1. ファミリア・スピリット
イソラ・ミナミは、王立魔法学園校内にある巨大な時計塔の短針にしがみ付いていた。空は晴れ渡っていたが、ドームの中にあるこの中央都市、セントラルの空は作りものだった。
このドームのシンボルでもあるセントラル中央のビル、ダアトは作りものの空を突き刺すかの如く天へ向かって、三棟並んでそびえ立っている。夜にもなれば、地上からの光に照らされ、ビルはさながら要塞の様に闇夜に浮かび上がっていた。
だが、今のイソラにはそんな事はどうでもいい事だった。
作りものの空を見上げるイソラは目に涙を滲ませ、恨みさえ込めた視線で天を一度睨んだ。ビル風が吹きすさび、必死に時計塔の短針にしがみ付くイソラの体を揺らしていく。
高所の恐怖に鳥肌が立ったその時、時計の針が鈍い轟音を立てて時を知らせた。ドォンと鳴る鐘の音に、しがみつく短針に頭を押し付け、体に響く音に呻きながらも叫んだ。
「なんで、ただの浮遊術が……。誰か、誰か、助けてぇ!!」
イソラは、まだ時計塔で感じていた恐怖が体を支配しているのか、体が僅かに震えているのを感じながら、魔法学園の廊下を歩いていた。周りからは先ほどからちらちらと視線を感じているが、それは日常茶飯事だった。
今もイソラの耳にその内容が届いている。
「あ、あの子だよ。時計塔まで飛んで行ったの」
「浮遊術のスペルって、簡単な方だよね。どうやって間違えればそうなるの」
このセントラルにある魔法学園に、イソラは辺境の地アリアドネから入学した。ドーム外からの入学はこれまでに前例がなく、それだけで注目の的となったイソラだったが、注目の理由はほかにもある。
イソラは父と一緒にセントラルに行商へ来た際に、魔法能力適正検査を受けていた。その能力検査で彼女は、スペルランク最高のSSランクにも匹敵する数値を出していたのだ。
その結果を知った学園側から是非にと乞われ、イソラの異例とも言える魔法学園入学が決まったのだった。
イソラの両親は喜び、貧しいながらも何とか入学金を集めて入学させてくれたが、魔法学園に入学してすぐにイソラは自分の能天気さに打ちのめされた。
学園で学ぶスペルは付いていくのがやっとで、スペルランクは落第間近のギリギリCランクだった。周りの落胆は火を見るより明らかで、そんなイソラは奇異の目と注目に晒されて、入学して一年が経とうとしているのにも関わらず、親しい友人の一人も未だに出来ずにいた。
そんな状況でも耐えられたのは、両親の喜ぶ姿と落胆させたくないという思いからだった。
そして、今日のイソラの醜態も瞬く間に噂となって広がっていた。あまりの情けなさに、俯いて歩いていたイソラは重い溜息を一つついた。
「随分と大きな溜息だね。大丈夫?」
穏やかな声にイソラはハッと顔を上げた。
「ヨージフ……」
「元気がないのは、噂話のせいかな。時計塔は高かっただろう?」
イソラは優しい眼差しのヨージフに苦笑いを浮かべる。きっと噂を耳にして、イソラを心配していたのだろう。探していたような素振りは全くないが、それがヨージフの優しさだった。
ヨージフ・ヴィユギンは穏やかで、スペルランクはAランクの成績を誇っている。いつもイソラを助けてくれる彼は、ギリギリでCランクに掴まっているイソラの為に、担任教師がイソラ専属で付けてくれた教育指導員でもある。
だが、入学してすぐにヨージフにスペルを教わるようになったにも関わらず、イソラの成績が上がる兆しは全くない。
「情けないことに、通常運転といいますか……」
がっくりと肩を落としたイソラに、ヨージフはふわりと笑う。
「今日より明日、だよ。ほんの少し、数センチ、数ミリでもイソラはちゃんと毎日成長してるよ。自信もって」
「ヨージフ、ありがとう」
ヨージフの言葉で何度助けられたかわからない。だからこそイソラはスペルを操れるようになりたいと感じていた。どうしたらヨージフの様になれるのだろうと、身長の低いイソラが見上げているといつもとは違う違和感を感じた。
「あ、そうか。ヨージフがネクタイを緩めてるなんて珍しいね」
「え? ああ、シャツのボタンが取れちゃって、緩めるしかなかったんだよね」
「じゃあ、私が付けてあげるよ。裁縫はちゃんと出来るから。取れたボタンある?」
下に妹弟のいるイソラは、破れたシャツやズボンの裾直しをよくやっていた。セントラルへ来てからは独り暮らしをしていることもあり、家事も得意だった。
