【後編】 虎さんの話
魔界には、多くの魔物を統べる四人の頂点が存在する。その四人の魔物を、四大魔王と言う。魔王とは言っても、治世を行うわけではなく、ただ強さでは魔界のトップ4であるというだけである。
その四大魔王の内の一人に、炎を纏った虎の姿をした魔王がいた。炎虎と呼ばれたその魔王は、その強さだけではなく気まぐれなことでも有名であった。気まぐれに魔物を殺し、気まぐれに大地を割り、気まぐれに昼寝をする。まるで炎のように感情や考えを揺らめかせ、近づくものを破壊する。そんな炎虎に、魔界の魔物達は恐れ慄いた。
そんな炎虎は、今気まぐれに日向で昼寝をしていた。いつも薄暗い魔界の中でも、一番日当たりがいい場所に陣取っていた。周りには当然魔物の姿はない。
無闇に炎虎に近づき、気まぐれを起こされて殺されでもしたらたまらないからである。
そんな炎虎が、スヤスヤと惰眠を貪っていると、遠くの方から足音が聞こえてきた。
その足音に、炎虎はスッと細い目を開け、凶悪に笑った。
炎虎が気まぐれを起こし、その足音の主を殺そうと思ったのである。
すくっとその巨体を軽やかに起こし、炎虎は伏せながらジリジリと足音の方へと進んでいった。瞳はギラつき、舌なめずりを何度も繰り返す。そして、茂みの中にその巨体を隠すと、ジッ……と獲物が来るのを待ち構える。足音はどんどん近くなり、あと少しで炎虎の餌食となる。だが、その時である。
「……っ!!」
足音が、止まった。それまで軽快に進めていた歩を、突如として止めたのである。炎虎は訝しんだ。炎虎はどれだけ気まぐれであろうとも四大魔王の内の一人である。そこらの魔物に気配を察知されるようなヘマはしない。炎虎の気配に気づける者など、それこそ他の四大魔王くらいであろう。しかし――
「…………」
獲物は動かない。まるで石像と化したかのように、獲物は一歩たりとも炎虎に近づこうとはしなかった。それどころか次の瞬間、獲物は炎虎に背を向け、全速力で走り去って行った。
その姿に、炎虎は呆気に取られた。炎虎ならば、あの程度のスピード、すぐに追いつける。別に今からでも追いかけて、その背中を爪で切り裂くことなど容易い。しかし、それよりも炎虎は、気になることがあった。
あの獲物は、炎虎の存在に気づいていたのである。四大魔王の一人である、炎虎の気配に、ただの魔物……それも、人の体に羊の角しか備わっていない最弱の魔物が。
炎虎はその瞬間、腹の底から笑い出してしまった。今まで生きてきた中で、これ程の衝撃はなかった。今まで感じたことがない程の衝撃を感じながら、炎虎はあの魔物に興味を持った。果たしてあれば、偶然であったのかどうかを確かめたくなったのである。
ニヤニヤと笑う炎虎の眼下には、あの羊角の魔物がいた。魔物は、キョロキョロと辺りを警戒しながら、歩みを進めていく。
どこからどう見ても、ただの弱い魔物である。しかも、今現在、上から見下ろしている炎虎に気づいているような素振りは一切ない。やはり、前回のあれは偶然だったのであろうか。
そう思った炎虎は、魔物に対しての興味が失せ、代わりにいつもの気まぐれでなぶり殺そうと思い立った。スッと瞳に殺気を滲ませると、魔物はビクリと体を硬直させた。
まさか、殺気に気づいたのか?と炎虎は考えたが、それにしては炎虎の方を見ようとしない。不穏な空気を感じ取ったにしても、周りを見渡す素振りもない。
ほんの少し爪で撫でてみるか……と、炎虎が考えた瞬間、魔物はその場を飛び退いた。
「!?」
唖然とする炎虎を置き去りにし、素早い動きで飛び退いた魔物はそのまま元来た道を遁走していった。その足には迷いがなく、危険から遠ざかっていることを確信している足取りだった。訳がわからないのは炎虎の方である。あの魔物は炎虎の気配に感づいたわけでは決してなかった。さらに言えば、殺気に気づいたわけでもなさそうであった。では、一体何が彼女の身を守っているのか。炎虎の中に、興味以上の関心が生まれた瞬間であった。
その後も何度も彼女の姿を観察し続け、炎虎はある仮定を組み立てた。彼女は、命の危機に対して何らかの予知能力があるのではないだろうか。炎虎が近くにいても気づかないが、殺そうと思った瞬間に彼女はその場から逃げ去る。それは、危険を具体的には予測できないが、近づいていることに気づいているということだろうと推測できた。
何度も何度も彼女との実験を続けている内に、炎虎は彼女のことを色々知ることができた。名前はストレイ。危険を予知する何らかの能力を持っているが、それ以外は目立った能力を持たない。戦闘能力は皆無。それ故に、他の魔物との接触最小限に留めている。そしてとても――孤独である。
炎虎も孤独である。あまりにも強く、気まぐれである故に、彼の周りにずっといてくれる者などいない。まったく正反対の存在であるにも関わらず、二人にはまったく同じ心の穴があった。そして炎虎は、そんな彼女に一方的に共感を持っていたのである。
ストレイを観察していたある時、ストレイは行く先々の街で危険を察知して、食料の調達ができない日が続いていた。危険から逃げ続けた彼女は、やっと次の街に辿り着くが、街の入口で二の足を踏んでいる。おそらく、この街にも危険を感じたのだろう。だが、彼女はこのままではどうせ餓死してしまうと判断し、街の中に入った。
炎虎も、そんな彼女を追い掛け、街の中にソっと入り込んだ。食料の調達をする彼女を眺めながら、炎虎は考えていた。いくら危険予測の能力があっても、食料調達などやむを得ない事情で危険に近づかなればならない時がある。いつか、そのやむを得ない危険の中で彼女は死んでしまうかもしれないと。
この時には、すでに炎虎の中には彼女を殺そうという気は欠片もなかった。それどころか、彼女を守りたい、彼女と共にいたい、という想いが日に日に育ち続けていた。
だが彼女は弱い故に孤独を選ばざるを得ない。炎虎も最初は彼女を守ってやると言って彼女に近づこうと考えた。しかし、危険予測という身を守る術を持っている彼女には『安全』はエサにならないことに気がついた。いつ殺そうとしてくるかわからない他人といるよりも、危険予測ですべての危険から離れたほうが彼女にとっては都合が良いのだろう。
今までにも、彼女の用心棒を名乗り出た魔物はいたが、そのすべてを彼女は断っていた。
だから炎虎は、彼女に守られることを選んだ。
どんなに自分で安全を確保しても、心は守れない。孤独は彼女の精神をどんどんすり減らしていく。しかし、自分より強い存在など、弱い彼女にとっては危険でしかない。何故ならば、彼女の身の守り方は危険に近づかないことなのだから。
強い者として近づけないのならば、弱い者として近づけばいい。
彼女よりも弱い……絶対的な庇護対象だと思わせればいい。そして、彼女の心に居座り、孤独を癒す存在として彼女の心に取り付けばいい。
そうすれば、ストレイは炎虎を手放せなくなる。永遠に、一緒にいることができる。
暗い路地裏で自らの体を人の見かけに作り変えながら、炎虎は笑った。
これからの、孤独ではない人生を想いながら、炎虎は笑ったのだった。