花姫と夕星の騎士
マリーが喫茶店でニーナと打ち合わせていた、その日の朝。
隣領では、王宮から女王陛下の任命書を携えてきた使者を迎えての交替式が執り行われた。
任命書に署名し、ユールが受け取る。この瞬間、ウィルのこの地での役目が終わった。
二人で視線を交わすそこに、もう最初の頃のよそよそしさはない。お互い黙って頷いた。
「騎士殿に、陛下よりねぎらいのお言葉を賜っております」
口伝らしかったが、忘れないようにだろう、使者は紙切れを取りだした。
「ユール=クリスタ卿、記録に残らぬ営みにも価値を見出せたのならば、就任最初の仕事は前任者へのはなむけを頼みたい」
「は」
それは、隣の騎士を追い、多くの出会いを果たした今のユールの心を、見透かし、深く揺さぶる言葉だった。
女王の力に畏れながらも、後半が分からない。
「ヴィルヘルム=フェイザー卿。まず、これを」
ずっと手に持っていたようだ。ポンとウィルの手に乗せられた、握りこめるほどの、それは、赤い実。
「忘れ物をしてはいまいか。時期でないゆえ花でなく許せ。…以上です」
固まってしまったウィルに、隣に立つユールが近寄ってその実を見て。
「あっはっは! 陛下、マジすげえ!」
爆笑した。会場に集まる大勢がぎょっとする。マジすげえって言わなかったあの騎士様?
ざわつきを抑え込むようにユールは姿勢を正し、まさしく騎士の態度で宣言した。
「陛下のお言葉があり、私ユール=クリスタは、フェイザー卿に今この時から本日一日の休暇を与える!」
ばん、とウィルの背中を叩く。ウィルはハッと正気に返って、その目には強い光が宿る。
「ユール」ユールは何も言わせるつもりはない。
「行け! 明日の出発までにケリつけてこい!」
目で頷き、ウィルは駆け去った。困惑する大勢に、ユールは今こそオッサンに借りを返してもらう時だ、と愉快な気持ちでニッコリ笑った。
「この後の予定は全て中止。陛下のご指示ですから、フェイザー卿もかまいますまい。さて、皆さん…理由、知りたくないですか?」
知りたいですっ!と期待を込めた目をして真っ先に立ちあがったのは、窓際のコップを知る領事だった。
* * *
のんびりとした午後の喫茶店に、白いマントを翻し、正装の青い騎士服で長剣すら下げたまま現れた若い男は、大勢の女性客の中、明らかに、かつ際立って浮いていた。
「マリー、誰と?いつそんな話に」
必死の形相で見つめる先には、驚き過ぎて表情のないマリー。
「ちょっと待って! 落ち着きなさいよ!」
ザワッと周りの空気が変わったことにいち早く気付いたニーナは、ウィルをにらんで慌ててマリーを立ち上がらせる。
「これは、私の話、マリーじゃない。だから、こんなとこで恥かかせないで早く行って!」
マリーはようやく我に返って、ウィルとニーナを交互に見返す。
「な、なんでここに」
「わかった。済まない邪魔して。いいか?」
ウィルは痛くない限界の強さでマリーの腕をとり、ニーナに声をかける。
こんなに余裕のないウィルは初めてだ、とニーナはため息一つで許した。
「後でお礼を期待してます。私も帰るから、こっちは気にしないで。マリーも、ちゃんと話してきて。明日行くから」
「ニーナ」「行くぞ」
マリーは混乱したまま連れ去られた。通りから馬の蹄の音がした。
「中身はアレなのに、やることが派手なのよ…」
どうしろと言うのだ、この店内の黄色い声を。早く退散するに限る!