これは誇れるとばかりに、ヨージフにボタンを出すよう手を差し出したが、ヨージフは言い出しにくそうにしている。
「ボタンなくしたなら、別のボタン探すけど」
「いや、なくしてはないんだよ。なくさない様にピグに預けてあるんだ」
その言葉にイソラは反射的にヨージフから飛び上がる様に離れ、窓際の壁に張り付いた。
ヨージフのファミリア・スピリットは、イソラが最も苦手とする、体長二十センチにもなる巨大なヒキガエルだ。
ファミリア・スピリットとは、使い魔の事で、体の一部を与えて使役することができ、能力の高さによって使役できる者が変わってくる。
学園には爬虫類はもちろん、小動物を使役している生徒もいる。さらに上位になると精霊を使役できるらしい。
「外に、出してる?」
震えながら聞くと、ヨージフは苦笑しながら首を振った。
「そんなに怖がらないで。瓶に封印しているから大丈夫だよ」
その言葉にほっと体から力が抜けた。いくらヨージフのファミリア・スピリットとはいえ、昔からカエルだけは本当に苦手だった。
そんなカエルが預かっていたボタンなど触れるはずもない。
「ボタンは新しい物をつけるね」
「うん、そうしてくれるとありがたい。スペルを使ってもいいんだけど、やっぱりちゃんとつけないと長持ちしないみたいだ」
休み時間のあいだ、イソラはヨージフと他愛のない話をして過ごした。もうすぐ予鈴が鳴るという頃あいになって、ヨージフは思い出したようにイソラに向き直った。
「イソラはまだファミリア・スピリット出せてないの?」
ぎくりとしてイソラは固まってしまう。ファミリア・スピリットを持てていないのは、高等部ではイソラだけになっていた。
そして、いまだにファミリア・スピリットを喚びだすことが出来ずにいる。
「練習は何度もやってるんだけど、変な刺激臭の霧がもくもくしてるだけで、何も出てこないんだ」
スペルは何度も確認しているから見違ってはいない、喚びだす手順も間違ってはいないはずだが、すべて失敗に終わっていた。
「今日もバイトが終わったらやってみる」
「でも、今週中にファミリア・スピリットを使役できないと退学だって言われてなかった? 大丈夫? 俺も手伝おうか?」
心配そうに言われ、予鈴が鳴り始める中、イソラは大丈夫と伝える。
「バイトが終わるのは遅い時間だし、ヨージフの寮からは遠いから。それに、私一人の力でやってみたいの。だって私のファミリア・スピリットだもん」
イソラの決意にヨージフは納得したのか、まだ少し心配そうな笑みを浮かべながらも頷いてくれた。
魔法学園ではすべての生徒が学園の寮に住んでいる。ランクの高い生徒は学園周辺の寮に入れるが、ランクの低い生徒は学園から離れた場所にある寮に住んでいる。
ギリギリCランクのイソラは寮から学校まで鉄道で一時間もかかる場所に住んでいた。
通学だけでも疲れてしまうが、イソラは両親への負担を少しでも減らそうと、寮の近くにあるパン屋でアルバイトもしていた。
その日も授業が終わると、一時間だけヨージフに勉強を教わり、鉄道に飛び乗り、アルバイト先へと向かった。
イソラはパン屋に来るお客さんと話すことも好きで、どんなに疲れていても笑顔が自然と溢れていた。そんな合間を縫って、まだ見ぬファミリア・スピリットは何が出てくるだろうと考えると、楽しくなってくるのだった。
作りものの空が夕日に染まり、徐々に闇に染まるころ、くたくたになりながらも、イソラは寮の近くにある空き地へ向かい、円を描いてスペルを書き記していく。
「できれば、うさぎとかリスが出てきてくれればいいんだけどなぁ。カエルが出来たらどうしよう」
そんなことを一人ごちながら、果たして喚びだすための魔法陣が出来上がる。後はここに自分の血液を垂らせば、ファミリア・スピリットが現れるはずである。
「よっ、よし……」
意気込むと指先にカッターナイフを押し付ける。ごくりと生唾を呑み込んでイソラはカッターナイフを握る手に力を入れて、思い切り引いた。
「いった! ん? あれ、もしかして結構深くいったかな」
左の人差し指の腹が綺麗にぱっくりと開いている。しばらく見ていると、じわりじわりと血が滲みだし、瞬く間に溢れて滴り落ちた。
熱と共に痛みが遅れてやってくる。
「ちょ、痛い! あ、血が!」
