暗い雰囲気のある風景からセントラルに近づくにつれて、徐々に灰色のビルが目立つようになり、歩道や路面が整備されて清潔な印象を与える町並になってくる。
「ここまで離れちゃったら、もう解消されちゃったよね」
もう一度喚び出せるとは限らない。もしかしたら、最初で最後だったかもしれない。
「てゆーか……全然ファミリア・スピリットって感じしなかったよぉ」
「だろうとは思ってたけどね」
「アロイス!? っわわ!!」
驚いて声を上げた瞬間、カーブに差し掛かった車体が揺れ、イソラはアロイスの胸に飛び込むように傾いてしまった。
慌てて離れようと体を起こそうとしたが、アロイスの腕が優しく背中に回っていた。戸惑いにイソラが顔を上げた先には、アロイスの面倒さそうな顔が見つめ返していた。
「あ、ごめん……」
「別に。変に動かないでくれる? 混んでるし、暴れられる方が迷惑」
「は、はいっ」
言葉は冷たいがアロイスの行動にはイソラを思いやっている優しさがあった。
誰かに抱きしめられることなど経験したことのなかったイソラは急にアロイスを意識してしまう。
細身に見えるようで、実際はしっかりした胸板やすぐに振りほどけてしまいそうな腕は以外にもイソラをちゃんと固定してくれている。
イソラの頭二つ分上にはアロイスの燃えるようでいて、冷たい目をした顔があるのだろう。
顔を上げることも、満員鉄道内のアロイスの腕の中で身動き一つ出来ないイソラは、当然の様にアロイスの目の前で着替えをしていた事を思いだした。
時間ばかりを気にして、アロイスを全く気にしていなかったのだ。急に耳まで真っ赤になってしまう。アロイスは見ていたのだろうか。
そっと視線を上げると、ばっちり目があってしまう。
「なに?」
「い、いえ……なんでも……」
「家の方はちゃんと片付けておいたから。洗濯物も干してあるよ」
「えっ!? あの、洗濯も、ですか?」
「うん。何か問題あった?」
「問題って、あの色々……」
首まで真っ赤になって答えに窮したイソラにアロイスは口元を歪めて笑う。
「どうしたの? 今朝はいきなり目の前で着替えだしたんだから、今さら気にすることないでしょ」
イソラが気にしていた事をズバリと言われ、何も言えずに口をパクパクさせるしかない。
「それに、昨日だって誰が布団まで用意して運んだと思う?」
「っ……!!」
つまりは着替えまでアロイスにやってもらっていたらしい。
あまりの恥ずかしさにイソラはアロイスの服を引っ張り、その胸に顔を押し付けた。出来る事ならこのまま穴に埋めてほしい。恥ずかしすぎて死んでしまう。
「ちょ、止めてくれる? 変に動かないでって言ったでしょ」
「いや、でも……はい……」
「全部スペルを使ったから、心配しているようなことはないよ。ただ、いきなり目の前で着替えられたら、対応のしようがないから。一言言ってよね」
その言葉にイソラは弾けるように顔を上げた。
「はいっ。ありがとうございます」
よかったとばかりに安心したイソラは、にっこりと満面の笑みを向けたが、アロイスはスッと鉄道の窓に映る景色に目を逸らした。
その横顔が少しだけ、不機嫌そうに見えたのは気のせいだろうかと思いつつも、イソラはアロイスの優しさに感謝するのだった。