豊穣祭の前に、マリーとここで交わした会話を思い出し、ニーナは帰り支度をしながら、笑った。
「予想が外れたわ。さすが騎士様、だなんて、あの朴念仁に使いたくないけど…」
きっと明日は良い報告が聞けるだろう。
* * *
とりあえず、誰も来ないところに行くから、黙って乗って。
馬に引き上げられて、すっぽりマントで覆われて、マリーは街はずれの良く知る木の下に連れてこられた。馬の脚は早く、落ちないように必死にしがみつく間に場所に着く。
ウィルの熱いほどの体温に、領地からまた休まず走ってきたと知る。
(来てくれた、会えた)
何故だろうと思う前に、ウィルを側に感じるだけで、嘘のように気持ちが湧き立つ。
我慢していた分、ひどくなってしまった気がした。
「寒いのに外でごめんな。これ被って」
慣れた様子でマリーを降ろし、ウィルは白いマントを脱いで、店に上着を置いてきてしまったマリーに巻きつけた。
青い騎士服は首元を緩めていたが上背のある体によく映える。舞踏会以来の姿は、マリーにはどことなくやつれて見える。忙しかったんだろう。
マントを掻き合わせ、見上げたマリーを、ウィルも、ゆっくり見渡した。
「無理に連れてきて、ごめん。…変わりなかったか?」
白い手袋を取り、ウィルはマリーの乱れた髪をそっと梳いた。
マリーは優しい仕草に胸がきゅっとなりながら、笑顔で頷いた。
「うん。元気よ? ニーナの結婚が決まって、色々手伝うのに忙しくなったくらい。ウィル兄さんはちょっと痩せた? 急に来たからビックリした」
「ああ、交替式で急に休みがもらえてな」
ウィルの手は、マリーから離れず、髪を繰り返し撫でる。いつにない行動にドキリとするマリーに、ウィルが痛むように微笑む。
「マリー。会いたかった」
熱いため息のような声と揺れる視線。こんなウィルを、マリーは知らない。
「会いたかった、あれから、ずっと」
マリーの後頭部に止まった手にわずかに力がこもり、一歩マリーに近づいたウィルの胸に、額がそっと触れる。マリーの頭に顔を寄せたウィルが髪に口づけたが、ドキドキしていたマリーは気付かなかった。
「本当に、あれはマリーの話じゃないのか?」
結婚話のことを確認されて、マリーは頷く。
「そうよ。ニーナとリュセックの長男。昔、手紙に書いたでしょう?」
やがて思い出したのか、ああ、あの喧嘩相手、とホッとするウィルがおかしくて、マリーは頬を寄せて、自分からウィルの胸にもたれた。
(そんなに気にしてくれるなんて、ヤキモチみたい)
途端に、背中に腕がまわり、頭の手にも力が入り、マリーはぎゅっとウィルに抱きしめられた。
「良かった。もしかして間に合わなかったのかって、こんなに焦ったことない」
(な、何、これ)
初めてだった。ウィルが、自分の感情をこんな風にマリーにぶつけたことは一度もない。
さらに体を押しつけられて、マリーは耳元でとんでもない言葉を聞いた。
「マリーが好きだ。結婚してくれ、俺と」
「は?」
マリーが身じろぐと、ウィルの腕の力が緩んだ。ウィルの胸に手をついて離れると、その手を握られる。それはまるで離さないという意思表示のようで、マリーはドキンドキンうるさい自分の心臓がその手に掴まれてしまったような錯覚を起こす。
ウィルはもう片方の手でマリーの頬に触れる。自然に見上げたマリーに、ウィルは繰り返した。
「結婚してほしい」
まっすぐに見る視線が、優しいだけではなくなっていた。
「な、なんで」
「お前が、好きだから」
「ど、どうして」
「どうしてって…マリー、ちゃんと聞いてるか?」
ひたすらにうろたえるマリーに気付いて、ウィルは苦笑いで額同士をコツンと合わせる。
「わ!…ち、近いよ」
マリーはとにかくオロオロしていた。頭の先から足の先まで湯気が出ている気がするくらい。
(こんな、こんなの予想してないもの!)