指を伝って血液の数滴が魔法陣へと落ちていた。傷の深さと血の量に気を取られていたイソラは、魔法陣から噴き出した霧に驚いた。
「また霧!? ファミリア・スピリットは!?」
刺激臭の強い霧に、悲しくもないのに涙を流し、鼻水を啜るイソラは血が止まらない指を抑えたままどうすることも出来ずに、霧が引けていくのを待つしかなかった。
「君が、契約者?」
誰もいないはずの夜の空き地に人の声が木霊する。イソラはこの刺激臭の霧が他の人に被害を及ぼしてしまったのかと、辺りを見回した。
だが、霧と涙で視界が滲んで何も見えない。
「あの、すみません! 今は、ちょっとどうにもできなくて、でも何とかしますから!」
それだけを姿の見えない相手に向かって伝えると、イソラはそのまま激しく咳き込んでしまう。
今日の刺激臭は昨日よりも濃いらしい。咳をするのにも苦しくなって、息を継ぐように顔を上げると、頭がくらりとして体が後ろへと傾いて行った。
人に迷惑をかけたまま、倒れるわけにはいかないと意識を保とうとしても、頭は真っ白になっていった。その瞬間、体がふわりと浮くような感覚に包まれる。
苦しかった息が急に楽になり、うっすらと目を開けると、辺り一面を占めていた刺激臭の霧も吹き飛んでいく。
「いきなり目の前で卒倒とか、やめてくんない?」
冷たい言い方の割にはイソラを支えている腕は優しい。涙が引いて、視界が開けると相手の顔がはっきりと見えた。
真っ赤な髪がまるで燃えているようなのに、その瞳は赤い宝石をはめ込んだように静かに熱い色を秘めているのに、視線はどこか冷めていた。
少し神経質そうに、でも整った眉が不機嫌そうに少し歪む。
「聞いているの?」
「あっはい。す、すみません……あの……」
慌ててもがくように支えてくれていた腕から起き上がろうとしたが、その腕に力が入りイソラの体はそのまま動けなくなってしまう。
どうしたのだろうと恐る恐る見上げると、急に左手を取られた。
「結構深いね。加減ってものを知らないの?」
軽く力を入れられただけでも痛みが走る。左手の人差し指は熱を持ち、未だに血が滲んでいた。
「っ! これは、何でもなくて」
「何でもないわけないでしょ。じっとして」
呆れた様に言われ何をされるのか、イソラは恐怖を感じて手を引いたが、しっかりと握られた左手はびくともしなかった。
そして、血まみれになった指ごとぱくりと口に咥えられ、思考が一瞬止まった。
「応急処置しかできないけど。とりあえず傷口は塞がったから」
まるでなんでもないようにさらりと言われ、イソラはひっと息を吸いこんだ。
「きゃあっんんんん!」
叫んでいた口はいとも簡単に押さえつけられ、抵抗しながら暴れてもびくともしない。だが、イソラは恐怖でいっぱいになっていた。
目の前の真っ赤な髪をした人物が変態に見えてしまう。
「こんな所で大声あげないでよ。まるで俺が変質者みたいになるでしょ。はぁ……」
深い溜息をつかれて、イソラは暴れるのも叫ぶのも止めた。明らかに呆れられている。
冷たい視線を送られて、冷静を取り戻したイソラは解放され少し離れると、改めてまじまじと赤い髪の男を眺めた。そして咥えられた左指からは、切り傷は綺麗に消えていた。
スペルを唱えた様子はなかったが、確実に目の前の人物はスペルを扱える。それも詠唱破棄でその力を発揮できる。
「あの、ありがとうございました……」
警戒心むき出しでお礼を述べると、大仰にまた溜息をつかれてしまった。
「なんで警戒するの。俺を喚びだしたの、君でしょ」
「……え、わ、私は……あの、喚んでない、です……」
「じゃあ、これは?」
男が指したのは、イソラが空き地に書いた魔法陣だった。だが、それはファミリア・スピリットを喚びだすためのものであって、人を喚びだすようなものではない。理解できずに、魔法陣と赤い髪の男を見比べた。
「君が俺を喚びだした。君は俺の契約者ってこと。わかる?」
「……ファミリア・スピリット? あなたが、私の?」
「そういうこと。で、名前は?」
「あ、イソラ・ミナミです」
「イソラね。俺はアロイス。よろしく」
「は、はい。よろしくお願いします……」
アロイスが手を差し出してきたので、イソラも反射的にその手を握った。すると「ちっさ……」と呟かれてしまう。
「っ、すみません」
戸惑うイソラの手を珍しそうに握り、アロイスは少しだけ笑ったように見えた。その表情が美しく、イソラはアロイスに見惚れてしまっていた。