でも、頬も手もウィルの手につながれて、下がれないのだ。
「可愛いなあ」
「や」どうして今そんなことを!と思うマリーの額にチュ、とウィルが口づけた。
「ひゃ」
マリーが動揺するほど、ウィルは気持ちにゆとりが出たらしく、親指でマリーの頬を撫でた。
「マリー、俺が何言ったか、言える?」
いつもの距離感のウィルが戻ってきて、ヘロヘロになりつつも、マリーの頭に隙間ができた。
でも、それを言うのには、非常に気力が要った。
「わ、私とけ、結婚したいって」
「なんで?」
「…す、すき、だから」
口にすると、本当に言われたのだと胸に落ち、余計にマリーは混乱する。
ウィルがホッとして笑った。
「聞いてたな。良かった、一世一代の告白を無視されなくて」
「でも」
「兄貴面してたのにどうしてって、言うんだろ?」
苦しそうにウィルは告げた。
「自惚れてたんだ。祭りの日、マリーとトーニに気付かされた。あいつは俺の知らないやり方で、周りが羨むくらいにマリーを喜ばせてた。俺が一番近くにいて、一番お前を守ってると思ってたのは勘違いで、単にマリーが俺の側にいようとしてくれてただけだったって。実際、マリーが動いてくれなかったら祭りに一緒に行ってもやれない。騎士になってからは、会うっても家ばかりだ。それも、俺の都合ばかりで、マリーが待っていてくれるのを疑ってもなくて。いつまでもそれが続くと思いこんで、甘えて、ワガママなのは俺の方だって、気がついた。マリーが俺を守ってくれてたんだ」
「そんな」
ウィルの指が、マリーの唇に触れて、止めた。
「まあ、聞けって。順序が逆になったな。昔からずっと、俺は一度も妹だと思ったことはない。でも、周りを黙らせるのに丁度良かった。好きとか嫌いとか、そんな単純な気持ちじゃないんだ。…と、思ってた。小さくて、可愛くて、レオンや先生みたいに、俺もお前を守ろうと思った。マリーが俺を頼ってくれて、ありがとうって、全身で嬉しいんだって笑うのが、どれだけ俺の自信になったか、きっとお前には分からないだろうな。騎士になろうとした時も、お前だけが俺なら絶対にできるって信じてくれた。数え切れない。マリーが俺にくれたものは」
初めて聞く、ウィルの思いに、マリーは心を覆う何かが剥がれ落ちたような気がした。
「男とか女とかじゃなく、とにかくお前が大事で、きれいなまま笑ってもらえるように、守りたかったんだ。汚したくなかった。レオンや先生に顔向けできないと思った。でも、思い知った。お前を守る騎士だって、自惚れてたんだ。トーニに嫉妬した。俺も他の奴らと変わらない。俺はただ、お前が欲しいだけだって」
「そんなことない!」
ウィルの苦しそうな顔を見ていられず、マリーは強く遮った。
「ずっと守ってくれた。一緒にいてくれた。私が一番欲しい時に、一番欲しいものをくれた。ウィル兄さんは、私の一番の騎士なの。自慢の騎士なの。ずっと、昔からずっと!」
言い募るマリーに、ウィルはふわっと笑った。あの、宝物を見るような、眼差しで。
「ありがとう。こうやって、俺の心を守ってくれるな、いつも。俺はマリーがいないと、すごく情けなくなる。あの夜も、追いかけたかったけど、お前に返せる覚悟がないと思った。お前の気持ちの整理がつくまで、せめて騎士の仕事を全うして恥ずかしくないようにしたかったけど、毎日お前に会いたくて、手紙を待ってた。全部強がりだ。マリー、とにかく…お前は妹じゃない。伝わったか?」
食い入るような視線を、マリーは逃げずに受け止めた。
「うん」
「俺にはマリーが必要だ。ずっと一緒に、一番近くで、マリーと暮らしたい」
「うん、私も」
視線が近づく。いつの間にか、マリーの腰にウィルの手が添えられて、引き寄せられる。
「愛してる。結婚しよう」
伝わる気持ちに、ふるり、震えたのは、マリーの体だったのか、心だったのか。
眼差しを合わせたまま、マリーは微笑んだ。
「…はい」
近づく顔に、ドキドキしながらも、キスするんだろうと目を閉じたマリー。
二つ呼吸したろうか。
「………」
それ、が来ないので、あれ?と目を開けたら、超至近距離、まっ正面のウィルと、まともに目が合った。
「うわ」
ウィルの顔が離れる。
「ば、ばか、目を開けるな」
一気に真っ赤になったウィルに、マリーも恥ずかしくて言い返す。
「だって!お、遅いからっ!」
言ったら、もっと恥ずかしくなった。
「遅いって、だってお前、そりゃやっぱためらうものがあってだな。自分が守っていたものを自分が犯すというか」
「お、犯すっ?!」
声がひっくりかえりそうだった。
「ちが、違う、変な気持ちじゃない、キスしかするつもりないし!」
「そ、そう、キスだけですか!」
最早何を言っていいのか分からない。
抱き合って頬に手を寄せた体勢は崩さず、ウィルとマリーは真っ赤な顔でジリジリ見つめあい。
は、と笑ったのはウィルが先だった。ぷにっとマリーの頬をつまむ。
「何やってんだ、俺たち」
「ウィル兄ひゃん」
抗議の声をあげると、そう、それだ、とウィルはつまんだところを撫でた。
「そもそもマリーがそう呼ぶのがいけない。もう、兄さんは禁止な?」
「ウィル兄さんじゃなくて…ウィル?」
照れたマリーだったが、ウィルが満足そうによし、と頷くので、もう一度ウィル、と声に出した。
「…もう一回、言ってくれ」
はにかんだ笑顔が可愛い、とマリーは嬉しくなって、大切な名前を、笑顔で呼んだ。
「ウィル。…大好き」
よ、と言おうとした唇は、ウィルのそれで塞がれ、マリーは急いで目を閉じた。
* * *
空に宵の明星が灯る頃、二人を待っていたライハルト夫妻は、門の開く音を聞いた。
「遅かったな」
「それは、野暮ってものでしょう」
書類を取りに来たライハルトが、偶然、駆けこんで来たウィルに会ったのは、夕暮れよりだいぶ前だ。
『マリーに、会いに来ました。先生、俺、マリーに結婚を申し込みに来ました』
まあ、と喜んだのは、横にいた妻。
『でもあの子、今ニーナと喫茶店で打ち合わせの最中なの。宣誓式の』
驚いて言葉の継げないウィルに、ライハルトが何か言うより先に、妻は『昔からよく行く店よ。急いで!』と声をかけて追い出した。確信犯。ライハルトはウィルに内心で謝った。
「…寂しくなるな」
ライハルトは、プロポーズの成否を疑わない。何しろ、ウィルはマリーを守りたくて騎士になったのだ。それは、なぜ騎士を目指すのか聞いた時の、ライハルトとウィルだけが知る誓いだ。
体を冷やして戻ってくるだろう二人のお茶を準備しながら、妻は笑ってライハルトにキスをした。
「いいじゃない。孫が楽しみになるし、夫婦水入らずを、楽しみましょうよ」
* * *
かくして結婚へとこぎつけた二人ですが、それぞれ多忙の為、
転居の準備や仕事の調整で最近まで離れて過ごしていました。
結局、私の結婚宣誓式に二人で参加し、その足でこの街を離れました。
今はきっと、初々しくも相変わらずで過ごしていることでしょう。
さて、この出演依頼は、断られないと思っております。
今度、私が企画演出する二人の結婚宣誓式の出し物にて、
寸劇をお願いしたいのです。拙作ですが、台本案を同封いたしました。
すでに二人にはアナスンおじ様に声をかける了承は得ております。
観客の顔ぶれをご想像いただければ、今回の報酬は十分でしょう。
――騎士は「兄」の仮面をかぶらなければ姫を守れなかった
――姫は仮面があっても一途に騎士を思い、捨て身で仮面を取り去った
こじつけですが、『花姫と夕星の騎士』に通じると思いません?
そんな思いつきから、寸劇のタイトルを決めました。
では、報告は以上です。お返事を首を長くしてお待ちしております。
麗しの皆様のますますのご活躍をお祈りして
ニーナ=ウェスベック 』
長い報告を書き終え、夕暮れ、遠い街にいる友人を思う。
ニーナの結婚宣誓式を盛り上げてくれた二人は、それは幸せそうに寄り添っていた。
虹色のイルシェラブルーメの花冠を「次はあなたたち」とマリーにかぶせた時の、あの笑顔。
(絶対に、マリー、あなたの式も、忘れられない式にしてみせるわ!)
ライバル同士の結婚で、お互いの親族がどうしてもギクシャクしていたニーナの式を、マリーは逆手にとって盛り上げた。
『はい、どうぞ~』
ぴ、と軽やかに鳴らす笛と、それぞれのテーブルの上には山積みのパイ。
クリームたっぷりのパイを半ば本気でぶつけあうという壮絶な時間の後は、皆、グチャグチャのまま、お腹がよじれるほど笑い合った。ニーナは夫の髪からクリームをどけながら泣いた。あんまり、幸せで。
「遠く離れても、あなたは、私の一番の親友よ」
風にキラキラと舞うイルシェラブルーメに、祈りを込めて。
ニーナはもう一度内容を確認してから、ペンを置いた。
* * *
緑が目に鮮やかな青山節の初めに、マリーとウィルは親しい人たちに祝福されて無事に結婚宣誓式を執り行った。多くの騎士や関係者が集い、豪華な顔ぶれではあるが、温かい笑顔にあふれた、感動的で素晴らしい式だった、と人々は噂を聞いた。
また、今をときめくアナスン劇団が『花姫と夕星の騎士』の幻の原作を手に入れ、その式でお披露目したとも噂が流れた。
とある騎士が気絶しかけ、もう観れない止めてくれと頼んだという。号泣必死という大絶賛を受けながら、やんごとない事情により、たった一度の上演で門外不出とされたその新演目。
「たしか、『ミルカ姫とホニャララの騎士』って言ったかな、かなり史実に近い内容らしいよ」
噂が噂を呼び、アナスン劇団の評判に拍車をかけたのは、また別の話。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
心から、感謝いたします。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。