「で、いつまでここにいるの? 家はあるんでしょ」
アロイスに促されて、イソラは慌てて頷く。周りを見回したアロイスが少し不機嫌そうに顔を歪めたのを気にしながらも、イソラは寮である自宅アパートへと案内した。
外装は古すぎて、所々がはがれ、二階建ての階段を上がれば、手すりには錆が浮き、足元の階段も腐食が進み、心許ない。アロイスは驚いているだろうとそっと背後を窺がうと、案の定声も出ないほどに唖然としてアパートを見上げていた。
「ここに住んでるの?」
「うん。ボロボロだけど、あの……部屋は綺麗にしてるので」
イソラの言葉にアロイスは興味のないように「ふーん」と反応しただけだった。
イソラの部屋は六畳一間でお風呂は付いていない。二日に一回のペースで近所にある銭湯へ通っている。部屋の中は生活に必要なもの以外は置いていない為、物が少なかった。
イソラ自身、学業とアルバイトで疲れきって帰るので、寮には寝るためだけに帰っているようなものだった。
「あ、お腹空いてますか? あるものしか出せないですけど、何か食べますか?」
鞄の中には、アルバイト先のパン屋で貰った売れ残りの惣菜パンが二つある。パン屋のオーナー夫妻はイソラの事をとてもよく気にかけてくれていて、よく売れ残りのパンをイソラに譲ってくれていた。
生活に余裕のないイソラにとってはとてもありがたい事でもあり、夫妻の心遣いにいつも感謝していた。
冷蔵庫を覗き、残っている食材で作れるものを考える。すぐにエプロンをつけて一人用の狭いキッチンに立った。
「あ、嫌いなものありますか?」
「……いや。わざわざ作るの? 材料が揃ってるのなら、スペルを使えば?」
アロイスの言うことは最もだったが、イソラはぎくりとして胃が笑いを浮かべた。
「そう、なんだけど……スペルは苦手というか。それに、ちゃんと作った方が料理は美味しいですよ」
料理には自信がある。にっこり笑って拳を握ったイソラだったが、アロイスの反応は先程と同じく薄いものだった。
だが、手際よく一人用の小さなテーブルに並べた手料理には驚いたように目を見開いていた。質素ながらも、工夫を凝らした手料理を小皿取り分けると、アロイスはゆっくりと口に運び、咀嚼し飲み込む。
感想を期待して、アロイスをじっと見つめているとふいっと視線を逸らされてしまった。
アロイスの反応から、気に入らなかったのだろうかと、少し落ち込んでしまう。肩を落として箸を動かした時だった。
「……まぁ、悪くないんじゃない?」
いきなりの言葉に、イソラはきょとんと顔を上げる。まるで何事もなかったように、アロイスは黙々と箸を運んでいる。
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」
奇妙な会話に、アロイスが照れ隠しをしてるのだと理解すると笑いがこみ上げてきた。美味しいのなら素直に言えばいいのに、とイソラは笑いを噛み殺してむせてしまう。
必死に咳きこんでいると、アロイスに怪訝な目で見られてしまった。
「なにしてるの」
「なん、でも……ごほっ! なんでも、ないです」
なんでもないわけがないとでも言いたげに、アロイスは頬を少し赤らめてイソラを軽く睨んでいたが、なぜかイソラは可愛らしいと感じてしまっていた。
いつもよりも賑やかで明るい食卓に、イソラは故郷での暮らしを思い出した。
食事は質素ながらも、賑やかで兄弟喧嘩が絶えなかった。いつも妹や弟の仲裁をしながらも、イソラは時おり自分の食事を分けたりもしていた。両親はそれを知って、こっそりと小さなお菓子を時々くれることもあった。
そんなことを思い出していると、弟妹たちの顔がちらついて、イソラの胸にせつない痛みがこみ上げる。
「……変な顔してる」
アロイスに指摘されてハッとする。食卓に並んでいた料理はすでに綺麗に平らげられていた。
「あ、おかわりですか?」
「いや、もう大丈夫」
表情は乏しいが、アロイスは満足しているようだった。それを見たイソラは少し気が抜けたのか、どっと睡魔におそわれるのを感じた。大きなあくびが出そうになり、それを噛み殺して耐えると、瞳に涙が浮かぶ。
「疲れてるね。寝た方がいいんじゃない?」
「でも……後片付け、しないと……」
だが、イソラはそのまま意識を手放してしまった。




